side B/written by Hana/subtitle 双子愛

 

 愛は傷つけ合うこと。いつくしみ合うことと
同義で、傷つけ合いもする。憎しみと愛も離れられない一卵性、のようなもの。

 彼のお家の二階は、彼の為だけの空間として成り立っている。この家は絵の具で彩色されているみたい。いつも光っている。その光の家の二階の浴室で、私達はひっそりと魔術を行っている。

 

 私達の間に横たわる、銀色のドイツ製のナイフ。変わりばんこに腕を、左腕の肘の内側を真一文字に切る。二人でしているのに、 切る時は一人の意識になる。武士の道の心構えで集中して息も塗り潰して互いに殺める覚悟で、切る、切る。切る、また切る。 重ねて切り続ける。

 

 痛くはない。傷口が深まっていく程に痛くなくなっていく。だから限度がわからなくなる。 
 彼は冷静さを以って「今日はここまで」と言う。今日は、ここまで 。明日はどこまで?愛の行く末、導く先はどこにあるのだろう。 それは天国だと想う。

 

 冷んやりとしたタイルの上に座っている。透明な洗面器の中に私達の血がボタボタと溜まって行く。これ以上ないくらいの、ひとつ。 私達はひとつ。セックスより余程に完全なる、具現化。

 

 きっと誰も、神様も天使も妖精も、ありとあらゆる霊的な存在も生きてる人間も、私達を切り離せない。

 

 彼は聖書の聖の字が名前になっている。最初は、「ひじり」と読むのかと思っていた。クリスチャンのご両親の宝ものであって、 名の通り聖なる人だ。隣人を助けること。 規律に従って生きること。
 求められたままを実現する。


 テストは満点しか取らずに、生徒会を当たり前に率いていく。私は彼の陰で守られているだけ。

 「たから」と最初に呼んだ時、彼はじっとこっちを注視した。ドキドキするような、すごい目だった。魂まで視透かそうとするみたい な。

 

 話すようになったのは、中学ニ年のクラス替えで隣の席になったから。それだけ。
 けれど話すことが多く生まれて、毎日が楽しくなった。彼のおかげで。
 たからとしか、話せない話をしていた。よく見る夢の話。闇の歴史や音楽史・美術史の話。哲学の話。


 たからは、本をたくさん読んでいた。話すきっかけも、彼が読んでいたナチスドイツのエースパイロットの本のことが、始まりだったりした。

 

 静かな声で一定のトーンで、優しく話す人だと思った。心が落ち着いている。さざなみも立たない、透き通った湖のような。

 

 私は、たからがすぐに好きになった。好きに……というと少し違うのだけど、離れたくなくなってしまった。ずっとずっと一緒にいた い。

 

 話をしていると、話が尽きなくて時間がどんどん、飛びすさってい く。
 部活の後、公園で話をしていたら夕方になるのを待つ感じではなくて、夕方が追って迫って来てしまう感じ。たからは、夕方になると最初の頃は、「もう遅いから送って行く」と言っていた。 その内に「もう遅いから家に来れば良い」という言いかたになった。誘いでもなくて、なりゆき。

 

 昼休みの図書館、放課後の屋上、体育祭準備の合間の体育館倉庫、 文化祭の前の時期の生徒会室、二人で部長をしている卓球部の部室、帰り道の公園。それから、たからの家。彼の部屋。


 外で人前でベタベタくっつくことはしなかったけど、二人でいると、誰も近寄って来なかった。付き合ってると噂になっていたし、 私達が発している空気は、やっぱり変に甘いものだったのかも知れない。もしかすると、よくわからない悲愴感すらあったのかも知れ ない。

 

 たからと二人だけになると、自然とくっつきたくなる。お互いの体温を、お互いに知りたくなる。たからは特に唇で、それを知ろうとした。私の手の甲に、あるいは手のひらに、背中に、項に、頬に、 首筋に、髪にキスの小雨が降ってくる。


 彼といると、意識がぼおっと春霞のように遠のいていく。日向にいる心持ち。美しい時間。

 

 初めての繋がりを試すのに、あまり時間はかからなかった気がする。けれど実際は、四月に出逢って十ニ月にお互いの初めてを越えたのだから、けっこう慎重だった気もする。 それが果たされるまでの間、毎日のように触れ合っていた。 体が接していなくても、心は通じていた。

 

 けれど……

 

 一度寝てしまえば、男の子にとってはそれが当たり前になるようだった。それをするのは毎日、毎日になった。
 私は時々いらいらして、八つ当たりもしたし彼を試しもした。


 今日はお腹が痛いから、明日にして。と言っておき、わざと彼の目の前で挑発の為だけに、自慰の素振りをしてみる。彼が一人で済ませたら嫌だから、気持ち悪いことをしないでね。と言っておく。


 なぜなのか、なぜそんなことを言ったりしたりするのか自分がわからない。ただ、私には嫌な思い出があった。

 

 6つの時。
 おり紙を、ほしかった。
 母が再婚した人は、買ってあげるからと代償としてコップの中に唾液を吐き出して
 飲めと言った。

 

 思い出した瞬間、私は吐いた。
 たからが咄嗟に両の手のひらで、吐瀉物を受け止めようとしてくれた。何で、そこまで……?してくれるのかと思う。 喉に絡まった胃液の苦さ、痛みで激しく咳込む。


 丁寧に、たからは唇と頬を拭いてくれた。寒いかと聞かれる。寒くない。
 たからと出逢ってから、私の魂は寒くない。

 

 たからの家に頻繁に泊まるようになったのは、私の家が変だってことを気付かれてから。
 たからは私の家に来たがったのだけど、一度だけ連れて行ったら、それ以来閉口してしまった。


 自治体の「雇用促進住宅」に住んでいた。狭いので、家では二世帯借りていた。私はお姉ちゃんと住んでいたけれど、たまにしかお姉ちゃんは帰って来ない。帰って来ても、彼氏を連れて来る。


 たからの家に比べたら、本当にひどいものだった。自分の部屋より、たからの家の車庫で眠りたいくらい。
 たからが私を見つけたのは、捨てられた猫を拾ったのと同じくらいのこと。

 

 たからのパパとママ、ご両親は優しかった。私はお父さんお母さんと、最初から呼んだ。たまにパパ、ママと呼びたかったけど私の真実のパパは、天国にいた。ママはどっかに働きに行っていて、 たまにしか帰って来ない。


 ママは変わった人だった。霊能者と呼ばれていた。山育ちで、「山に呼ばれる」とよく言った。山に呼ばれるのは、死ぬという意味に思った。だから怖かった。


 山の近くで働いていた。一度行った。その時の職場は釜飯屋さん。 店員をしていた。その次は温泉宿の仲居さんをしていた。着物を着ていた。派手なお化粧で、まるで水商売の人みたいだった。


 ママは社交的だった。色んな人の相談を受けていた。私が小さい時は、「知恵遅れ」と呼ばれる子供達を、家で預かっていたりした。

その子達は家で大暴れをしたから、私と姉は困っていた。

 

 パパが死んだのは、私が三歳の時。クモ膜下出血だった。私はパパの瞼を、指でこじ開けた。目がないというか、光がなかった。 白目で、瞼の内側はすごく赤かった。


 パパは天国に行ったけど、すぐ隣にいた。だから寂しくなかった。 ママは、でも、何年か寝込んでいた。三年くらい。


 どこで出逢ったのかわからないけれど、ママは次のパパを見つけて来た。変な人だった。初めて見た時、気持ち悪くて不気味な影を負っていると感じた。姉は絶対、その人をパパとは呼ばない。私は、 口だけでは呼んだ。思いを込めずに。そして、 心の中で天国のパパに謝った。

 

 家から、どんどんお金が失われていく。その人はパチンコ屋さんに通っていて、私もスロット台を打たされた。昔は、子供が打っていても何も注意されなかった。

 

 パパの遺産も尽きて、電気やガスは止まった。小四の時はまだ、お米だけはあった。小五になると、調味料もなくなった。


 給食と、友達の家で頂くご飯で生きていた。親身な友達が何人かいたし、特に親友の家ではお世話になった。

 

 姉は十四才で年をごまかして、スナックで働かされていた。時々、コンパニオンの仕事で遠出したりした。わかりやすく、姉は暴走族にも所属してた。わかりやすく、金髪の彼氏がいたけど、 彼氏はとっても優しい人だった。

 

 私は、ママの名義でテレクラのサクラという仕事をさせられた。大人っぽく話すことは、しなかった。その頃は、女子高生が援助交際を始める時代の、ちょっと前だったと思う。17才だとか、 適当に話した。普通に、OLや主婦設定でも話した。


 男の人たちは、あんまり声で判断出来ないらしかった。声が若い、かわいいと言われたのでとりあえず褒められたと思った。私は、褒められた経験が少なかっ た。


 彼らは会いたいと言うか、いきなり服脱いでとか言い出す。よくわからないから、絵を描いたり漫画を見たりしつつ適当に話した。 求められたのは、ピチャピチャ音とか喘ぎ声だった。だから、適当な効果音を作った。

 

 私は小四辺りから今でいうAV、昔はエロビデオだったけど……などを観せられていた。残虐な内容もあったし、小さな子が道具を使わされているような、かわいそうな内容もあった。今だったら、そういうビデオを持ってるだけでアウトなんじゃないかと思う。


 エロ本も同じく、大量に読まされた。写真だけのもあったし、小説もあった。わりと文が整っている本もあったり。


 色んな性の形を知ったのだけど、何で彼ら、本やAVの登場人物がこうなったのか、よくわからなかった。理由はない人もいるらしかった。実録の場合と、作り物の場合もあるけど。


 電話の仕事をしていると、何時間も話す人がいる。言葉で詰って、責めて欲しいという人。聴いていると、お母さんにいじめられて育ったと話してくれた。


 逆にドSだ、みたいな人もいた。そういう人も、よく喋っていた。けっこう難しいことを言っていた。口が回る哲学者のような人は、ドS傾向ぽかった。寡黙な哲学者は、Mの感じ。


 私は彼らの言葉を、なるべく丁寧に聴いていた。最後は会いたいとか、言葉で抜いてってなるけど。これも、一期一会だから。

 

 たからと出逢ったばかりの頃は、まだ仕事をしていた時期。
 たからといる時間が増えたら、だんだん、やりたくなくなった。だ って、たからはすごく大事に大事に接してくれたから。


 ああいう仕事は、自分の心を押し殺さないとならない。自分が在ってはならない。だから、常に相手優先にしていた。


 たからにも同じように、たから優先にしていた。そうしたら、たからは私の心の中を引き出そうとした。心を見ようと、努めていた。
 それは、たからがかけてくれる言葉だったり仕草だったり、全部に現れていた。愛情だけで作られた毛布に、いつもいつも、くるまれ ているみたい。幸せ、幸せだ、と何度も思った。

 

 たからはとても頭の良い人だった。勉強が出来るだけじゃなくて。 私の一つの言葉から、いくつもの意味を見出すようだった。
 そんなコミュニケーションの仕方を、する人を他に知らなかった。 私たちの間では、言葉が重要だった。

 

 たからの家と私の家との差がすごくて、頭が追いつかない。例えばだけど、家には飲み物もなかった。だから飲まなかった。蛇口から出る水は赤い錆が入っていて、カルキ臭いとかいうレベルじゃなかった。

 

 たからの家にいると、立派な外国のティーセットで、本格的なアールグレイだのダージリンだのが出てくる。当たり前な感じで、たからは紅茶を淹れる。お茶だけの時間がある。

 

 学校から帰って、きちんと私服に着替えて制服をハンガーにかけて埃取りなんかしちゃってるたからは、そういうふうに育てられている。身の回りを整えることは普通。

 

 温野菜のような前菜を、ナイフとフォークで食べなきゃで焦った。 本で見たことがあるような気がしたから、それでテーブルマナーは乗り越えた。

 

 たからのお母さんは、かわいくて面白い。上品な人。すごく、私のことをかわいがってくれた。普通、一人息子の彼女なんて嫌なんじゃないかな。粗探ししてしまったり。たからは、毎日くらいに私を連れて帰った。入り浸りだった。夕ご飯も出さなきゃだし、 嫌がられても仕方ないのに……。

 

 その内、服を作ってくれたり下着を買いに連れて行ってくれたり、 髪を結んでくれたりした。編み物やお菓子作りを教えてくれた。

たからはすぐ呼び捨てしたけど、お母さんは今でも〝華ちゃん華ちゃん、わたしの娘ちゃん、わたしの小さなお嬢ちゃん〟と言う。

 

 お父さんが特に厳しいと聞いていたんだけど、穏やかで温和な人だ った。たからと同じように感情が一定。怒ったり驚いたりしない。 客観性を常に持っているふうな。

 絶対、怒鳴ったりしない。 私がまだ子供なのに、敬意を以って話をしてくれた。 私の話も真剣に聴いてくれた。だから、自然に涙が出た。 お父さんに、少しだけ家のひどいことを話した。

 

 義理の父が、姉や私に抱きついてきたり服を破く話。お風呂を覗かれたり、日記を見られたり友達との電話を親機で聞かれたりすること。家に食事や暖房がないこと。制服やリコーダーや下着が売られてしまうこと。

 

 お父さんの顔がどんどんどんどん曇っていくから、それより他のことは言えなかった。姉の下着で、義理の父が自慰をすることとか。 陰部を見せられたりだとか。体液を飲まされる話とか。 させられている仕事の話だとか。叩かれて顔が腫れたとかもっともっとあるけど、言えない。

 

 話してたら、涙で前が見えなくなって言葉も出なくなって、息が出来なくなる。涙はポタポタ、フローリングに落ちてったくらいで、 お父さんは「もういいよ。よくわかったよ、華さん」と言った。

 

アイロンがピシッとかかったハンカチをくれた。涙を拭こうとしてくれたけど頭を撫でようとしてくれたけど、私がびくっとしたから、 それで全部察したふうだった。私は本当は、人に触られるのが怖かった。

 

 お母さんには、そういう話はしなかった。お母さんは、受け止められない人だと思った。お母さんが、病気になっちゃいそう。

 

 それに、性的な苦しみのことは遠い話過ぎて嫌に決まってる。 それに、それに、…… たからに近づくことが汚らわしいと思われる。お母さんがそう思わ ないようにしたとしても、心の奥底ではたからを汚さないでって思うんじゃないかしら。


 ご飯を頂いていたからか止まっていた生理が来るようになって、それまた溜まっていた血なのかどうかわからないけど、大出血した。 私は初潮から重かった。ママが子宮筋腫だったし姉も生理が重いから、遺伝なんだ。

 

 熱も出る。三十七度五分より高いから、微熱とも言えない。病院に連れて行かれそうになって、全力で拒否した。

 

 体に傷がたくさんあるのを、見られたくなかった。誰にも。たからには見られたけど、言わないでと口止めした。たからは口を噤んでいた。

 

 貧血で目が回って、天井がぐるぐるしている。トイレに行くにも立てないくらい。気分を見て、這ってトイレには行った。 

 

 お母さんは、お父さんが帰って来るまで家で寝ていてねと言った。 お父さんが帰って来た時、私は寝ていたらしい。次の日は学校を休んで、その次の日も休んだ。

 ずっとたからの家にいた。

 

 日曜日にお父さんが部屋に来て、寝たままお父さんに「パパ、 助けて」と言った。

 私は、お父さんにはそれだけを言えた。

 「まだ死にたくない」と言った。「パパに会いたいけど、 まだ天国に行けない」って言葉が出た。お父さんとパパがごっちゃになっていた。泣き過ぎてて、ちゃんと言えなかったけど。

 

 お父さんがそれを聞いて、涙を流した。大人の男性が泣くのを、初めて見た。


 学校や市役所、児童相談所に話が行ったけど
何か……無機質な人たちに何を言えば良いのかわからない。彼らには助けを求めるだけではなくて、されたことを逐一言わなきゃいけない。

そしたら今度は、その証拠が必要。 傷を見せないとならない。何でそんなことしなきゃいけないの。 同情なら、まだマシ。面白がったりする人だっているわ。 特に男が。

 

 20代の役所の男性に、パンツが売られるとかパンツのにおい嗅がれるとか何人も他の人がいる中で言えって?

 

 お父さんみたいな落ち着いた人だったり、初老の女性だったり、本当の専門家と一対一で話せていたら話したかも知れない。時代のせいだったのか、面倒臭がられてそれ以上聞かれなくて済んだ。 でも、それで良かった。言いたくなかった。恥だと思った。

 

 たからに出逢わなかったらと思うと、ぞっとする。確実に私は今ここに生きてない。
 たからは、あんまりにも、率直だった。私が愛して、と言ったらその通りにしようとした。でも愛って何なのか、私にも本当には、よくわからなかった。

 

 たからは、忠実に守ろうとしてくれた。

いろんなものから。

 悪夢を見て、飛び起きて、たからが誰だかわからない時があった。 二階で寝ていて、私の部屋になっていた一室をいつの間にか抜け出していて、たからの隣で寝ていた。

 

 たからが急に触ろうとして来たから、怖くて怖くて、窓から飛び降りようとした。凄い力で制止されて、それがまた恐ろしかったので、二階の階段の飾りみたいな柵を飛び越えた。

 

 お父さんもお母さんも起きて来て、電気がついて、両膝に湿布を貼って包帯を巻いてくれた。打撲だけで済んだ。痣はだんだん黄色と紫色になったけど、電気がついた時に「光の家にいるんだった」 と思い出した。


 たからの彼女であることに、相応しくないとならない。勉強を頑張った。ご飯を食べたり、靴を買って貰ったり、大事に接して貰ってることが力に変わった。

 

 今まで、最高でも学年で二十五番くらいにしかなれなかった。たからは一位から落ちることはなかった。問題を間違えるほうが変だと言った。たからはコンピューターみたいだ。たからに数学や理科の第一分野(化学や物理の部分)を教えて貰ったら、 八番くらいに入れるようになった。

 

 一緒の高校に行きたかった。たからが進学校の理数科に行くことは 、確実だった。理数科は逆立ちしても無理だから、 普通科志望にした。

 

 塾に行くことは出来ないし、今までも行ったことはない。
 ワークと新研究という、学校で配られる問題集を繰り返しやっていたら、お父さんが市販の問題集を買って来てくれた。


 英検と漢検を受けて良いと、お父さんが言ってくれたから、それぞれ三級とニ級を取った。

 たからは数検を受けていた。準一級は高校の理数科卒業程度。それを取得していたし、珠算は一級だった。英検はニ級を取っていた。 それも高卒レベルだったから、たからとは脳の仕組みが違うと思ってしまった。

 

 それでも、数検一級は理系の大学卒業程度だからなかなか取れないし、学者を目指すような子は十ニ才くらいで準一級を取るらしい。たからは「俺は凡人、天才ではない。 努力するしかない」と言っていた。

 たからと同じ高校に合格したから、努力すれば実るんだと感じた。


 私はたからの家で楽しく過ごしていて、勉強も頑張っていて、幸せに感じていたけど他の面では真逆だった。それと、物事には必ず陰陽がある。良い部分と、悪い部分が。

 

 ママが月に一度は帰って来たから、テストを見せたり描いた絵を見せたりしたくて戻った。ママはいなかった。 いる時もあったけど冷たかった。どっちにしろ、 置き去りにされた気持ち。心の中心から冷えていって、 早くたからに会いたくなる。

 

 仕事をしなくなったから、私からの収入が見込めない。義理の父は 私を裏切り者だと言った。何かの契約、したつもりなかったけど。

 

 ただの暴力については書けるけど、性の暴力については多くは書けない。あっさり話したり書ける人は、もう消化したのかな。消化出来ない種類のことだと思う。

 

 簡単に言うと、何度か「鞭打ちの刑」?だったのだけど、マジの鞭が出たこともある。しかも棘付き。真面目に死ぬと思うんだけど、 あれはジョークアイテムとして売られているらしい。

ベルトのほうが痛くない。金具が当たっても痛くない。骨に当たると、 振動や衝撃があるけど意識が飛ぶから痛くない。バカみたいなもん作るな、売るなと思う。


 性の暴力については本当に書けない。あったことの全部は神様にしか話さない。聞くほうも嫌だと思うから。

 

 たからのことを考えていた。たからには、言えない。言わない。たからは怒りを実行に移す。冷静に怒って、冷静に人を刺したりする 。しかも捕まらないようにやると思う。

 

 でもどんな悪人にでも手を下したら、それだけの毒を貰う。そのくらい何てことないと言いそうだけど、人が人を殺めることは大変な罪なんだと、 私は知っていた。


 お父さんやお母さんと、教会に行っていたからかも。たからはその頃、教会には行かなかった。教義が疑問だ、一人でしばらく考えたいと言って。

 

 それからパパを想った。パパは天国から見えるんだ。パパの嘆きや苦しみ。パパが私より痛い思いをするのなら、そっちのほうが悲しい。

 

 たからの家に入ると、目がくらむ。血が制服のブラウスに貼りついてる。このブラウスはお父さんが、新しく買ってくれたんだった。 お父さんに心の中で謝った。


 痛くなかった。たからに気づかれないように出来るはず。
 なのに、たからはすぐに「顔が青い、血のにおいがする」と言った 。生理だよと言うことも出来たけど言えなかった。なんか、もう、すぐに休みたかった。

 

 部屋で着替えようとしたら、嫌なタイミングでたからがノックした。入らないで!と言ったのに、隙間から見えたらしく、たからは血相を変えてドアを開けた。

 

 部屋に入って来たたからは、棒立ちで、片手ずつ顔を覆った。指が震えてた。泣いてるのかと思ったけど、違ってて怒りで震えていた 。そんな反応を、たからがしたことが、すごく怖かった。

 

 誰にも言わないで、と言った。私の声は囁きにしかならないんだけど、自分でもびっくりするくらい低い声で、変な凄味があった。私の声なんだけど、違うみたいな。

 

 たからは、泣き出しそうな目になってた。初めに大きな傷を見られた時、たからは泣いた。「どうして、華が」と言った。 私じゃなければ良いのかと思った。

 世界で誰かが、今も、 これ以上の目に遭っている。私がたまたま、この人生でこの傷を負う課程があっただけ……。もう済んだこと。たからは、私じゃなければ泣かないのかなと不思議に思う。

 

 たからのことは大切だし、好きだし、受けた分の愛情を返したい。 たからといると、あたたかい。


 それなのに、たからは何にも知らないんだと思ってイライラした。 世界の影になった場所を知らない。光の子だもの。望まれて、光を浴びている。

 

 もっともっと重たいものを、たからに被せたい。私が死んでも忘れないように。忘れないで生きて、苦しみを持つ人を助ける人になって欲しい。私、もう死にそうなんだもの。 たからを好きな気持ちとは別。永久に好きだけど、 体を生かすことを持続させるのは、どうしてこんなに難しいの。

 

 たからに、傷を作り変えてと言った。たからの手で傷つけられた傷に変える。そうしたら、たからからの愛の証だと思って死ねる。 そのまま死んでも良い。傷を抉って、全て忘れさせて欲しかった。

 

 だって、たからの愛の告白の仕方は変わっていたから。私の体を食べたいと言った。内臓も食べたいんだって。血が命そのものに思える、祖先の記憶を持って流れている、だから全部飲み切ってしまいたいと言った。

 

 魂の世界に、ぶ厚い記録書みたいなものがあるとする。たからが私を愛の変容で殺したら、殺めた者・殺められた者として記憶される 。理由は愛した余りに。そういうことを言いたかったんだと思う。


 たからはどこまでも忠順だった。
 かなりの強さで、皮膚を切り取るように何か月もかけて、たからの傷に作り変えてくれた。

 

 胸を触られるのは、苦手だった。たからの手でも嫌だった。痛いし怖い。彼氏に触んないでと言うのも良くないと思い、我慢していた 。男の子はいつまでも赤ちゃんの記憶を残してる。何でおっぱいが好きなんだろう。男は胸が膨らまないから?


 噛まれたり舐められたりも嫌だった。何でか、胸のほうが恥ずかしかった。

 あんまり恥ずかしがってるとそっちに集中されるから、こっちから気持ち良くさせる戦法を取っていた。耳や首、胸もおしりも、一番集中して男の子の大事なところを舐めていた。


 勢い良くやる時もあるけどほとんど、チロチロと優しく長い時間をかけて、まるで食べるようにしていた。好きだから、やるんだもの。愛を表したいから、するのだもの。

 

 男の人たちは、音が大事らしかった。たからは耳が聡いからか、特に音だけでもう、大変らしかった。好きな人に、他の人にはされないことをずっとされたら、気持ち良すぎて苦しいよね。

 

 たからには、言葉が重要だともわかっていた。私は当たり前の反応について、丁寧に何回も何回も、バカみたいにしつこく聞くことにした。
---どうしてここが大きくなるの?我慢はできないの?どうして 我慢ができないの?舐めてほしい?手でいじってほしい?咥えたらあなたはどうなるの?飲んでほしい?飲んでほしいなら、ちゃんと言って。言葉で。

 

 たからは、苦しそうだった。私のことを好きで好きで好きで、おかしくなりそうな顔。嬉しかった。かわいいと思った。もっと、したかった。賢い優等生なんか辞めて、おかしくなっちゃえば良いのに。

 

 たからの匂いが好きだ。服や、シーツや枕についた匂いも。
 たからの体の下で、目を瞑る。私は寝てるだけ。今は完全な受け身。 楽。痛くもない。気持ち良いかはよくわからないけど、たからが死にそうなふうに体を動かしているから、とても嬉しい。全身で好きだと言われているみたい。嬉しい。

 

 たからの汗を舐めてみる。味はしない、しょっぱくも甘くも苦くもない。なのに、美味しいと思ったから、私はたからが、きっと大好きなんだろう。

 

 だんだんと脚が痛くなる。でも、良いや。折れても良い。たからは、生きるか死ぬかみたいな顔をする。この時間だけ。この瞬間だけ。

 

 命がけで生まれて来る赤ちゃんを、なんでか連想する。たからは生まれ直したような表情を、最後にする。私も何かを更新された気持ちになる。だから、またやりたいな、早くしたいな、と思う。

 

 でも、たからの心の全部が私だけのものと思えるのは、いやらしいことをしている時だけだ。あんなに全身を愛してあげたのに、シャワーで洗い流してしまえばたからは、またコンピューターみたいに計算を始めたり、私にはわからない難しいことを、考えている顔になった。


 レストランでバイト始めて、お金を稼ぐ実感を持った。トレイを運んだり、お店を掃除したりお客様から注文を受けたり。思ったより力仕事だった。バイトが終わる時間には、フラフラした。

 

 バイトの後、夜だったらお父さんがお迎えに来てくれた。お父さんの車が大きなベンツだったので、バイト仲間に勘違いされた。 お嬢がバイトしてんのか?とか援交のパパか、とか。 彼氏のお父さんだよと言ったら、バイトする必要なくね? と言われた。

 

 お父さんは、確かにバイトにはあまり賛成してなかった。たからも 。お母さんは、そうでもなかったけど。

 

 お父さんは、意味なくお小遣いもくれた。たからの部屋に、私の猫型の貯金箱を置いていた。そこに入れた。
たからも、貰ったお年玉やお小遣いは、引き出しにまとめて無造作に入れていた。時々、銀行に寄って預金していた。

 

 私のお金も、たからの口座に入れてと言った。家には持って帰れない。盗られてしまう。たからにはパンや飲み物を買って貰ったり、 ぬいぐるみやハンカチを買って貰った。だから、たからの口座にお金を入れておいて貰うのは当たり前に思った。

でも たからは私の貯金箱のお金をそのまま、置いておいてくれた。

 

 バイト代は銀行振込だったから、口座を作った。五月の中旬から勤め出して、最初のバイト代は三万ハ千円くらいだった。お父さんとお母さんにお金を下ろして持って行ったら、受け取れないと言われてしまった。

 

 姉は妊娠して、結婚する事になったのだけど
姉の婚約者の実家が、結婚式のお金をほぼ負担していた。ママは六十万円を姉に渡していて、あちらのお家がニ百四十万円くらい、結婚式のために出すという話だった。


 結婚って、お金がかかるんだと知った。たからと結婚するにも、きっとお金がいるんだろうな。
進学にも、お金が必要。困ってしまう。どれだけ働いたら良いんだろう。

 

 ママは、なぜか私にも六十万円をくれた。あんたの口座に入れておきな、と言われた。六十万円というのは、私にとって途方もないお金に思えた。

 

 お金は怖いものだと思っていた。たからに、ママから六十万円貰ったと話した。でもたからは「そんなのすぐになくなるんだよ」 とあっさり言った。私は銀行のカードだけはお財布に入れておき、 たからに通帳と判子を預けていた。

 

 私はたからを信用していたし、たからも私を信用していた。だけど、お互いの通帳の中まではお互いに見てなかった。引き出しは、 自由に開けて良かった。二人の共同の場所。

 私達は子供だけど、すでに結婚しているような感覚がずっとあった。

 

 たからが大人になったら結婚したい、と思っているのはわかっていた。
 でもそれは、このまま大人になれればの話。

 

 バイトをしているのは、生きてく為だった。働くのは生きていく為 。けれど働くそばから、生命の力が失われていく気がする。 何でだろう。私には何かが足りない。


 周囲とのズレがあった。学校でも。

 「華は普通じゃないんだよ」と、たからが言う。だから好きだよって意味で言ってるのは、わかってる。普通じゃないのは私もわかってた。小さい時から、私は変だったから。


 自分でも、何が変なのかわからない。たからは頭が良いのだから、わかってくれるはずと思った。なのに、たからにもわからないらしかった。わからないから、好きになったとも言ってくれたけど。

 

 理数科の人たちは、とりあえず女子や、普通科の子をバカにしてた。目つきでわかる。言葉でもわかる。


 逆に私は、彼らをバカにしていた。まともに恋愛も出来ないで、人を大切に思えないでいて、生きることや死ぬことをきちんと考えたこともないくせに、秀才とか天才とか簡単に言われてきた人たち。 天才ってのは、もっと違う人を言うのに。天から頂く才能を、小さく見過ぎだ。

 

 普通科の男の子で、すごい無口な人がいた。普通科の中では、優秀な人。背丈は中くらいなのに、猫背だからか小さく見えた。男だけど、髪が長かった。


 その人、田中君というのだけど選択美術で、油絵を描いていた。それ、何の絵?と話しかけたら、ボソボソ答えた。クリムトの苦悩、だって。


 田中君は前世でクリムトの友達だったのかな、心がオーストリア出身なのかもよ、と言ったら、真面目に話してるのにニヤーッと笑われた。

 

 絵を描いている男子は、視界が真っ直ぐで深いから好きだった。中学の時も、線描画を描いていた久住君という子によく話しかけていた。彼は美術部だったので美術室にしょっ中、行った。たからが二人きりでいるのは止めろとうるさかったから、行くのは止めた。心配しなくても、久住君は私に興味がなかった。絵だけにしか。

 

 田中君は、私に、じゃなく女子に興味があったんだろう。


 私は一人になりたいから、保健室や図書館やトイレ、屋上にいつも行った。田中君は、トイレ以外の場所には時々、ついて来た。

 

 お弁当も、食べたくなかった。たからのお母さんは、小さめのお弁当箱にサラダや煮物、果物を詰めてくれた。私が食べられる物だけを。


 家に食べ物がなくなった辺りから、あんまりご飯自体を食べたくなくなった。体と心の防衛だったのかもしれない。


 田中君にお弁当をあげたら、食べていた。食べさせて、と言われたから食べさせてあげた。嬉しそうにしていた。子犬みたいだった。

 

 田中君は、たからのことを知っていたので見つからないように、コソコソしていた。貧血で保健室に行ったら、ついて来たので放っておいた。具合悪くて、田中君どころじゃない。


 上履きと靴下を脱いで、ベッドに入った。靴下は、たからがハイソ派だったので履いてたけど、寝る時は裸足が良かった。 そしたら田中君はじぃっ、と足を見ていた。

 

 足。たからは足や脚を毎日のように、舐める。それで、うっとりしている。脚が好きなんだと思う。田中よ、お前もか。

 

 田中君は、単に肌を見てるっぽかった。それから、抱きついて来た。こんな時に、他に休んでいる人も保健室のおばちゃん先生もいない。


 全然、抱きつきかたがわかってない感じだった。肋骨が痛かったから、痛い!!と言った。田中君は手を離した。ごめん、ごめんねと謝って来る。

 

 貧血で気持ち悪いのに、田中のせいで尚更具合悪くなりそう。その後、たからが来たけど勘違いされたようだった。別に何もしてない。私からは何も。それより具合が悪かった。


 たからは、束縛と嫉妬がひどかった。バイト先にも、上りが夕方なら迎えに来る。バスで来てくれて、近くの本屋さんに寄って待っていたり、やっぱり近くの喫茶店にいたりした。レストランには、あまり入らない。

 

 何回か、お客様としてお父さんお母さん、たからが来てくれた。たからはレストランの制服を見ていた。深緑のワンピースで、白襟で膝丈で、白い短いレースのエプロンつきだった。靴は学生がローファー、社会人はローヒールと決まっていた。

 

クリーニングに出すため制服を持ち帰ると、部屋で着てくれと言われた。クリーニングから返って来た制服じゃないと、ステーキの臭いが気になるから嫌だとか、わがままを言っていた。たからにとって、 コスプレみたいなもの。それで、脱がせて喜んでいた。

 

 PHSは、バイトを始めてから自分で買った。契約の時は、お父さんに同席して貰ったけど。そのPHSの中身を、たからは堂々と見ていた。私も別に、見られて困ることはなかったけど、 バイト先の大学生、フリーターなど男の人の名前の登録には、たからはいちいち質問責めを始めた。単なるバイト仲間、先輩だけなのに。

 

 店長が、時々電話で人生相談みたいなことをしてくれていた。店長はおじさんだからか、たからは何も言わなかったけど「夜には電話しないでくれ」と言われた。言われなくてもたからといる時間には、しなかった。

 

 女子高生ってだけで、街にいると変なナンパがある。
 バスを待ってるだけで、乗せてくよ?と、おじさんが車を止めて話しかけて来る。怖いので、首をふるふる振った。


 ベンチにちょっと疲れて座っていると、失礼だったらごめんなさいね、遊びませんか?と言って来た。大人が。子供に。
 お小遣い足りてる?とか、何か良いことないかなー、とか話しかけて来たりする。もっとヒネリはないのかと思う。大人なのだから。
 これからバイトです。としっかり断ると、何もされない。一応、大人だからだと思う。


 危ないのは、学校だったかもしれない。
 理数科の先輩が、二人来て手を引っ張られた時がある。理数科の校舎だから道がよくわからなかったけど、化学準備室か何かだったはず。二人には、迷いや恐れがあった。それを感じた。

 だから、 先輩は受験大丈夫ですか?と聞いた。何をされても別に良いやと思った。これは、たからに話せる種類だった。


 大学進学を棒に振るほど、バカじゃないってこと。彼らは、困った顔をしていた。その先輩たちは、今まで優しかったけど、それから話しかけて来なくなった。クマのキーホルダーをくれたりしていたけど、すぐにたからに捨てられた。

 

 生理前になると、こういうことにイライライライラした。男全体が嫌だった。目に入ってくる男の目を、潰したいくらい嫌だった。 私は何もしてない。誘惑なんかしていない。


 たからが、「お前は奴らを誘惑するために動いている」と言った。 たからまで、そんなことを言う。悲しくなり、泣いていると、たからはそこからすぐにエッチに繋げる。「誘いたいから泣いているようにしか思えない、そういう泣きかただ」と言われた。意味がわからない。


 そして、困ったこと、たからを信頼できないかもしれない、と思ったことが起きた。

 信頼というより……たからは私が好きじゃないのかもしれないと思ってしまった。私を守ってくれないかもしれない 、と。優しくなくなったのかもしれないと思った。

 

 理数科の人で、たからの友達がたからの家に出入りするようになった。その時は、その人が誰なのか全然興味なかった。 田中君のほうが、良い絵を描く分、興味あったぐらい。

 

 男友達同士で遊んでるんだろうから、構わないようにした。中学の時のように、男子に混じって遊ぶことは、今は嫌になっていた。

 

 たからの友達なので、賢い人のようだった。けれど暗かった。明るく見せてるけど。寂しそう。寂しいからだと思うけど、たくさん話しかけて来る。華ちゃん、と呼ぶ言いかたが、甘えた感じだった。 イライラしたので、馴れ馴れしく呼ばないで!と言ったりした。

 

 その人が、私のいる部屋にいきなり入って来たことがあった。
 たからの部屋じゃなく、たからは客室の一つで、その人と遊んでい た。

 

 無言だったし、こっちも何も言う暇がなかった。その人、しゃがんで首をかしげて、何でもなさそうに、まず服の上からブラのホックを外した。無言で。びっくりしたので、ホックを直そうとしたら片手で私の両手を掴んだ。それから、さっと馬乗りになってたから、 もうどうやっても動けないとわかった。

 

 乱暴だった。なんか、恨みか何かを私に感じているのかと最初に思ったけど、そんなはずない。キスは慣れてるようだったけど、嫌だから口を必死に閉じていたら歯が当たって痛かったようで、ムカついたみたいに噛まれた。

 

 服の上からだけど胸を触られたからそこで初めて、ぞおっとした。
 たから!たから!!
 大きい、声で呼んだ。何度めかに、私は叫んでた。

 

 たからは、 ……来ない。
 来なかった。

 

 どうして、という不思議だけで頭がいっぱいになった。その人は次々、いろんなことを聞いて来た。コミュニケーションの言葉じゃなく、その人が楽しむ為だけの言葉。


 たからはいつもどんなエッチするの?というのと、妊娠しても、たからの家で育てて貰えるでしょ、というのと、たからはお前と結婚したいから子供が出来る率を高めようとしてんじゃない? というのと。


 よくわからないことを言ってる。嫌だったのは、お前は貧しい家の子だから、たからが、ここに置いていつでもヤれるようにしたんだよ、って言葉。たからとの関係や、中学の時の話は同中出身の人が噂を流していた。

 

 その人、避妊してなかった。それにも、レイプにゴムなんか要らないよ、と言った。

 

 しばらく、そのことがあってから私はぼんやりすることが多くなった。光の家の中なのに、悪夢を見る。

 

 たからが部屋にいて、その人と私がしてたことを見ていた時が一度あった。それで、もう たからとは終わりだと思った。そうしたら、たからは、泣いて謝って来た。文字通り、私の足にしがみつくみたいにして謝って来た。 何なの。一体、どういうことなの。

 

 一緒に死んでと言ったら、たからは「わかった」って答えた。
 「殺してくれ」と言われたこともあった。そんな重大なことを、簡単に口にしないでよ、と思った。

 

 たからは、死ぬ寸前の場所を知らないじゃない。と心の中で思った。

 小五の時に、お腹の辺りを義理の父に包丁で切られて、血がいっぱい出た。死んだと思われたらしく、しばらくそのまま一か月くらい放置された。


 あの時は、何日も何も食べられなかった。体が沸騰したような熱が出た。死ぬんだと思ったけど、怖くなかった。 トイレなんか行けないから垂れ流ししたし、水がなくて水分だけは、冷蔵庫の中に玄米茶があったけど、もう悪くなってた。 腐ってはいないと思うんだけど、そのお茶を舐めていた。


 手の届く範囲の棚に、固まった黒飴と何年も前のチョコレートがあった。チョコは腐らないという話を知っていて、迷信だと思ってたけど少しずつ齧るしかなかった。味なんか二の次。

 お供えみたいにして、何日も経ってからリンゴとお菓子を置かれた 。だから本当に死んだと思ってたのかな。謎だ。


 それを少しずつ少しずつ、食べきる前に体を引きずって歩けるようになった。

 

 飢死する直前は、お腹なんて空いてないんだ。
 死を目前にしたら、光がちらちらと見えた。死ぬには、神様に会うことを通過しないとならない。私はまだ、その時じゃなかったってこと。

 

 そういう大事なことを何も知らないくせに、簡単に殺してとか、言うなと思った。たからは私に甘えていた。


 たからの友達は、それからも頻繁に来たけど突然来なくなった。
 きっかけはわからない。二人が喧嘩したのかと思う。

 

 私は、その人を好きじゃなかった。でも嫌いとも言えなかった。
 嫌なことを色々言われたし、同時に嫌なことをされた。避妊は一回もしてなかった。妊娠すれば良いじゃん、と簡単に言われた。 その人は、妊娠というものが何なのか本当には、 わかっていなかった。当時の私もわからなかったけれど。

 

 怒ったり痛がったりという反応をすると、あはは、かーわいい、とか言われるから無反応を心がけた。けれど息が切れたり、不意に乱暴なことをされると声が出てしまうから、どうにもならない。 どうしようもない。

 

 たからが、死にそうに生きる…ような、最中に死を想うような、生きろ生きろという教訓的なメメントモリなセックスをするのとは対象的で、この人は、ただただ動物的な感覚だった。エッチというよ り、ファックという感じ。つまり、軽いし俗っぽいし簡易バージョン。遊びだ。


 一方で、それをしないと自殺しそうな。ジャンキーのような…...。もしかしたら、私もそう。同じだから、こんな変な人を引き寄せたのかも、と思った。

 

 学校の体育館の倉庫の奥に、縁の下に通じる道、空間があった。
 埃っぽい所だったけど、外の匂いがした。秋の夕方の外気で、肌寒かった。切なくなるような、このまま心が死にそうな香り。

 

 お尻は初めて?そっちは処女?と聞かれた。たからはとっくにそんなの、試してたけど言わなかった。

 

 何日もかけて、ゆっくりやらないと駄目なのにその人、何とか唾液をローション代わりにして無理矢理に入れようとした。この時もたからに助けて、と思ったけれど、たからは来なかった。

 痛かったの はお尻ではなくて、お腹だった。寒くて歯がガチガチ鳴るくらいだった。涙がたくさん出た。その人は、基本的に笑ってた。 笑いながらやってた。

 

 頭の中に、何の前触れもなく映像が広がったから、そっちを見るようにした。痛くなくなったし、寒くなくなったから。


 その人が、女性の陰部を舐めている映像、頭を撫でられているというよりは、押さえられて舐めさせられている映像だった。 制服だった。女性に対して、先生と呼んでいる。これは、 この人の妄想?それにしては、つらそう。

 

 先生と呼ばれている人の顔が、だんだんと変化していく。あ、この人のお母さんの顔だ?と、気づく。どういうこと?この人の悪夢? それとも現実にあったこと?

 

 ぎゃあああ、という声を上げて、その人が目覚める。これが、この人の悪夢なのか。


 ポケットティッシュだけでは、血が混じった精液を拭いきれなくて 、下着で拭う。下着でティッシュを包んだ。それを、貰うよ、と言ってポケットに私のパンツを入れていた。急に優しくなったようだ 。


 血に驚いたのか、何度も謝ってくる。その人の手が、髪を整えてく れた。本当は優しいのだろうか。
 キスしても良い?と聞かれた。わからないと答えた。たからに聞かないとわからない。まだ別れてない。
 あんな奴、やめれば?と、たからの悪口を言う。たからのことを、 悪く言われたから泣いた。
 スカートの下に寒い風を感じながら、泣きながら帰った。

 

 こういうふうに、男の子にされるってことは私が悪いか、義理の父が悪いんだと思っていた。
 私は、自分を鏡で見る度に死ねば良いと思っていた。

 義理の父を殺す夢を、よく見た。

 

 たからの家で、お母さんが新しいワンピースを着せてくれる。高価な物だとわかる。生地が厚く、凝った刺繍が施されている。

 

 たからがピアノを弾くのを、絨毯に座って見ている。窓の外は、雨が降っている。とても寒そう。ここは今、守られている。

 

 このままだと、この家から出たら、どこかで自殺をしそうで恐ろしい。手足が震えるほど。


 このお家では、死なない。たからを傷つけてはいけない。お父さんお母さんを悲しませてはいけない。

 

 たからが発表会で弾く曲、リストのマゼッパを練習している。凄く難しい曲。こんなのを暗譜できるくらいに、たからは優れていて将来が有望な人だ。邪魔をしてはいけない。

 

 この違和感は、なんだろう?
 何に対しての違和感なのだろう。


 私は、生きることに違和感がある。だから変だと言われるのかも。 生きている人より、霊に近いと、たぶんずっと前から思っていた。 もっと小さい時から。

 

 涙が止まらない。私は不安定だ。たからのように心を統一できない 。

 たからは、私が泣いているとすぐに隣に来る。


 一生好きでいてくれる?一生、愛していてくれる?
 言葉が表しきれないことを、尋ねていた。
たからは、二回頷いてから涙の落ちそうな目で「華が死ぬ時は一緒に死ぬ」と答えた。

 

 中学の時の友達、しーちゃんに高校での話、たからの話をした。全部ではないけど。
 たからのことを、理解できない、別れたら?と言われた。


 自立したい気持ちを言った。しーちゃんは、ゆうちゃんのお父さんが不動産会社に勤めているから、相談しようと言ってくれた。

 

 ゆうちゃんの家に泊まったり、しーちゃんの家に泊まったり、バイト仲間と朝までカラオケしたり、あまり、たからの家に帰らなくなっ た。


 自立に向けて動いていて、ゆうちゃんのお父さんに少し事情を話して、アパートを借りるお手伝いをして頂いた。

 

 保証人に、義理の父を「使った」。
 家を出て行くし、学校も辞めると言った。生活費や学費がかからずに、楽になると思ったらしい。姉が結婚したから、私が姉と暮らしていた部屋を解約すると言っていた。

 

 引越し屋さんに頼まず、バイト先の先輩にレンタカーを運転して貰い、少ない荷物を運んだ。


 アパートの家賃はニ万ハ千円で、契約時の費用は全部合わせても十五万円くらい。
 新しい家具、通販の安いベッドやテーブルを入れて、総費用は二十万円くらいだった。バイトしながら、何とか生きていけそう。

 

 けれど、すごく怖かった。生きていこうとする気持ちも。怖かった 。


 たからの家で休む夜、たからは繋ぎ止めようとするように、荷造り用の ロープでぐるぐると縛った。私の体を動けない状態にしておいて、 しばらく眺めていた。

 

 一晩の間に、口も下側もたからの出したもので溢れる。たからは「全部飲んで」と言った。飲むのは構わないけど、中に出してからティッシュを詰められるのは何か嫌だった。落ち着かない。 何でこういうことをされるのか、わかるようでわからなかった。

 

 それでも、ぎゅっと抱っこされて包まれて眠る時は、たからと離れたくなくて涙が苦しくなるくらいに出た。離れたくない。怖い。 外が怖い。たからに縋って生きていけたら、どんなに楽だろう。


 たからには、何も伝えていなかった。伝えるつもりが、なかった。


 高校を辞めた。
 ママがたまたま帰って来ていたから、学校を辞めたいと言ったら一緒に担任の先生に会ってくれた。

 

 たからには、もう会えないとか会わないとか思ってたんじゃなくて 、今は離れたほうが良いと思った。


 私はたからに甘えていたし、たからも私に甘えていた。これじゃあ、お互いにダメになりそう。どっちか死ぬか、どっちも、死ぬか。

 

 たからの友達とのことは、私が悪いと思っていた。最初は避けようがなかったけど、その後もその人と話したり、会ったりしてたんだから。 


 たからがいつもいつも、守ってくれるわけじゃないのに、守ってくれるはずと期待していて、そんなだから、私は弱くなったんだ。

 

 もういつでも、住めるようにしていたアパートの六畳の部屋で、泣きながら眠った。
 たからのところには、戻れない。私はこれから、ひとりで闘わないといけないんだ。

 

 前のバイト先の先輩、ニ十ニ才の人とすぐに付き合い始めて、いつ の間にか別れて、次のバイト先の人と付き合って、その人とも別れて、骨董品店に就職したことで、四十八才の人、それから六十三才の人とも縁があった。


 寂しくて寂しくて、たからじゃない人で寂しさが埋まるかと思ったのに埋まらなかった。男の人たちというのは、甘えさせてくれるのではなくて甘えて来るばかりだった。かなりの年上でも。

 

 たからと再会したのは二十才になる一か月前。約四年後だった。

 

 寂しくて気が狂うかと思った夜、隣にはたからじゃない人がいた。 それでも、私から離れたのだから。甘えずに強く生きて行こうと、 思ったのだから。たからに連絡を取ることは、出来ないと思ってい た。

 

 体調も悪かった。何かを食べることが、ほとんど出来なくなった。 食べていたのは、じゃがいも。大根。キャベツ。柔らかく煮て、そのまま何もつけず、少しずつ食べていた。


 果物も食べたけど、私は食事する権利がないと言われて育っていたから、その言葉を思い出して吐く時があった。それから、胃腸が弱くて吐いたり下痢をしたりもした。


 たからの家に置いて貰っていた日々は、夢での出来事。その頃にも、これは夢だと思っていたけれど。本当に、現実の日々ではなくて 、見ていた夢の世界であるかのようになってしまった。

 

 三十キロを切ったら入院と言われていて、たからに会ったのはニ十九キロの時だった。私は、自殺をよく夢想していた。死んだら、楽になる。

 

 年末の街の中の本屋さんの辺り、混雑している道で急に、左腕を掬い取られるようにして引っ張られた。


 一瞬、また、幽霊かと思った。

 時々、死んだ人が普通に話しかけて来る精神状態で、心療内科で話したら幻覚幻聴とカルテに書かれた。なので、誰かに話すのは止めた。

 

 よく見ると、たからだった。
 背が高くなっていたのと、髪が長くなっていたのと、髪が茶色になっていた。顔は変わってなかったけど、大人っぽくなっていた。

 

 華?じゃなく華!と、すぐに呼んだ。それから、
 「今までどこにいた?」「何でこんなに痩せているんだ」と言った。たからの声だけど、いっそう低い声になっていた。 

 たからの雰囲気は、変わっていなかった。

 

 近くの喫茶店にずるずる連れて行かれて、色々聞かれた。今の住所とか。何だか、答えないとこのまま、たからの家に連れ戻されそう 。一人はつらいけど、たからに連れて行って貰おうとは思わなかった。ちゃんと自立して生きてるんだよ、と思いながら勤務先の骨董のお店も教えた。


 パフェを食べさせられた。スプーンで、以前のように口に運んだりする。目が、好きな人を見る目だった。たからは別れたつもりがないんだ。


 「送っていく」と言うから、「歩いて帰る」と言った。歩けるのか ?そんな体で歩けるわけがない、バスは?タクシー捕まえる?と、 とにかくうるさい。優しいけど、がんじがらめにされそう。

 

 その夜にメールが来て、普通に「おやすみ」メールを返した。
 次の日、「会いたい」と来た。
 やっぱり、別れた気じゃないんだ。

 

 たからは、東京の大学生になっていたから地元には長くいない、というのがわかっていた。お年始が済んだら、東京に戻る。私のアパ ートに来てくれたけど、骨董のお店で良くしてくださるお客様のおじいさんが来ているのを察したら、すぐに帰って行った。

 

 毎日たからから、長いメールが来た。よく読んで、返信を考えて書いた。言葉での触れ合い、やり取りは楽しかった。


 一週間に二、三回くらいは、電話もしていた。しかも長電話だったから、たからが勘違いしてもおかしくない。私は、誤解をわざと招いていたのかもしれない。

 

 エッチな話もしていた。たからは言わなかったけど、彼女がいるというのはわかった。

 私は、たからと色んなことをしたこと、 忘れていないよと話した。ありがとう、という意味。 愛をくれたこと。けれど、たからは吐息なのか溜息なのか言葉にならないのか、苦しそうな声を少し洩らした。

 

 そのすぐ後、「まだ付き合っているつもりだ。華しか好きじゃない 」というようなことを、電話で言い出した。


 色々言っていたけれど、キリがないから
「たからのエッチの仕方が嫌い、痛いことや苦しいことをする、怖いこともするし、それを笑って見てるから嫌い」と言ってしまった。

 

 実際は、どうだっただろう。たからはロープで何度も手首や足首や両脚 を縛ってから、後ろから入れて来たりした。

 苦しいのか気持ち良いのか、混ざっていて、よくわからなかった。

 気持ち良い後に、死んだみたいに動けなくなった。それは、癖になる強さがあったけれど依存する気にはならなかった。

 どうして、たからは、こういうふうにするのかな?と思っていた。


 支配欲や独占欲の現れだと思っていたけれど、単純に女の子を苦しませるのが好きなんじゃないかしらと思った。たからの友達と同じ 。類は友を呼ぶ。

 

 たからと話しながら、首を絞められて気絶してしまったことや、息が出来ないのに口を押さえられていたことを思い出して、息継ぎが出来なくなって来た。

 だから、その日は話が済んでいないのに電話を切ってしまった。

 

 たからは諦めていなかった。メールも電話も続き、間を空けては口説いて来た。

 

 たからと会う前、会ってからも自殺未遂や自殺未遂に似た自傷をしてしまっていた。山で首を吊って、紐が切れてから……病院の先生が言うところの幻聴と幻覚が続いていた。


 幽霊に会ったことがない人は、何らかの理由を持ち出して否定するけれど。幽霊は、触っても来るし予言もしていく。 呪いの言葉も吐く。

 

 部屋のドアノブには、いつも首吊り用のロープが下がっている状態 。バッグの中には、いつでもどこでも吊れるように紐を入れていた 。犬の散歩用のリードが、首にフィットしたから持っていた。

 

 おかしなことが、たくさん起きた。
 お財布の中のお金が、万単位で一日で消えたり。一人暮らしだし、 勤務先には小銭入れしか持って行っていない。盗まれた、とかじゃない。お金は頻繁になくなった。

 

 私の買ったものじゃない物、例えば押し花作り機みたいなオモチャが、部屋にあったりした。ホワイトボードに、 変な絵が描いてあったり。

 

 幽霊と一緒に暮らしてる感じだから、そのせいかなと思ったりした 。グチャグチャだった。知らない男の人から電話が来る。 オレオレ詐欺のようなもの?

 

 そんな頃、ママが倒れて手術になった。くも膜下出血。死んだパパ と同じ病気。


 でも、ママは一命を取り留めた。血管が切れた箇所は前頭葉の付近 。大変な手術で、二週間くらいママは防止帯でベッドにいた。 脳の手術の後は、動き回るから。個人差があるらしく、 病棟で一番暴れていた。

 

 ママの担当医は、脳外科の部長だった。その病院では、偉い先生らしかった。
 とても冷静な人で、優しかった。


 恋をしてしまったのは、先生が明らかに気のあるそぶりをしていたからだと思う。


 不倫することについて、どういうことなのか深く考えていなかった 。人は生きていく中で、罪を犯すものだけど、どんな種類の罪なのかを最初に考えるべきだった。恋することが罪になるとは、 思っていなかった。

 

 先生には、手紙を二回渡した。一度目は、ママの退院の時に。お礼状を。二度目は、先生のことが好きです、という手紙。


 メールアドレスと電話番号を最後に書いておいたら、次の日に電話が来た。デートの約束をして、そこから付き合うことになった。

 

 先生が四十八才、私が二十三才。
 医師だからか、体の症状も把握してくれた。体調が悪いと、すぐわかってくれた。


 時々、記憶が抜け落ちている時があると言ったら、先生の顔色が変わった。健忘かと思っていたけど、先生の言いつけ通りに、 毎日の出来事をメモしてみたら、相当、変な生活をしているとわかった。

 

 『月曜日、朝起きて、仕事に行って、夕方終わった後に本を二時間読んで寝た。』
 『水曜日。仕事が休みだったので友達と十時から十九時まで遊びに 。具合が悪くなったので、途中で帰った。二十二時帰宅。』

 

 月曜日の夜は、何をしてたんだろう?二十時くらいに寝たってこと ?
 火曜日は何も書いてないし……
水曜日、十九時前に帰って来たんじゃなくて?十九時〜二十二時は 、どこにいたの?

 

 そんな調子だった。筆跡がその日記には、三種類あった。先生は大学病院の後輩の医師、精神科の医師を紹介してくれた。

 

 乖離性障害と最初にすぐ、診断された。検査をたくさんやった。液体を垂らした模様の絵が、何に見えるかとか。樹を描いたりとか。 文章の穴埋めとか。知能検査も。

 

 正式な病名が出て、それが乖離性同一性障害だった。障害者手帳が出る、障害年金も出ると聞いてショックだった。私は、 病気だったのかと思って。

 

 病気がわかったからなのか、先生とは別れの気配があった。最初から長続きするなんて、思っていなかったけど。

 

 会えるのは一週間に一度あれば良いほう、二週間に一度は会えたけ ど、ホテルに行くだけ。ドライブがプラスされていれば、 ラッキーな感じ。いろんなカフェには行った。先生は何でか、自宅付近や病院付近を警戒していなかった。


 学会の時、東京に一緒に行った。新幹線で行って、ちょっとホテル周辺のお店を見て。ホテルにずっと二人でいる。学会は翌日だから 、東京に着いた日の午後はずっと二人でいられる。

 

 先生はエッチ後は寝てしまうから、寝て起きて夜にホテルの中のバーに行って、またベタベタしてお話して、ということの連続。
 とても安らげるし、楽しかった。

 

 東京にいる間、たからから連絡が来ても、たからに会いに行こうとは思わなかった。たからは仕事の都合で東京から地元に転勤して来たけど 、私が先生と付き合っている期間の前半は、まだ東京にいた。

 

 今、東京にいるよとメールすると「会いたい。会おう」と返信が来る。「どこのホテル?」と。電話まで来た時があり、先生といる時間なんだから、と携帯の電源を切ったりもした。


 だったら、たからに連絡するなという話なんだけど、私はただ友達に連絡しただけのつもりだった。

 

 先生からのメールは、一応毎日来たけど電話は、あんまり来ない。 いきなり電話が来た時、嫌な知らせだろうなと思った。

 

 その電話は、無言電話だった。先生じゃなくて、先生の奥さんがかけて来ているとわかった。
 ちょうど通話40秒で切れた。切れた時の画面が39秒でも41秒でもなく、ジャスト40秒。40数えて切ったみたい。


 その40秒の中に、憎しみと怨みが籠もっていた。先生は奥さんと 、セックスレスだと言っていた。大学の同期生だったんだって。 奥さんは教授らしい。子供達も優秀らしいけれど、仮面夫婦で、仮面家族だと言っていた。


 奥さんの念というのは、たくさんのことが渦巻いていた。夫を盗られた、というのと夫が若い子と寝てるなんて信じられない、 というのと


誘惑したんでしょ……?というのと。誘惑、じゃなくて誘導、もっ と違う言葉だったかもしれない。私には、人が考えていることがわかることがあった。子供の頃からだけど、二十才を越えたら、それが聴こえるのがどんどんひどくなっていった。


 奥さんは最終的に、〈死ね。〉と思っていた。私に対して。お前なんか、死ね。

 

 こういうことだったんだ。奥さんがいる人と、恋愛をするっていうことは。

 先生と、その後にお話をしてから別れた。
でも、先生は最後に私に悪い言葉をかけてから離れた。


 先生からの、いくつかの言葉の内の一つ。
 〈あなたのような女が、まともな男の人生を狂わせるんだ〉

 

 そういえば、たからも似たようなことを言っていた。
 先生と別れたんだよと、たからに話した時にこんなことを最後に言われたよと言ったら 、たからは怒っていた。「狂わされる覚悟もなかったんだろう」って。

 

 高校の同窓会があったのは、そのすぐ後。
 中学・高校が同じだった子からのお誘いだった。「理数科の男、狙おうよ」って。合コンのノリ。


 たからは仕事だから、行けないと言った。

 たからと一緒に出ていたら、からかわれたりしても、ナンパはされなかったはず。女の子だけで話してるのに、普通科卒の男の人は妙に遊んでるような人が多い印象で、話の中に入ってきた。

 二人に連絡先を聞かれた。理数科卒の人たちは、 もっとタチが悪そうだ。

 

 理数科の人らは、固まって話していた。女の子たちは、近寄りたくても近寄ってなかった。近寄らないほうが、良さそうだけども。
 友達は、私の手をガッツリ掴むと理数科の山猿の中に入っていった 。

 

 入っていったら、学校辞めた子だー、すげー、すごいよねー、英雄だー、と言われた。こいつら、本当に頭が良いのかなと思う。普通に頭、悪そう。

 

 友達は、東大大学院出て研究職やってるという、背の高い遊び慣れたふうの男と話していた。私はすぐに彼に、彼女いるでしょ、しかも婚約してるわね!と言ってやった。

 

 周りの人がおおーエスパーだ、と言っている。その男は悪びれず、バレないように遊んでいます、とか言った。言葉だけは丁寧。内心、 私のことを何だコイツと思ってる。

 友達は、そんなの関係ナシになんだかんだでエリートと遊びたいだけらしかった。

 

 ミキ君は、その輪の中で笑顔を絶やさない人だった。


 場が落ち着いてから、「たからと付き合ってた子でしょ?今日、たからは?来ないの?たからは今、何の仕事してるの?」と話しかけて来た。


 たからの友達のはず。だから、たからの会社を知らないわけがない 。たからの会社は大手だし、誰々がどこどこに就職した、 という話題は彼ら、さっきから話しまくっていたはず。

 

 たからは週末に時々、フットサルに出かけていた。地元の友達のチームにいた。ビリヤード場にも、高校の同級生と遊びに出かけていた。


 ミキ君が、趣味の話でフットサルと言ったので、たからのこと、知らないフリをしているんだと思った。実は仲が悪いとか?

 

 ミキ君の名前、綺麗だね、素敵だね、光の中で生きられるように、 つけて貰ったのね、と言ったら照れていた。100%嬉しそう。

 でも、急にその後「名前負けだよ」と言った。その目が物凄い寂しさを帯びた目で、思い通りに生きてないんだと思っている目だった。

 

 華ちゃん華ちゃん、とベッタリくっついていて、ミキ君がそんなふうだから誰も近づいて来ない。「何か食べないの? デザート全部持ってくるね」と言い、本当に全種類、 取り分けて運んで来てくれた。


おしぼりやら、小さいスプーンやら、お代わりのお酒やら、何にも言わない内に持って来ようとする。


 「次、何飲む?」の繰り返しで、お茶と言ってるのにモスコミュール持って来たりするから、雲行きが怪しかった。ミキ君は、アルコールは一滴も飲んでなかった。「車だから。送るね」と言って来た 。やる気満々。


 色々な話をしたけれど、現在の話が主だった。ミキ君の話か、私への質問だけ。質問は、矢継ぎ早だった。「どこ住み?どこ出身? 仕事は?ところで誕生日いつ?」という感じ。

 頭の回転は、 すごく早い。早口。私が話したこと、途中から「それは〜 ってことかな」と、わかってくれるので楽。

 

 ポソポソ、のんびり話していたら、「華ちゃんの喋り、落ち着く。 一緒にいたい」と言い出した。ガン見。落とそうとしているわ。一緒にいたいって、今夜だけじゃん。

 まあいいや、何でも。

 

 ミキ君が車に乗せてくれると言うから、待っていたのだけど、ミキ君はあちこちの人に挨拶していてなかなか来ない。挨拶は大事だけど、恩師にも大事だけど、一時間くらい。
 私はその間、何回もトイレに行ったので酔いは醒めてしまった。

 

 車の中で、ミキ君は迷いを抱えている感じだった。わざと遠回りしてるし。アパートの前に着いて、寄っていく?と聞いた。「 まだそんな段階じゃないよ」と言う。キスしないの?迷ってるのに?と尋ねたら、「そういうことは、わかっていても言うものじゃないんだよ」だって。

 

 はにかんだ笑い顔。この人、すぐ家に来るわと思う。
 その日は、掃除をしてから眠った。

 

 ミキ君のことを、たからにメールしたら返信がなかった。

 次の次の日、友達とミキ君とご飯に行った。
 今度は、泊まっていった。

 

 ミキ君は、とっても優しくしてくれた。服を脱ぐ前に、体に傷があることを伝えたら神妙な顔をしていて、傷を見せたら明らかに同情していた。困ったような、戸惑ったふうに。

 

 全部が丁寧だったけど、ミキ君が最後までイッてないと気づいた。 傷があることが、引っかかるのかなと思ったけど。ミキ君は、本当にやりたい方法でのエッチをしてないんだ。優しく、優しくと気を遣い過ぎている。

 

 なので、口でしていい?と聞いてから了承は貰わないで、長く時間をかけた。ミキ君のこと、こうやってずっと、愛してあげるからね 。


そう言った瞬間に、口の中に独特の味が大量に広がったので、慌てて飲み切った。噴水みたいな量の広がり。この人、色んなことを耐えているんじゃないかしら。

 

 ミキ君、好き。と言ったら、「俺も好きだよ」と答えてくれたけど 、言われたから反射で返した言葉だった。ミキ君は、 まだ私を好きになってない。でも、きっと、すごく好きになってくれる。私も、ミキ君をすごく好きになる。

 

 たからに、ミキ君が泊まっていったとメールしたら、やっぱり返信がなかった。不倫先生の時は、悩みを相談しても黙ってはいたけど 、返信がないというわけではなかった。

 

 ミキ君は、一人暮らしから事情があって実家に戻ったばかりだった 。「実家に帰るのが嫌だから華ちゃんの所に行く」と言い、一週間 の内、半分くらいは泊まっていった。

 

 ご飯の支度が大変になったけれど、食費を入れてくれたり仕事の送迎をしてくれた。

私は骨董の仕事を退職していた。昔の大検、今の 高認試験は通っていたから、地元の国立大を受験して、合格してい た。その頃は大学行きながら、家庭教師と塾講師をやっていた。

 

 大学は心理学科にしたのだけど、それは自分自身の心理が不思議だったから。人格が分かれるって、どういうこと?

 

 各人格の特色があり、その時点でわかっていたのが、

 

 ・真野:男、18才の人格。社会人。危機に於ける攻撃者。会話困 難。誕生日11/7(他人格より聞き取り)喫煙者。
 ・しずく:女、16才の人格。学生。誘惑者。気が強い。誕生日= 主人格と同じだが生まれ年を言わない。
 ・栞:女、12才の人格。天真爛漫に見えるが虐待の記憶を持つ。 誕生日不明。
 ・いしき(よう):男、33才の人格。医師?内的救済者。治癒者 誕生日6/19 潜在のまとめ役。
 ・真美:女、22才の人格。主人格の1学年下と話す。誕生日8/ 3  顕在のまとめ役。
 ・猫 人格断片 猫の様な声で鳴き続ける、混乱時に現る。

 ・? 幼児退行時と思われる。名乗りなし。
 ・くしろ:体を折り曲げて移動する。真野が攻撃者とすると破壊者 と言える。言葉は流暢。各人格の中では最も知能指数が高い。 自傷自殺他害行為有。
 ・人格断片 発語なし。表情なし。
 ・人格断片 赤ん坊の様な声で泣き続ける。発熱有。

 

 こんなふうだった。主治医(四人いた)のメモが。
 話のしかた、声、仕草、歩きかた、筆跡、血圧、脈拍、体温までも 交代している時は違うのだって。

 

 治療中に人格交換ノートをしていて、ノートに質問を書いておくと 、いしきさんと真美さんは書き込んでくれた。小さい子は、絵。栞 ちゃんは、作文調だった。それが不気味な内容で、気持ち悪かった 。

 

 『o月x日 おとうさんのゲロのんだ。吐いたら服をぬがされてベランダに出さ れたから飛び降りた、5階から。ケガしなかった。 団地のボイラー室に入った。寒かったです』

とか。

私は、 それを読んで吐いたのと、目が回って動けなくなった。 病院だったから良いけど、よく息が出来なくなり、その度にセルシンという薬を注射された。


 ミキ君は、小難しい性格だった。
 最初は頑なな部分があったのだけど、すぐに打ち解けた。そうしたら、今度は大好き、大切で堪らない!という想いを被せてくるようになった。


 嬉しいけど、嬉しいけれど、何か……儚いというか揺らぎがあると いうのか。気に食わないことがあったら、殺されてしまいそう。
 そして、ミキ君のエッチの仕方が変わって来た。それはかなり、苦しみを伴うものだった。

 

 縛られるのは、たからの時に慣れていた。けれど、ミキ君は関節を 傷めるような縛りかたをした。スポーツやってる人だから、 関節のどこが痛いかとか、わかるはずなのに。

 

 羞恥系も慣れてるつもりだったけど、度を越した格好で縛られて放置、という時があった。それも長時間、 覚えてる限りで最大八時間半くらい。


 ミキ君が出勤日で、私は休みだった。光生君は避妊が嫌いだったけれど、もう婚約の話が出ていた。子供が欲しいと言っていた。

 

 その時は普通のエッチで、中に出された後にシャワーが出来ず、そ のまんまベッドに縛られて放置だった。ほとんど眠っていたから、 あまり辛くなかったけど喉は渇いた。私はトイレが近いので、 少量のおしっこを数回、仕方なく漏らした。

 

 帰って来たミキ君は、上機嫌だった。「良い子にしてた?」の後に 「ベッドを汚したから悪い子だ」と嬉々として言った。真面目に、 本気で言ってるから、それがちょっと、かなり怖い。不気味と言ってもいいくらいに。


 長時間シャワーが出来なかったからか、膣の炎症が起きて婦人科に 連れて行って貰った。
 膣が腫れると、ミキ君はすごく心配する。私は痛いし痒いし気持ち悪くて、ミキ君を遠ざけた。けっこう攻撃的に。攻撃的に、逃げたというか…猫みたいに。

 

 炎症があると、優しいけれどコンドームありで、それでもやろうとするから。拒否するとミキ君は喜んでいた。喜んで、 やりたがった。その後、また盛大に心配をする。

 

 炎症は、毎月毎月繰り返した。生理前に特に、体の抵抗力が弱まって炎症が出やすくなるみたいだった。抗生物質を飲んで軟膏を塗っ て、しばらくセックスは控えることと婦人科の先生に言われても、 ミキ君はお構いなしだ。

 

 その内、変なモノをよく挿入されるようになった。アサリとか。牡蠣とか。ウズラの玉子とか。ミキ君はアレルギーで海鮮が食べられ ないのだけど、貝類は特に気持ち悪いと言っていた。気持ち悪い物を恋人の膣に入れたい心理って、何なのだろう。

 

 心理学は大学でやってたけど、ミキ君の心は、よくわからなかった 。虫を入れるAVとかがあるから、真似したのかも知れないけど。 ウズラについては、単純に面白そうと思ったのではないかな。 私はミキ君の玩具だ。

 

 放置の時に器具を拘束バンドで固定されたりした。全然気持ち良くない。振動で気持ち悪い。しかも、その状態でクローゼットに閉じ 込められたりした。姿勢が制限されるからか、 普段立っている時にいきなり、脚がガクガクになって転んだりした 。

 

 長時間だから器具が熱くなるし、振動のせいで車酔いのようにもなり、気持ち悪くて吐いた。貧血の時は吐き気が止まらず、 何度も吐いて最後は、吐いた胃液にまみれて目眩の中で、 気を失った。一時、楽になるけど気持ち悪さで起きる。

 

 子供の頃を思い出す。こうやって、苦しさの中で眠り苦しさの中で 起きていた。なんか、安心もしていた。ミキ君は、それを器用に読み取っていた。私が、歪んだ安心感を抱くことを。

 

 四才くらい、パパが亡くなってからは暗闇が好きで、毎日押し入れ に入っていた。中学の時も、たからに出逢うまでは押し入れの中で 眠っていた。暗くて安心する。

 

 ミキ君は私に苦しみを吐き出しているんだってこと、わかっていた 。ミキ君が抱えていた苦しみ。そんなの、私が吸収して吐き出してあげる。

 

 けれどお腹に菌が…(膀胱炎)という診断が出て、私はミキ君が、というよりセックスが嫌になった。でも治ると、ミキ君を受け入れ なければと思う。その繰り返しだ。ミキ君は、私以外にはこういうこと、したことがないと言っていた。


 ミキ君のお母さんは、相当、癖がある人だった。初めてカフェで会 った時、私の存在を丸々無視して、ミキ君とだけ話していた。

 

 ミキ君に電話で、あんな細っけえ弱え子止めときなせ!子供産めねえてば!心臓弱えならすぐ死ぬてばね!と方言で興奮して、 まくし立てているのが聞こえた。

 

 ミキ君は黙っていた。お母さんを否定しない、私を庇わない。それから電話の後、私に抱きついて来た。小さい小さい、消えそうな声で「ごめん。いなくならないで」と言う。子供みたいな声で。


 それから、心は籠もっているのだけど機械的に、好きだよと繰り返 した。心は入っているのに、機械的。ミキ君は、どっかが優しく壊れている。

 

 ミキ君を愛していて、そんな声を出されて強く抱き締められていたら、何にも出来なくなる。捨てられた子供の声だ。これは、子供の 時の私の声だ。と思う。


 愛の表しかたは、おかしいのかも知れないけれど日の光が射さない クローゼットの中、光生君が不器用にところどころ強く、あるいは弱く縛っていると性的にではなくて、直接的な愛情を覚えた。

 

 強く縛っている時、ミキ君は『離れないで、どこにも行かないで』 と思っている。弱く縛っている時、『痛いかもしれない、ごめんね 』と思っている。どちらにしろ、自分勝手なんだけど私を好きじゃないとやらない。

 

 遠い昔、たからは器用に器用に芸術的に、制服が皺にならないよう にブラウスの上から計算して縛った。

 

 私は彼の作品だっただけ。もちろん愛情の中での製作なのだけど、 縛りのある風景、性を試してみたいという感覚だった。ミキ君の不器用さ、表現のしようのなさ、とは全然違う。


 ミキ君の問題は他にもあった。仕事中なのに、何回も電話が来た。 ミキ君だって忙しいはずなのに、ひどい時は二十分に一回くらい。


 塾や家庭教の指導中は電源を切っているけれど、何時〜何時まで仕 事だよ、とメールしているのに。

 

 だんだんお金の遣い途や友達との外出、私の服装にも、口を挟んで 来た。

 

 理由はわからないけど、仕事の時は白いスーツを着てと言われてい た。着てたら、医療関係者みたいに見える。塾にも白衣があった。 昔の教師は白衣を着ていたらしくて、その慣習らしかった。

 

 ミキ君の親戚はお医者さんが多いのだけど、ミキ君は「血を触るの は汚れ仕事」と言った。だから「死んでも医者にはなりたくなかっ た」んだって。なんか、ミキ君の要望はこういうのが関係してるのかな?ただのコスプレ精神かな。

 

 血が嫌いなミキ君だけど、私の生理中に襲って来て、手やミキ君の 陰部が血だらけになるのは、良いらしい。ミキ君の精神状態って、 けっこう混線していた。


 友達と出かける時も、何時〜何時まで、どこに誰と行くかを教えな いとならない。でも、それは私の病気のせいだ。

 

 街を歩いていて、急に人格交代してオヤジのナンパについていった ことがある。
 途中で意識が戻って、ホテルからミキ君に電話した。


 ミキ君は誘拐として警察に連絡してしまい、ナンパした人は合意だと言い、大変なことになった。私は障害者だから、 判断がつかない子供と、同じ扱いになるらしい。

 

 以来、ミキ君は束縛の域を超えた束縛をするようになった。誰かに突っ込まれても、「タマちゃんは病気だから」と言えば黙らせるこ とが出来る。

 

 そう、ミキ君は華ちゃんじゃなく、タマちゃんと呼ぶようになって いた。「華ちゃんは俺の飼い猫。ペット。だからタマ」と。


 婚約して、完全に一緒に暮らし始めたら、仕事は辞めさせられた。 大学もだ。「出たって大した学歴にならない。お金と時間のムダ。 わかるよね?」と言われた。一応、MARCHと同じくらいの偏差値なんだけど。

 

 友達とも、あんまり会えなくなった。お金はミキ君に、くださいと お願いしないと貰えない。貯金はあるけど、そもそも銀行に行けな い。

 

 たからには、ミキ君との付き合い初めから全部話していた。ミキ君の仕事中、電話をくれたり会いに来てくれた。

 

 たからは口では言わなかったけれど、ミキ君を上手く信用させて、 ミキ君がたからを利用するようにしていた。なんでも屋さんのよう に。その裏では、たからがミキ君を操るようになっていった。

 

 上手く言い表せないけれど、ミキ君はたからなしでは、社会的な判断が出来ないようになった。車を買うにも、たからに相談。 引っ越すにも、たからに相談。契約書なんて読まないで、 たからに見せる。たからは金融の仕事だからか、 保険や不動産にも詳しかった。

 

 これは時間をかけて、そうなったのかと思われるかもしれないけれ ど、違う。たからは、ミキ君を簡単に飲み込んだ。

 

 隙がなくて、精神的なバランスが取れていて、生きることに対する 土台がしっかりしている、たから。同じように見せかけていたミキ 君だけど、ミキ君の本当の内面は、柔らかい赤ちゃんのようなもの 。ふわふわしていた。何かあれば、たからに頼る。 たからはミキ君を上手に信頼させている。

 

 けれど、目が笑っていない。私にはわかる。たからの冷たい計算が 働いている。

 たからが、私に何もしないとミキ君は心から思っていたのだろうか ?


 確かに、たからは表向きは曲がったことは嫌い。しない。婚約して いる友達の彼女に手を出す、なんてしない。……はず。

 

 私はちょっと離れた地点から、二人を眺めるようになっていた。と いうのも病院で治療を重ねるごとに、他人格の統合が進んで、ミキ君が誰だかわかったからだ。

 

 ミキ君は、高校の時、たからの家に来ていた人だった。あれは、今 考えても普通にレイプだったし当時のミキ君も、そう言っていた。

 

 他人格の統合は、その人格に統合して良いか、意見を聞いてから。 ミキ君に接していたのは、しずく(雫)と栞ちゃんだった。

 

 雫は「ミキのセックスが嫌いじゃないから、結婚してあげる」とミキ君に言ったらしい。この人格を、ミキ君は「最高にエロい。早く 統合して」と言っていて、私からしたら、常に浮気されている感じ だった。

 

 説明すると、雫が前に出ている間、私は主人格だというのに、彼女 に殴られて意識を失くす。彼女の記憶は、共有出来ない。統合した ら共有出来たけど、とんでもないことをしていた。

 

 彼女は、中学の時に久住君と、高校の時に田中君ともエッチしていた。
 さらに言うと、中学の三年間と、高校の担任も男だったのだけど、 彼らを誘惑しまくっていた。だから中学の時の担任の先生、警戒し て私に近寄って来なかったんだ。先生、新婚だったもの。

 

 栞ちゃんは、主に泣いている人格だ。この子の記憶は、今の私にも 凄く痛いものでしかない。ミキ君は、栞ちゃんに対しては優しくし ていた。


 光生君は長男なので、面倒見がとても良い。栞ちゃんに対しては、 「かく在るべきこと、本当は妹にしたいことをしていた」と言った 。

 

 たからに申し訳なくて、たからの顔を見れなくなった。中学の時、 高校の時、私は、たからを全身全霊で愛していたのに。その愛をぶち壊していたのが、私の裡側にいる他人格。

 

 それなのに、何も知らないたからは時々、ミキ君のことは脇に追い やって「やり直したい」と言って来た。
 今更…………?

 私の人格は、ガタガタなのに。

 

 でも、たからも、身勝手そのものだ。

 ある時、美術館に連れて行って貰ったのは良いけれど、貧血でふら ふらしていたら、たからのマンションに運ばれていた。美術館のト イレで倒れたから、女性の館員さんについて来て貰って、 運び出したって言った。

 

 その頃も、体重は33kgくらいだった。大柄な、たからには簡単に運べたんだろう。

 SM用の拘束具で繋がれていた。こんなの犯罪だと思うんだけど、 私達の間にそんなの、もう関係ないのだろうな。

 

 痛いから外してと頼んだのに、「ミキと婚約破棄したら、外してやる」だそう。脅迫になるんじゃないかしら。


 怖いのでずっと泣いてたら、何もされなかったけど。腰や脚は触ら れたし、パンツは脱がされた。それは、オムツをつけられたから。 最悪。

 その間のこと、堂々と録画されていた。ベッドの横にカメラがあっ た。変態だ。


 けれど、そんなことがあっても、私はミキ君と入籍する前に、たからと一度寝た。
 何でかと言われたら、これもきちんと説明しにくい。あまりにも、 たからからの求めがひどかったのと、子供を産むとしたらたからの子だっていうことが、わかってしまったからだ。

 

 いくらミキ君と、毎日毎日していても妊娠が出来ない。でも、薬漬けだからなのかなと思っていた。

 たからが死ぬ程、求めていたことの一つは昔も今も同じ。『華との子供が欲しい』。それは、結婚したいということともイコールだった。

 

 結婚は、ミキ君としなきゃいけない。ミキ君を一人にしてはいけな い。たからは、私じゃない人とも結婚出来るけど。

 

 子供を天から頂くこと、と、結婚は別だ。
 たからとは、子供を設けるけれど結婚はしない。ミキ君とは、結婚する。それが、その時の私の判断だった。

 

 たからのマンションに、私から連れてってと頼んで、行った日。

 寒い日だった。昼間はふわふわした雪だったのに、夕方には車の窓を、雹みたいな礫が叩いていた。


 それまで憂鬱そうに翳っていた、たから表情が、一緒に帰りたいと 言ったら、戸惑いと喜びと、それにブレーキをかける慎重さが混ざ り合った、何ともおかしな無表情に変わった。

 たからの家は、男の一人暮らしだというのに完璧に綺麗だった。神経質なんだ。すぐベッドに持って行かれた。運ばれた、じゃなく本当に持って行かれたような感じ。

 

 たからは恋人同士なんだといまだに、思っているみたい。限度を超えているような関わりかたを、してきた。水も直接渡してくれない 。全部口移し。泣いたら、今度は私の涙を舐めている。 しょっぱくないのかしら、涙なんて。

 

 不確実な方法で、たからは一応の避妊はしていたけど、一回目でもう、赤ちゃんが来たと感じ取れた。すぐ帰りたかったけど、たから は泊まって行って欲しいようだった。

 

 ミキを裏切ってるのなら、たからと二人だけで買い物に行っている 時点で裏切っていることになる。

 たからの車に乗り、密室で二人きりでいるのと同じ。たからの目線は、普通の友達に対するものじゃなかったし、隙があれば触りたい 、という欲を伴っていた。

 

 たからが夜中、電話して来ること。それだって、ミキ君から見たら裏切り。
 私がミキ君とのエッチがきつくて嫌になって、それで虚しくなった 時に、電話して!と、たからにメールしていた。

 

 たからは、たからで私のことを好いてくれてるのに。ミキ君(表向き友達、実はあまり好きじゃない同性)と、好きな人が明らかにヤ ッた後に電話しなきゃいけないってこと。それを私は無理に課して いる。


 でも。…たからは、子供の時に「どんな形でも絶対に、華を守る」 と言ってくれた。だからなんだもの。守って欲しいとは言えないけ ど、支えていてほしい。


 なんていうのは、狡いし馬鹿みたい。たからに謝ってみるけれど、 謝りの言葉は謝れば謝るほど、上滑りしていく。たかは、謝るなら ヤらせてくれという感じ。じゃあやっぱり、エッチだけやってりゃ 良いんじゃないかな。好きじゃないじゃん。本当は、 私のことなんて。

 

 たからと結婚するのは、きちんとした家のお嬢さんじゃないといけない。そう思う。学歴も職歴も、たからに見合う人じゃないと。
 私が、卑屈なんだろうか。

 昔、学校を辞めずにいたとしても、私にはエリート的な道は歩めな かっただろうけど。

 たからが執着してるだけ?なのか。

 

 そういうことを、たからのベッドで考え続けていると、さっきから 、たからは二時間ほどもかけて、ずうっと舐めてる……お尻の辺り を。この執拗さは何だろう。お尻の肌が、かぶれてしまいそう。


 何だったんだろう、私達の今までは。13から数えたら、今が28 だから15年だ。

 途中で意識がなくなったから、ところどころ寝ていたのだろうけど 、たからは私と話もしていたと朝、言っていた。

 

 何を?と聞いたら「これからを」だって。
 これから、どうするの?と聞いたら、それには答えずに「どうした い?」と逆に聞かれた。どうしたいも、何もない。また友達に…… 何でもない間柄へ戻りたい。でも、言えない。赤ちゃんのパパが、 友達って。結婚、離婚を経ているのならともかく。

 

 そんなにも変なことを、私はこれから、しようとしている。

 

 3月に入って、妊娠がわかった。たからに真っ先に伝えたけど、答 えは「そうか……」だった。その後、おめでとうって他人みたいに言う。


 たからはミキ君の子だと、思ってる。

 だけど、そうじゃないと困る。そうじゃないと、たからはミキ君を 殺してでも、私と結婚しようとするだろう。

 

 赤ちゃんが、二人の子供が生まれて来るのだから、それでもう良いじゃない。

 

 命。

 私達の血が、混ざっていた時を思い出す。たからの家のバスルーム で、子供ながらの愛の儀式をしていた時。あの時、 とても崇高な気持ちになった。生まれて来る赤ちゃんは、私達の得意や不得意、私達のご先祖様方の好みや、苦手なものも、何だって 知っているのかも。私達の、お互いの初恋の時期のことも。


 結婚にこだわる意味は、わからない。恋愛しなきゃいけない意味も わからない。恋人や、夫婦という型に嵌らなければいけない理由が わからない。人を一人だけしか愛せない理由も、わからない。


 現実逃避の不倫は大嫌い。心の弱さを投影した、だらしのない関係 は嫌だ。それじゃなくて。たからとは、そうじゃなくて。 ただ愛するだけでは、駄目なの?

 

 たからとは、命を生み出したい。
 けれど、一緒に育てる必要はない。

 

 変なのかな。私、ママにも育てられてないから。小さい時、一時的 に伯母さんの養女になって、それから養子縁組を解消されて、義理 の父の養女に今度はされたから、同じ家、同じ親、同じ家族の元で 育たなければいけない、という概念がない。だから変なのか。

 

 たからを、愛している。一番目、ニ番目とかじゃなくて。
 ミキ君も愛している。ミキ君を守りたい。たからは、私を守ってくれる。つまり、たからはたから自身をまず守れるということ。 だから人を守れる。ミキ君は、ミキ君自身も守れない。 だから私が守る。


 これは、この気持ちは間違っている?

 二人を大事に愛している。生まれて来る子も、愛している。愛する の種類は、違うけれど。愛は全部が、愛だ。

 

 妊娠したので、薬を止めないとならなくなった。様々な薬を、たく さん処方されていた。

 五年くらい吸っていた煙草は、すぐに止められた。でも薬は、そん なレベルじゃなかった。


 患者会で会った人は、禁煙がレベル十とすると禁酒は百、麻薬が五 百、抗精神薬が千レベルだと言った。万、だったかも。それくらい 難しいってこと。
 一回、薬漬けになったら抜け出すのは至難の業。

 頓服だったヒルナミンリスパダールは、すぐに抜けた。ラムネみ たいに食べていた精神安定剤デパスが一番、強烈だった。 最後まで抜けなかった。

 

 血で血を洗うように、毒を毒で流すように、デパスを使いながら他 の薬を抜いていった。
 目眩や寒気、関節痛、頭痛、38度くらいの発熱など、インフルエ ンザのような症状があった。吐き気や下痢で、脱水症状になって夜 中に病院に行ったり。よくわからない自殺願望が出てきたり。

 

 悪い血が、体に流れてるから血を抜いたら、薬も抜けると思った。 妄想も出るらしい。心臓付近、手首、首付近を切ったりした。

 デパス離脱症状には、市販薬のパブロン
飲んで、いっ時ごまかした。パブロンにも、依存性があるけど。風邪薬だから、大した依存性では、なかった。

 

 離脱症状は、インフルの症状に似ているから高熱が出たり、関節の 痛みがあったりする。吐き気や下痢も。そんな時、パブロンを四、 五錠くらい飲んだ。もちろん、飲み過ぎ。一日で十七錠くらい飲ん だりもした。規定は九錠だから、倍くらい。仕方なかった。

 

 いつも、いつもボーッとしていて、すごく息苦しい。フラフラと目 眩が続く。それでも、ミキ君は構わず夜になると迫って来る。 それは、苦行だった。


 たからは、妊娠を教えてから全然会ってくれなくなった。電話とメ ールでは、優しかったけど。遠慮している感じだった。

 

 心臓の辺りを切って、血がたくさん出て怖くなり、たからに電話し た。自傷したことは、言わずに。けれど、変だと思われたようだ。


 病院に連れて行くと言われたから、慌てて切った。自傷を怒られそ うだから。たからに悲しまれたり、怒られることは嫌だ。 理由がなくて切っているわけじゃない。説明出来ないだけ。

 

 住んでいたマンションは、六階だった。窓から落ちたら、楽になれ そう。そう思ったら、飛び降りたくてたまらなくなる。強迫観念みたいに。


 ミキ君は、止めるのに命がけだった。命がけで止めて守ってくれた 。抱き締めることだけでしか、ミキ君は止める術がなかったと言っていた。

 

 一晩中、抱き締めて眠ってくれた時に私も、ミキ君を抱き締め続けていこうと、思った。


 断薬でひどい状態でも、妊娠中でも、ミキ君は姿勢に気をつけて、 セックスレスにならないようにしていた。繋がりがなくなったら、 夫婦じゃなくなると思ったみたいだ。

 

 妊娠した翌月、入籍したけれど実感はなかった。私の親が変わって いるから、ミキ君の親族には会わせていない。ミキ君が忙しいから 、新婚旅行なんてしない。結婚式もなし。私の親戚は、 ほとんど疎遠だもの。
 指輪と書類だけが、結婚した証。

 

 たからは、時々メールでミキ君のしていることがDVだと言って来 た。
 変態的なセックスについて、たからには話していたけどそれは、愛 の形だよね?という意味で聞いていた。たからだって、変なことを 昔、たくさんしたのに。

 同じようなものじゃない?

 

 何が、DVに当たるんだろう。ミキ君は、私にお皿やお箸をくれな い時があり、食べ物を床に撒いて「食べな」ということがあった。


 だけど、それは私が子供の頃にお皿やお箸を与えられず、ひどいと 猫用の缶詰を食べさせらたり、犬用の固い干し肉を投げられたりし ていたからだ。それを話して、似たようなことを再現されて、 何だか安心した。再現して、と私がミキ君に頼んだんだ。

 

 バルコニーに出されたりするのは、身体的につらかったけど、それも子供の頃にされた。ミキ君のお母さんも、ミキ君にじゃないけど 妹さんに、していたらしい。それについては「教育だよ」 と言われた。

 

 殴るとか、蹴るなんてことはしないけど怒鳴ったり叩かれたり、は あった。怒鳴り声は嫌いだし、怖い。叩く人も嫌い。

 

 ミキ君が怒鳴る時は赤ちゃんに戻っている時だった。叩く時も。思 い通りにならないから、イヤイヤしている時。悲しそうに、ミキ君 は怒鳴るし叩く。それで、私も悲しくなって泣いた。叩かれても、 痛みはなかった。こんなのは、慣れてるし。ずっと、昔から。


 ミキ君は手加減していたみたいだけど、こっちは、よろけて倒れる ぐらいの力ではあった。

 

 その後、泣いて謝って来る。指輪を買って来たり、ケーキを買って 来たり、高価な花束を買って来たりする。蘭の鉢を何個も買って来 たことがあった。玄関が、キャバクラみたいになったので二人して 笑ってた。私は、痣が出来ていても。きっと、変な光景だった。

 

 外に行かないから見つからないけど、ミキ君に首を何箇所も噛まれて、隙間がないくらい噛まれて、首が全体的に鮮やかな紫色になっ たりした。


 私はそれを、ミキ君の愛がお花みたいに首に咲いた、というふうに 感じた。他人から見たら、ただの馬鹿なんだろうともわかっていた 。

 

 たからが全力で、ミキ君を否定しているくらいだから。それが、正しい感覚なんだろうけど。

 断薬はし切れなかったけれど、無事に普通分娩で出産に臨めた。


 赤ちゃんはお腹の中で、やたら大きく育った。私がロクなものを食 べていなくても。

 たからに似たのだと、わかっていた。たからは約四千グラムで生ま れていて、お母さんは帝王切開だったと言っていたから。 高校に入った時、もう百八十センチに届くくらいだった。

 

 力が足りず、なかなか産めなくて苦しんだ。陣痛もそうだし、分娩 室に入ってからも、どうにもならない種類の痛みだった。だけど最 後は、痛みじゃなく熱さ、命の熱しか感じなかった。赤ちゃんが生まれた瞬間は、幸福で光に包まれたと思った。

 

 神様が、これで良い、良いんだよと頷いているのがわかった。亡く なったパパが、心配して近くにいるのもわかった。霊とか魂、神様 、お医者さんや助産師さんの懸命な力、赤ちゃんの生まれて来る力 、私自身が生きようと思う力、すべては、ひとつだった。 ひとつの、うねり。


 カンガルーケアで胸の上に載った赤ちゃん。
女の子。こーちゃん。真っ赤な顔でちょっと泣いてから、すぐおっ ぱいをごくごく飲んで、すやすや眠り込んだ。

 あらあ、この子はおっぱいを飲むのが上手だね
 良い子が生まれたねえ
 パパにお電話してね


 助産師さんが、明るい声で話している。私の心身の状態が悪くて、 子宮も奇形だったので、個人医院での出産は出来なかった。総合病 院だと、経験豊富な助産師さんが多く、有り難かった。

 

 分娩室で、体を拭いて貰ったりしている途中、自分で電話した。携帯を普通に渡された。自分で電話するものらしい。

 

 ミキ君は仕事前で、寝ていた。「えっ、もう生まれたの」と、呑気な言葉。

 たからに電話したら、仕事中で電話が取れなかったらしく、病室に 戻ってボーッとしていたら、電話が来た。

 

 午後1時11分、生まれたのよと伝えた。たからはしばらく無言で 、「おめでとう」と言って、あれこれ体調を尋ねて来た。 ミキ君よりは、よほど丁寧だ。

 

 ミキ君、リポビタンDオロナミンCとプリンとアイスと春雨サラ ダとお茶とポカリとコンビニのおでん、を買って来てくれた。冷蔵 庫はあるけど冷凍庫がないので、アイスはすぐに何とか食べた。 涼やかな、バニラの味だった。

 

 たからは、入院中は来てくれず退院後も、全然来なかった。


 ミキ君が二週間の大阪出張の時、寂しくて心細い時、来てくれた。 もう産後一か月、経っていた。

 「欲しいものないか」と電話で言うから、オムツを頼んだらちゃん と新生児用を買って来た。それから、メイバランスという介護食。 飲んで栄養が取れるもの。高いのに、セットで。

 

 お祝いのお金もくれて、友達から貰う額じゃなかったから、もしか して、こーちゃんがたからの子だと気づいたんじゃないかなと思った。

 

 でも、たからは自分からこーちゃんを抱っこせず、遠まきに眺めていた。近づかない。

 

 ミキ君は、最初「落としそう。小さくて怖い」と言って、抱っこし なかった。たからもかと思ったけど、抱っこしてよ!と言ったら慎 重に、きちんと首を支えて抱っこしていた。たからが座った状態で 、だけど。

 

 ミキ君の仕事は、忙しくなるばかり。二週間単位で、東京か大阪、 福岡、岡山などに行っていた。

 

 お家は、いつも静か。こーちゃんはおっぱい飲んで、ずっと寝てい る。お掃除をゆっくりして、赤ちゃんの肌着を洗って、 私も眠って、過ごしていた。


 貧血もあって、授乳のため、薬を抜くのもまだ続いていて、眠くて 眠くて仕方ない。

 

 外には行かない。行けない。街の中でも、車がないと不便な地域な のに、車の運転が出来ない。以前から薬をたくさん飲んでいたから 、免許を取ってはいけないと言われていた。タクシーを使うにして も、小さな赤ちゃんを抱えてどこかに行くなんて、 体力的にも無理だ。貧血は妊娠中から、かなりひどくなっていた。

 

 そして、ミキ君は病院以外は外出禁止と言っていた。病院に行く時 は、ミキ君のお父さんに頼んで連れて行って貰うしかない。

 

 たからはしょっ中、来てくれるようになった。オムツ、ティッシュ 、トイレットペーパー、お米など、重い物やかさばる物を買ってき てくれた。
 ミキ君がいないから。ミキ君がいる日には来ない。


 時計の音がチクタク、チクタク聞こえる静かな部屋で、レースのカ ーテンを引いてランプをつけて、優しい空間の中。


 赤ちゃんの匂いは、おっぱいの匂い。ミルクの匂いと一緒。安心する。こーちゃんを添い寝で授乳していたら、いつの間にか眠ってい る。地の果てに引きずり込まれるような、強い眠りの世界。

 

 たからはその中に時々来ては、「癒されに来ている」と言う。買い 物の代金を渡そうとしても、「癒されに勝手に来ているから」と受 け取らない。


 夢をよく見た。たからの夢というより、猫の夢。私達、二匹の猫になっている。
 抱き合って眠っているのだけど、不意にたからに攻撃をされる。私 からだったかも。近くに他の猫もいるんだけど、無関心。


 何だろう、この夢。と、夢を見ながら思う。最後にたからに首を咬 まれて、血が大量に噴き出て、死ぬ。全ての最期に十字架が見える 。

 

 たからといると、たからの目が愛情に満ちていることはわかるのだけど、どうしてか怖さも感じる。
 何かのきっかけで、ミキ君のいる風景をぶっ壊しそうな。


 娘、こーちゃんが保育園に行くことに決まった。ミキ君があまり家 にいられないくらいに忙しいし、私の体調が悪いから。


 心臓が悪いとか、弱いとかの理由で優先されて保育園に入れるのは 、申し訳なかった。働いているお母さんは、たくさんいるのに。ミ キ君や、たからは「診断書があるから有利」「診断書は絶対的な印 籠」という考えだった。

 

 私は、何だかズルしてる感じがして、嫌だった。
 事実、一般的な考えの中で、病気なんだから仕方ないって人もいる だろう。けど、甘えるなって人もいるだろうし、 あんただけズルい、って人もいるはず。

 

 それぞれ、みんな、暮らしの中でどこかが大変なんだから。働きながらの育児、家事。
 それらを当然のこととして、女性が強いられている風潮が良くない のかもだけど。働きながら、出来て当たり前、みたいなの。男も家 事と育児を半分やれば良いじゃない。男だけが、出世を出来るの? 女よりも?


 働かないと、と思って、昔働いていた骨董店に連絡したら、お店の 欠員はなかった。社長は私が、人の話をよく聴けるんだからそれを 生かして、相談所やれば?と言った。
 冗談とかじゃなく、お店のスペースを貸してくれるって。

 

 ビルの二階で、社長は画廊や塾もやっていた。社長は外国で働いて いたし、数学も得意だったから、中高生に英語と数学を教えてもい た。
 その塾にも、その時は欠員がなかったんだけど、画廊には前から時 々、絵を描いては置いて貰っていた。


 占いが好きだから、相談所というか…占い師として、仕事を始める ことにした。たからに話したら、「座っていられる仕事だから」 と勧めてくれた。でも、ミキ君は私が働くことについて嫌な顔をした。

 

 骨董店の社長が、ミキ君と電話で話してくれた。私のことを、ベタ 褒めしたり送迎を申し出てくれたり、話の持って行きかたが上手か ったらしい。ミキ君は、「あの人なら信用出来るかな」と言った。

 

 それにも、本当はたからが一枚噛んでて、社長にミキ君のことを話 していて、「DVがあるから引き離したい」と言っていたらしい。
 社長は心配してくれたけど、ミキ君との暮らしが嫌なんじゃないも の。ミキ君のことは好きだもの。そう答えた。


 外に出られることになって、働けて、すごくすごくすごく嬉しかっ た。たからは仕事が忙しいのに、必ずといって良いくらい、 送迎をしてくれた。と言っても社長が先に送ってくれたりしたので 、たからは悔しがっていた。

 

 占い師という、ある意味で特殊な仕事だけど、お客様が紹介を含め 、どんどんついていった。最初、一鑑定を五千円とたからが決めて くれたのだけど一時間で、三万円〜五万円頂いていた。

 

 骨董や古美術のお店なので、お客様はお金の感覚が違っていたのか も知れない。平均よりは、裕福な方々が多い。 経営をされている方々も多い。

 

 その内、私にくっついている、たからの経歴を聞いて、たからに相 談する方々が増えてきた。たからは、最初にはっきり「有償にて承 ります」と言った。「技能や知識を安売りはしません」って。

 

 たからは経営学を、大学で修えていた。しかも、この辺では珍しい東大卒ってだけで、グワッとお客様が増した。学歴ってやっぱり怖 い。

 

 ミキ君は、単純だった。私のお給料を渡したら、「もっと良い所に 引っ越そうよ」という感じ。でも「車はまだ良いや、動くから」 ってところが、変に控えめなミキ君らしかったり。あと、「画面が 大きなテレビ欲しいな」くらい。


 お客様が増えて来たから、社長は貸しスペースではなくて、独立す ると良いよと言ってくれた。

 たからに「一緒にやりたいなあ、たからと。占いの館を」と言った ら、たからの目がきらっ、とした。
 この目、知ってる。中学生の時のたからの目だ。意志が固まった時 の。こうなったら、実現間違いなし。


 占いの館は、古いマンションの一室。家賃が安いのに3DK。自費 で壁紙を貼り直したり、エアコンを新品にしたり出来た。たからは 、内装にお金をかけてくれた。「投資だ」って。私への。

 

 カルチャースクールに生涯学習として、占いを教えに行ったり、幸せを感じた。

 

 まだ少し、薬は飲んでいたけど(飲むというより、齧っていた)治 療は一旦、完了した。
最後まで断薬に苦労したデパスは、ひどい時に一日ニシート(二十 錠)程も飲んでいたのが、ニ日・三日に一度、十二分の一錠を齧る か、どうかくらいに減っていた。

 

 人格の統合が済んで、障害者手帳も持たなくて良くなった。回復したら、障害者ではなくなった。障害の2級から、3級になるかもと 主治医は言ったけど、年金機構では、治癒したと判断された。

 

 一人だけ、まとめ役の人が統合をしない選択をした。その人は、ま だ私の中にいる。この人とは、話せない。手帳やノートに、たまに 手紙を書いておくと、しばらくしてから、答えが書いてある。

 

 他人格って、何だろう。今もわからない。私の脳が作り出した、だ けど完全な他人。想像して出すというのじゃない。だって、この人 はドイツ語を書いたり、喋れるらしいのだもの。男だからなのか、 たからと対等に意見を闘わせたりするらしい。

 

 占いの館では、占いを教えた生徒さんがお弟子さんになった。たま たまミキ君と出かけたショッピングモールで、手相占いをしていた 子をスカウトして、毎日一緒に働いていた。

 

 土曜日と日曜日、祝日には、たからも来てくれる。
 お金の管理が主だけど、時々財務鑑定をしてくれた。占い師という より、コンサルタントだ。

 

 その頃には、たからは私達の中学時代の後輩と付き合っていた。部 活の後輩だった、二才下の奈々ちゃんと。

 

 なっちゃんは、たからや私が付き合ってたことを知っている。たからは 最初から、私との「不倫までの期間限定」と言って、なっちゃんと 付き合っていた。それも、なっちゃんとの結婚前提で。

 

 つまり、私と不倫するようになったら、お前とは別れるからねって こと。ひどすぎる。なのに、なっちゃんは、 たからのことを中学生の時から好きだったので、それでも良いらしかった。

 

 なっちゃんに赤ちゃんが出来て、たからは結婚することになった。 おめでたいことなのに、たからは全然嬉しそうじゃなかった。

 

 たからがこんなふうな人だとは、思えない。たからが、私に「失敗した」「お前のせい」と言って来たことがあり、わけがわからなか った。赤ちゃんが来ることに、失敗なんてない。それについて怒っ たら、たからは悲しそうな目で、こっちを見た。

 

 たからのこの目は苦手。私も悲しくなる。
 どうして、私のせいなのかと考えて考えて考えまくったけど、よく わからないまま。

 

 たからと二人で、占い館の一室にいた時、不正出血があった。元か ら貧血で、鉄剤注射に病院に通っていた。けっこうな量の血を見て しまったら、一気にフラフラし出した。

 

 熱もある。具合悪いから、寝るよとたからに言った。たからは、エ ビアンを持って来たりブランケットを持って来たり、体温計を持っ て来たり、無言だけど優しい。

 

 いつも休んでいる、折り畳みベッドで横になった時、たからが「ド ア閉める?」と部屋の外から尋ねて来た。


 また、寂しいような悲しいような目をしてる。悲しみに満ちてる目 ……。
 閉めないで!と言った。


 たからが今、ドアを閉めたら、たからの心が閉じてしまう気がした 。

 たからは、無言で部屋に入って来た。私は、たからに手を伸ばした 。


 それが良くなかったんだと思う。じゃあやっぱり、たからにドアを 閉めさせたら良かったのかな。わからない。
 たからは、無表情だった。無表情で、ベッドに素早く乗った。

 

 びっくりする顔をする間も、なかった。たからの肩の辺りを両手で 押したけど、それで押し退けられるわけがない。次にはもう、 密着してたから、こっちは、 避けようとしてるのに避けるではなくて、たからに抱きついてる形 にしかならなかった。

 

 こんな時に、たからは良い匂いと思ってしまった。香水の匂いじゃ なく、たからの首筋や、髪の毛の匂いが。
 じゃあ嫌じゃなかったんじゃないか、と思われるかもしれない。け ど嫌だった。間違いなく嫌だ。さっき血が出てたんだから、今また 出るかもしれない、お腹は痛くないけど、痛くなるかもしれない。 というか、確実に痛くなりそう。

 

 血が出るから嫌だ、と言ったのにたからは聞いてなかった。聞こえてなかったんじゃなくて、聞いてない。手を壁にぶつけてしまって 、半端じゃない痛みで、叫んだ。たからは、その時に一回目に「 うるさいな」と言った。二回目に、「もっと泣け」と言った。 どちらも、楽しんでる声だった。


 この人は、私が痛くてもわからない。伝わらない。あ、そっか…… と、ふいに何かに気づいた。何だろう。そうだ、ミキ君と同じなん だ。


 あっさり終わったのだけど、たからは自分勝手な動きしかしていな かった。直接入れて、直接出したから、 たからは私のことは大事ではないんだなあ、と、しみじみと感じた 。具合が悪いって言っておいたのに。

 

 ふっと、たからが私のことを好きだった期間は、純粋な子供の時だ けのことで、今は違うんだろうなと途中、思った。けれど、 たからがすごく傷ついていて、今、こうなってるとも思った。

 

 なっちゃんと、ちゃんと付き合っていないこと。
 なっちゃんの赤ちゃんと、ちゃんと向き合わないこと。
 強姦まがいなこと、といっても強姦なんだろうけど、急にこんなことをしている、たからの混乱。

 

 気まずいとかじゃなく、たからは何だかオロオロしていた。狼狽す るたからなんて見たことないから、もう仕方ないなあ、と思ってし まった。済んだことは、仕方がない。変えられないから。


 手、手首が腫れて変だったので、ミキ君に病院に連れて行かれた。 ミキ君には、転んでぶつけたと言った。「バカだなあ」と、本当にバカにした感じで言い捨てられた。


 病院でレントゲンを撮って貰ったら、ヒビが入っていた。

 たからは大慌てで、治療費の話や通院の送迎を申し出てくれたけど 、治療費だけ受け取ることに落ち着いた。


 ミキ君が、たからを疑ったら困る。

 たからがいるのに、怪我をするようなこと、普通はない。荷物も持 ってくれるのだし。私が勝手に転んだことにしたけれど。

 

 「怪我したら、すぐたからが病院に連れて行ったはずなのに何であ んなに腫れるまで放っておいたの?」とミキ君に言われて、私が仕 事したかったからだよと答えた。

 

 たからはそれからしばらく、落ち込んでた。フランスへ出張してい て、帰って来た時にフランスアティークの指輪をくれた。何で左 手の薬指のサイズと、ぴったりなんだろう。計算?偶然?

 

 ある日、いきなりたからが家に来た。玄関先で、「もう止めよう」 と言い出した。何を?と聞いたら、「これが友達なんだったら、も う止めよう」って。 

 

 友達を辞める?…………

 

それから、「フランスへ駐在する希望を出している」と言った。一 度行ったなら、十年くらい向こうに住むって。なっちゃんを連れて 行って、あっちで子供を育てて。

 

 「華のことは忘れる、日本で見た夢だと思うことにする」と言った 。胡蝶之夢、という言葉を出して難しいことを話していた。それは 中国の思想家の言葉らしかった。胡蝶の見ている夢が実は、自分な んだとか。つまり、夢が現実で、現実は夢であって、生きることは 儚い……というような。哲学的な話。

 

「華と過ごしたことは現実だが、とんでもなく甘美な夢だったとして後は渇いた日常を生きる、 その日常は悪い夢だとする」と言っていた。たからの喩えは、いちいちカッコいいのだけどわかりづらい。

 私は、じゃあ、たからの人生はどっちにしろ夢なのね?と尋ねた。 良い夢か悪い夢か。夢にしか出来ないくらい、つまらない人生なのね。

 

 たからは頷いて、「お前のせいだ」と冷たく冷たく呟いたから、涙 があふれた。どっから、ってくらいに後から後から。
 人のせいにするなって思ったけど、言えない。たからはやっぱり私 に依存している。たからの、人生なのに。


 帰る前に、たからは「お前がいればそれでもう良いんだ」と、言った。


 その数日後に、占い館の洗面所にいたら急に抱きついて来た。「も う我慢しません」と、変な丁寧語。私がフランスに行かないで欲し いと言ったから。それで、覚悟がついたとか。

 

 なっちゃんには「先輩、たからさんと再燃したんですよね」と言われてしまった。してないよ、と言ったけど再燃って、どこから再燃 なんだろう。たからはずっとずっと、燃焼してるけど。

 

 「ごめんなさい。先輩に返さないといけないけど今は返せません。 もう少し時間ください」と言われた。たからとちゃんと、家庭を作らないと駄目だよと答えたら、なっちゃんは「自信がありません」 って泣いていた。たからは、なっちゃんを見ていなかった。

 

 なっちゃんとたからは、一か月後に結婚式を控えていた。この状況 なのに平気で占い館の中で襲って来た。私が何も言わなかったら、 もうOKだと思ったらしく毎日毎日、何かを仕掛けて来た。

 

 変なSMセット持って来たり、曲芸の補助みたいなベルト持って来たり、「どれが良い?」とおかしな玩具持って来たり。楽しそう。
 でも、たからは限界なんだなと感じた。今まで、支えようとしてくれて実際に支えてくれて、子供の頃からのトータルで考えたら、何 をお礼にすれば良いのかわからないくらい。

 

 そのお礼が、異性だから異性としての快感が伴うこと、それだけで しかないんだったら、それで良いのだったら、軽いなと思った。 お礼としては、軽い。体の具合が良くないから、はっきり言って苦 しいし、きついけど。

 

 でも、毎日そういうことしている内に、嫌な気分にもなった。たからは口では、愛だの恋だの言ってるけど、結局ヤリたいだけじゃん 、と思ったり。

 

 ミキ君を馬鹿にしてるんだなあ、とも思った。これも、口では友達とか言ってるけど。それについても、「お前は旦那の友達にこういうことをされて喜んでいる」とか言って来るんだけど、 そんなわけないでしょと頭では思う。反論してないけど。

 

 たからが、そのシチュエーションに燃えてるようなので、付き合っ てるだけだ。女が、というか女性器が、濡れたり潮が出ちゃったり というのは、けっこう不可抗力だったりする。 気持ち良くない時もある。急に力を加えられたら、 防衛として濡れたりするし。気分が悪い時だってある。男は、 それを知らない。

 

 早く済ませたいから、感じてるフリをする時もある。だって、痛いんだから。元気な時なら良いけど、栄養不良過ぎて、点滴に病院に 通ってる時期だった。


 多量の不正出血が有った時、検査したら癌だった。その時、ステー ジIIIcだった。子宮癌健診を、一回サボった間に……。

 

 たからは、こんなガリガリな体によく勃つよなー、くらいに思って た。特殊な趣味なんだな、とか。

 私も、ミキ君を馬鹿にしてるってことになる。ミキ君が働いてる間 に、無抵抗でたからに、好きなようにさせてるわけで。

 

 無抵抗しか、この状況を乗り切る手段がないからだけど。暴れたと ころで、怪我するか消耗するかしか、結果としては存在しないじゃ ない。ミキ君に言って、たからとミキ君が険悪になり、 険悪の果てにどうなるか。喧嘩とかじゃなく。怨み合い、念と念で 潰れていくような二人を見たくない。しかも、それ、私が死ぬ前に 。

 

 どうせ死ぬのなら、お墓まで口を噤んで。二人が、穏やかに在るよ うに。この先も。私が死んでからも。


 不倫は、先生の時で懲りていた。それなのに、今、その状態。


 ミキ君に、たからのことを話したら、現実的にどうなるだろうと考 えた。とりあえずあっさり離婚だろうと思う。


 ミキ君は「浮気したら離婚」と言っていた。若い時にモテまくって いたミキ君だけど、結婚したらこうすべき、という意志が強くあっ て、真面目だった。


 たからとも、バカみたいな真正面からぶつかる喧嘩はしないとわか っていた。慰謝料のことや何か、事務的な話だけだろうって。

 でも、思念では、たからを殺すし、たからはミキ君の思念を捻り潰 してしまうだろう。それは実際に、ミキ君を病ませてしまう。


 こーちゃんのことは、二人に知らせたくない。二人に対して、無責任に見えるだろうけど。


 私は子育てに関しては、男が無能だ、と思っていた。ほぼ無能。ほ とんど、ママがやるもの。だから、命を懸けて産む禊が女だけに与えられる。


 男を嘗めてると言われたら、そうなる。

 教育と、子育ては違うと思っていて。
 教育は、男にも出来るけど。子育てというもの、例えばお乳をあげ ることは、男には出来ない。

 

 粉ミルクを作ってあげることは、出来るけど。きちんと哺乳瓶を消 毒して、小さなブラシで洗って、の繰り返しや、 ミルクの温度の管理を、それを一日中毎日毎日繰り返すことを、仕 事を休んでまでやってくれる男が、どれくらいいるだろう。

 

 赤ちゃんのお世話は、大変。
 一日何回も、ゆるゆるのウンチが飛び散ったオムツを取り替えて取 り替えて、おしっこも何回もするのだから、きちんとお尻拭きで拭 いてあげないと、すぐ皮膚がかぶれてしまうのだし。

 

 お風呂に気をつけて入れて、室内の温度や乾燥に気をつけて、産後 の心身がバラバラで疲労困憊で、痔にも便秘にも貧血にもなる中で 、縫ったお股も痛い中で、赤ちゃんが優先。24時間。

 

 男はまず、出産と同レベルの痛みで死ぬのだから。
 ちょっと想像して欲しいのだけど、お尻辺りを切られて縫われて、 全治一か月の怪我が回復しない内に、ふにゃふにゃの柔らかな赤ち ゃんを24時間面倒見ろ!目を離したらこの命は死ぬんだぞ、 とプレッシャーを周囲から、かけられ続けるの。 心と体が壊れない人のほうが、少ない。

 

 歩くようになったら、ますます目が離せない。ご飯も、量とバラン スに気をつけないといけないし、叱りかたも考えないと、 日々の接しかたの全てが、後々の子供の人生に影響していく。


 大げさな話じゃなくて。子育ては、大変。

 道徳や、勉強を教えることは楽。教育だって本当は難しいのだけれ ど、子育てというのは、もっと大規模だ。 命と命が成長し合って響き合う、戦いの日々だ。

 

 男は子育てには、あんまり参加出来ないと思って来た。私がこうだ から、ミキ君も参加しないのかもだけど。私が、参加させてなかっ たのかもだけど。


 ミキ君は、とりあえず仕事で疲れたから癒して、という求めだけだ 。

 たからも、そうだ。今まで面倒見て来たんだから、愛して来たんだ から、早く愛して。もっと愛して。もっともっと深く愛して、 という求めだけ。たからがどんなに、愛情を籠めて触って来ても、 その時の私には、たからは押しつけがましいなあ、と感じられた。

 

 薄情かもしれないけれど、体調が悪い時期だからこそ、裏側が見え る。光輝く愛の裏側の部分。たからは、私が癌だとわかったから、 このまま死ぬなんて許さないと思ったんじゃないかしら。


 孤独だなと思った。誰からも、心が離れていた。闘病は、こーちゃ んのために頑張るけれど。
 ミキ君もたからも、関係なかった。もっとはっきり言ってしまえば 、眼中になかった。だって具合が悪いだもの。

 

 癌の恐怖、痛み、薬の吐き気、不安、それらは絶対な、大きなもの 。
 付近にいる、身勝手な異性なんかどうだって良かった。でも、彼ら は愛情も確かに持っていた。その愛情は、感じることが出来たけれ ど

 

子供の存在のほうが、もっと絶対的だった。娘がいるのだから、生 きたいよ。

 病気というのは、神様のお計らい、思し召し、全ては神様の御心。


 でも、私はやっぱ、ちょっとおかしいんだなと思う。病んでるとい うか、考えかたに闇があるんだなあ、とも思った。たからや、 ミキ君に対する想いは、なんだかとても、ある意味では凍てついた ものだった。冷めたものというよりは、氷のようなもの。 上手く言えないけれど。


 ミキ君には、感謝している。苦しい時を支えてくれて。
 たからにも、感謝している。子供の時に、私を生きさせてくれて。

 傍にいてくれて、ありがとう。

 だから、男である彼ら二人が、その時その時に求める単発的な望み は、なるべく叶えよう。


 でも、子供は一人で育てていこうと思った。
ミキ君とは離婚して、たからとも再婚をせずに。


 ミキ君と、決定的に別れようと思った夜は、何の準備もない中で、急に訪れてしまった。

 

 小さな丸太のような、太めの木の枝、というより木の股のような器 具を入れようと光生君がして来て、入るわけなかったけど大出血し て、激痛と貧血があまりにも酷かったから、たからを呼んだ。 夜中、過ぎだった。

 

 『お腹からたくさん出血しているので、痛くて、病院に行きます。 たからに連れて行って貰います。こーちゃんは、明日保育園へ迎え に行くので、朝、ちゃんとご飯を食べさせて園バスに乗せてくださ い。お弁当はキッチンにあります。』
 書き置きした。もっと色々書きたかったけど。


 ミキ君は満足して寝ていた。

 たからが来る前に、処方されていたロキソニンを二錠飲んだ。全然 効かなかった。
 こーちゃんを撫でていたら、たからが『着いた』とLINEをくれた。

 

 重いドアを開けて外に出た時の、すうっと入ってきた夜の匂いが忘れられない。

エントランスのところで、ぎゅっと抱き締めて来た、 たからのジャケットの匂い、香水の匂い、たからの部屋の匂い、た から自身の匂いも忘れない。本当は、ここが私の居場所なのかなと 思った。たからのいる場所が、私の居場所なのかも。やっぱり、 本当は、最初から。

 

 でも、私は間違えてない。今までは、たからと一緒にいられなかっ た。一緒にいる時の流れでは、なかった。 
 じゃあ、これからは……?


 急患センターに行って、麻酔して、傷口を縫った。たからが、受付 で診断書を頼んでいた。


 なっちゃんとの新居に連れて行ってくれたけど、なっちゃんはいな かった。
 広く、寒々としたマンションだった。どこもかしこも、白くて。白 い壁、白い天井、白い家具。


 リビングは可愛い感じだったけれど、なっちゃんのいない場所で飾 られているインテリアの雑貨は、なっちゃんがここで過ごした短い 期間の寂しさを、静かに物語ってる。

 

 たからの部屋は、逆に黒いデスクやパソコンだらけで。何だか、たからの静かな狂気や、同時にそこに潜む優しさを、感じたりした。


 二人の関係の、アンバランスさが家の空気に反映されていた。なっちゃんは、健全なのに。たからの昏い気で修復出来ないくらいに、 病んでいったんだ。


 たからは神経質に手や顔を洗って、うがいをして、玄関をなぜか掃 除して、着替えてベッドを直して私を呼んだ。

 

 こんなに、たからは神経質だったかなと思いながら、私も手を洗っ て顔も洗って、うがいをして。ベッドが外気に触れた服で汚れたら 、たからは嫌そうだったから、服を脱いで下着だけで、 たからの隣に入って目を瞑った。

 

 たからの全身は、頑丈な鍵のようだなと思った。抱き締められると いうより、がっちりしがみつかれて眠った。でも、 それで安心して、眠った。

 

 翌日、保育園に連絡して園長先生にも電話で話をして、たからがこ ーちゃんを迎えに行った。一応、手書きの私の委任状も持たせたけ ど、たからが仕事の途中でスーツで寄ったからか、明らかに立派に 見える人が迎えに来たからか、警戒はされなかったらしい。 電話で話が済んでたからか。


 こーちゃんは、たからにすぐ駆け寄ったんだって。

 一時的にだけど、こーちゃんとたからのマンションで過ごすことに なった。
 たからは、ミキ君と二人で話し合ったと言ったけれど、内容は聞か せて貰えなかった。ただ、ミキ君は離婚に同意しているのだって。

 

 私、手術が怖かった。治療なんか、したくなかった。しなくても生 きられる気がして。
 たからに甘えたかったのかも知れない。泣いてばかりいた。

 

 たからは、何度も私を殺そうとしていた。治療は苦しいから、いっそ、もう楽にしたいと思っていたようだ。治療しても、助かる見込 みもなかったから。
 でもそんなこと、私は望んでいない。

 

 こーちゃんが、たからの娘だよと明かしたのは、その頃だ。
 たからは、信じられないって顔をしてた。それは、疑いからではな くて、嬉しさで。膝から、力が抜けたのか姿勢が崩れてたぐらいに 。

 

 通販のDNAキットで、検査した結果を見せた。こういうのはAmazonにも売っていたくらいだから、需要が多くあるのだと思う 。

 

 こーちゃんがいるのだから、私はたからに殺されないと思った。愛 する人を愛するあまりに殺めたいたからは、愛する人との愛すべき 子供を守る義務があって、愛する人と愛すべき子供を育てなきゃならない。
 私が病死しても、愛すべき子供を守るために、生きていく。

 

 たからがなっちゃんと結婚していた期間は、僅か二か月くらい。そ の内の半分は別居だった。
 私は、ミキ君とは簡単に離婚になった。最初は弁護士さんを立てた けれど、慰謝料なし・養育費(扶養料も)なし・財産分与ありで、 財産分与は貯蓄だけを綺麗に分けることで、合意になった。


 生命保険は解約なし。郵便局の学資保険は、名義を変更して、私が 積み立てすることになった。ミキ君に、解約返戻金の半分相当を支 払う……というのはなかった。 賃貸マンションだったから、後は車くらいだけど、私は運転をしな いので車はミキ君へ。

 

 たからとは、入籍はまだだけど教会で神父様の前で、誓いを立てた 。


 子宮癌だから、妊娠の心配がないという証明があり、離婚後にすぐ 再婚は出来る。
 何だか、戸籍の上でだらしがないから、期間を空けたかった。でも 、こーちゃんのことを考えたら、たからに守って貰うのが一番だ。 それに、傍から見たら本当に男性にだらしがない、 だけなのだろうし。

 

 ミキ君の実家は、大変なことになっていた。お母さんが特に、私に 対して〝お金に目がくらんで、冨岡(たから)の家に行くんだ〟 というふうだった。たからは、ミキ君が暴力をふるっていた話を、 ミキ君のお父さんには明かしていた。私の癌の治療にも、ミキ君が 夫としてノータッチじゃないか、というふうに責めていた。

 

 こーちゃんをミキ君の実家で預かる、と言われたりした。保育園に 、ミキ君のお母さんが勝手に行ったりして、迷惑がかかっていた。

 

 たからに、こーちゃんのために手術を受けると伝えた。たからのた めでも、ミキ君のためでもない。

 

 たからは、私がもし死んだらフランスで、こーちゃんを育てたいと 言った。ミキ君の実家が、何か、ちょっとおかしいからだ。 こーちゃんだけは、寄越せ‼︎という感じ。

 

 たからがあっちで暮らすと言うからには、あっちで仕事をする算段 があるんだろう。たからは、実家が貿易の会社をやっているからな のか、お父さんに教えられて、早くから英語もフランス語も、話す ことが出来た。

 

 親が一人で、小さな子を連れて海外に行くと
誘拐と思われて、入国拒否される場合があるらしい。離婚により親 同士が親権を争って、片方の親が、子供を海外に連れて逃げたりす るケースも。

 

 だから、英語で委任状を手書きした。たからは正当な父親だという こと、私が自らの意思で、たからに子育てを任せていること。 など。

 

 お父さん、お母さん、たからの実家では、なかなか理解して貰えな いと思っていた。私はたからの家を、何にも言わずに飛び出したの だし。そのことから、まず謝った。

 

 逆に、お父さんとお母さんが私に謝ってくれたので、びっくりした 。お母さんは、私のことを可愛がってくれただけなのに、 そのことが当時、気に障ったんじゃないかとか、気にしていた。 そんなの、とんでもなかった。

 

 どこまでも優しいご両親。たからの実家で、温かく過ごさせて頂い て、今、また、温かく迎えて貰えて、私はこんな生きかたなのに… …

 どうして、こんなに優しいの。

 

 たからは、「華がこの人生の全てだ」とお父さんお母さんの前で言 って、泣いた。たからの表情が、高校生の時の表情に戻っていた。 私は、それを見て、もう絶対に、たからから離れてはいけないと、 苦しいぐらいに感じた。

 

 手術の前後は、あまり覚えていない。
 痛みがどんどんひどくなり、薬で眠っていた。もう、どこが痛いの かもわからない。本当に痛いのかもわからない。引きずり込まれる ような、眠り。

 

 目を覚ますと、たからが必ず側にいてくれた。たからは、私のこと を看護するために仕事を辞めていた。


 手術そのものは成功したそうなのだけど、手術後に心臓が一回、止 まったのだそう。

 起きたら、声は出せなかった。喉にも鼻にも、人工呼吸器が入って た。全身動けない。オムツの感触。痛かったので、 導尿管も入っているとわかったし、両腕が点滴だった。腕には、動 かないようにサポーターがついていた。

 

 長い夢が見られた気がした。長い長い、たからとの出逢いからの夢 。それで、ずっと、たからの近くにいられた夢。私がたからの近く に行っていたと言うより、たからが私の近くに漂っていて、深く支えていてくれたのだなあと思った。今までの、子供の頃から。


 ミキ君が自殺未遂をしたことを、私はどうして知ったのだろう。ミ キ君が首を吊ってしまい、ICUに入っていると聞いてから、言葉 、声が出なくなってしまった。自傷もした。私が自罰で体を傷つけ たら、ミキ君を助けられると思った。声は、少ししたら出るように なったけど悲しくて、寂しい言葉を言わないように気をつけた。


 夜、朝、また朝。夕方、朝方、また夕方。毎日毎日、たからは病室 にいた。
 目が覚めた時には、間違いなくいつも、たからがいた。たからと一 緒にいられることが、なんだか信じられなかった。嬉しかった。 本当は、ずっと、一緒にいたかったの。

 

 こーちゃんが時々、来てはきらきら輝くような笑い声を、空気中に 振りまいていく。元気のかたまり。こーちゃんは、天使みたいな子だ。


それを、たからに話したら「華が天使だから、こーも天使なんだ」 と生真面目に言う。
 たからだって、天使の心を持っているんじゃないの?

 

 ミキ君は、一般病棟に移れたけれど両手両足に麻痺があり、下半身 は特に動かないという。そして言語障害があり、話すことは一切出 来ない、と聞いた。


 たからに、お願いをした。
 私がミキ君を介護出来たら良いのだけど、体が動かないから、代わ りにしばらくの間だけ、ミキ君を見てほしいとお願いをした。

 

 ミキ君を嫌っていたたからだけど、献身的にミキ君の介護をしてく れた。近くのマンションにミキ君を住まわせて、ミキ君の生活費も 出していた。


 いくら投資でたくさんのお金があっても、大変な額だ。たからは、 「こうなったのは俺の責任」と言っていた。

 

 ミキ君は一人ではお風呂に入れず、食事も出来なかった。介護ヘル パーさんに来て頂いていた。ミキ君のお父さんも来てくれたけど、 ミキ君のお母さんは鬱になり、寝込んでしまった。

 

 たからはミキ君のお世話を頑張っているようで、実はミキ君を精神 的に、経済的に支配している部分があった。
 今までも、ミキ君を上手に頼らせて信用させていて、素直なミキ君 はたからがいないと、何も出来なくなりそう。

 

 私は時々、心配で様子を見に行った。
 まだ私自身、療養中で体が動かなかったけれど、近所だったから歩 いた。


 ミキ君は、会いに行くと言葉にならない言葉で、うーうー、と唸る 。私を責めている時もあるし、命令している時もあった。もう奥さ んじゃないのに、口や手でミキ君の性の介護をしていた。


 やらされていたのではなくて、義務に思った。ミキ君は、それが当 然と思っていた。

 たからがイライラしていたのは、だからだと思う。そのイライラを 、ミキ君にぶつけていた。


 ミキ君の前で、キスしたりだとか、嫌な場面をミキ君に見せては喜 んでいた。たからの意識は、暗い。それで後から自己嫌悪するよう で、またイライラしていた。

 

 ミキ君と、たからは仲良くは出来ないらしかった。私はなるべく、 二人の間では存在を消すようにした。こーちゃんだけが、二人を表面上は仲良くさせることが出来た。


 ミキ君は、体は何とか動くようになり、家でパソコンを使う仕事、 エンジニアとして再就職をした。一般的な人よりは、パソコンがか なり得意だったのと、ミキ君のお父さんがそういう会社の、 偉い人だったからだ。定年退職していたけれど、 紹介で入れたと聞いた。


 今の私の願いは、自立。私もそうだけど、ミキ君も、たからも。精 神、魂の自立だ。
 三人共が影響し合うから、三人がお互いに頼らず、期待をせず、許 し、慈愛を以て生きられるように。願っている。

 

 たからと、ミキ君を守りたいと願う。
 彼らに、傷つけられたなんて思ったことはない。私が傷つけて来た んだと思って、消えたくなったことは何度もある。 でもそれも違う。

 

 人の縁の糸の繋がりと、優しさに感謝をしている。どんな苦しみも 、痛みも、神様がくださった贈りものだと思っている。

 

 みんなで笑いたいと願うのは、都合が良い、ばかばかしい願いかも しれないけれど、私は愚かに毎日、朝も晩も真昼も夕暮れにも、 祈り続けている。


 この家族の幸福を。恵まれた日々を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
 

華筐complete/written by Takala


f:id:hanagatamix:20201004171928j:image

 
 雪の残る四月だった。
 雪景色の中に桜の固い蕾。灰色の雲の隙間から仄かに陽が零れる。 
 未だ制服の上に黒のダッフルコートを着、通学していた。
 
 中学ニ年に進級したばかり、席順は名簿で割り当てられた。 隣の席の女子はこの寒さの中でコートを羽織らずに学校に来ていた 。
 下駄箱や廊下で会えば「xx君。おはよう」と言う。 必ず枕詞として人の名を呼び掛ける。
 顔色はいつも悪く、蒼白だった。制服から覗く手首、 首筋は画用紙の如く真白い。よく梳かしてはあるが、 結んでいない長い黒髪。体つきは繰り人形の様だ。 小さく頼り無く細い。棒に似た真っ直ぐな脚。
 心臓に持病があるらしく、体育は毎回見学していた。 保健室へ行く頻度が多い。
 
 彼女の名は入江華。ニ年に進級したばかりの際は姓が佐藤だった。 それが一週間経たずに入江姓に変更。 家庭に何らかの問題が有る事は、見ていれば直ぐ分かる。 食事を与えられていないのではないかと疑っていた。 担任は何の疑問も持たないのだろうか。 持っても面倒事を避けていたのであろうが。 現在なら真っ先に児童相談所の案件になっていただろう。

 話すきっかけは割合早く訪れた。 彼女がペンを貸してくれた事を皮切りに、様々な事を話した。
 彼女は思いがけず数多くの本を読んでいた。 初めて同い年の人間と話が合った。 アングラな知識は彼女の方が詳しかった。旧日本軍細菌部隊の話、ナチの悪魔的医師の話等穢らわしいが知り得ない事は罪と思える話 をしていた。

 名前で呼び合う仲になる迄、時間はかからなかった。
 「聖書の字を取って〝たから” と読むのは尊い想いが籠もっているね」と彼女は言った。 未だ伝えていなかったが、家はクリスチャンホームだった。

 男友達に混じって家に遊びに来る迄にも、時を要さなかった。
 彼らは華に丁重に接していた。 病弱で誰が見ても守らねばならない容姿、 そして優しい受け応えを崩さぬ彼女。 ある面では非常に大人びていたが小さな子供めいた仕種、たどたどしい話し方をした。しかし話す内容は機知に富む。 まるで老成した人の様にも思われた。 適当な言動は彼女の前では許されないという重さを感じた。

 そして彼女の声はいつ聞いても美しかった。 彼女に似た声を後にも先にも知らない。 声に率直な表情が潜んでいる。魂から発していると分かる、透明な声。彼女が口を開くと誰もが耳をそば立てた。
 
 家の母親は、聡明で品の良い彼女を直ぐに気に入った。 彼女は敬語を滑らかに遣って話した。 大人と話す事に慣れている風情だった。
 やがて父にも会う様になり、両親は彼女が家に来る事に慣れた。 彼女は自然な形で我が家に馴染み、穏やかに迎えられた。

 華の言動は良くも悪くも普通とは異なっている。
 ある時彼女は道路で轢かれ息絶えた猫を抱き上げ、墓を作った。 制服が血だらけになるのを厭わなかった。
 初めて泣いているところを見た。白い頬が鮮やかな朱色に染まり、 涙で潤った目は赤く縁取りがされたかの様だった。綺麗だった。 不謹慎だが彼女の泣き顔をずっと見ていたかった。 彼女は墓を作り、祈っている。 その姿と幼い頃より馴染んだ聖女の御絵が重なる。

 そして彼女は理由も無く、時に自傷行為をした。 理由は有ったのだろうが、 何故そんな事をしているのか分からなかった。 白い手首にコンパスの針を突き刺さす、しかも前触れが一切無い。 人前ではしない。二人きりの時に目を離した一瞬。 或いは爪をニの腕がびっしりと紫色の痣に変わる迄、 何度も何度も食い込ませていた。 直前には談笑していただけであったり、 お互いの了承の下でお互いの体に触れていたりした。 彼女の手の甲の肌を指先で愛撫し、軽く口づける程度。

 触られるのが嫌なのかと思いもしたが、彼女は「触って」と言う。 「もっと触って」「ちゃんと見て」「愛して」。…… 未だ交際する、しないの話すらしていなかった。 だから唇へのキスはしなかった。出来なかった。 触れても我を忘れない箇所だけに触れた。
 細く真っ直ぐな両脚。だが彼女の膝から上は触れない。触って、 とは言うが腿の付近は身を捩って嫌がった。 その様子を可愛らしいと感じ、もっと見たかったが制した。 形の良い指、 思わず口に含んでしまうが唾液に塗れさせてはならないと思う。 唇だけで食むに留める。折れそうな腰を両手の掌で包んでみる。 抱き締めてみたいが未だ出来ない。胸や臀部には触れない。 彼女の唇をなぞる。その奥に指を挿れたい。 あからさまに性的な事に思える。だから出来ない。

 彼女はこちらを隈無く触る。性器に触れたがる。 制服の上から触って良いか尋ねられる。 やんわりと彼女の手を握り、 避けていたが避け切る事をしなくなって行った。 小柄な彼女が膝の上に載って来る。後ろから抱き付いて来る。 彼女のしなやかな両の腕が首に巻き付く。 彼女はゆっくりと指を絡めて手を繋ぐ。 その全てが淫らでいやらしい。
 そっと吐息と共に彼女が紡ぐ声に、 ぞわりと首筋から耳にかけてが素早く粟立つ。 明らかに彼女は女という生き物であるらしい。 視線が誘い掛けて動く。視線が囚われていく。

 いつも穏やかである彼女、それは菩薩か聖母かと思われる様子。 だが彼女は不意に瓦解する事があった。
 自傷もそうであったし、 突として茫然と立ち尽くして居り問い掛けにも応えない。 こちらも見ようとしない。目は開けているが瞬きを殆どしない。 視点は一定だった。壊れた機械仕掛けの人形であるかに見えた。
 とにかく彼女は「変」な存在であり、人間に思えないのだ。 決して美人ではないのだが、 心の透明度が滲み出している為か妖精か何かにも見えた。

 ある時、彼女の腿に大きな傷が有るのを見てしまった。 彼女は人のベッドである事を気にせず、よく眠りに落ちた。 気を失う様に眠っていた。眠い、 眠いと言っている間も無く眠ってしまう。 毛布を掛けてやろうとした時彼女が大きく寝返りを打った、 制服のスカートが捲れ新雪の肌が露わになる。 目に飛び込んで来たのは明らかに鋭い物、刃物で抉られた傷。 そして広範囲な火傷。

 ぞわぞわと首筋に寒気を覚えた。何だ、この傷は。 悪意を持った者が彼女にこの傷をつけた。彼女はこの傷を、 過去に確かに受けたのだ。今、 直ぐに全ての衣類を彼女から剥ぎ取って他に傷が無いか確かめたく なった。それでどうするのか、その先を考えてはいなかった。
 実際にした事は、毛布で彼女をくるみ込み抱き締める事だった。 長い黒髪に顔を埋めると、 清潔な匂いと甘ったるい花の香りに似た彼女の体臭がした。 ここにどうやら生きているらしい彼女の低い体温、 蒼白な額の滑らかさ。彼女の香りを深く嗅ぎ取る。 ゆっくりと自分の頬に涙が伝うのを感じた。


 恐ろしい事が分かって行った。
 彼女のブラウスの釦を一つ一つ外して行く。 肋骨が浮き上がっている。スカートのホルダーを外す。 骨盤の辺り、両側に切り傷。傷跡の大きさから、 深く傷口が開いたであろう事が知れる。驚き、傷に触れた。 怒りが来る迄に放心状態になった。また涙が一人でに流れる、 彼女は「どうして斬られたのか理由は分からない」「小学生の時。 五年の時」「学校は長く休んだ」「春だった。 けれど何日も炬燵で眠って治した」「病院なんて行ってない。 行けない」「高い熱が出た」「痛くはなかった」「 痛みは大き過ぎると分からなくなるんだよ」「 痛みは意識を忘れさせる、 そうしたら体から意識が飛んで気持ち良くなるの」と、 淡々と話した。表情の無い白い顔で。

 彼女は市営住宅に住み、義理の父親の隣の家にいた。 姉と二人暮らしをしていた。 母親は山手の旅館で住み込み仕事をしているらしく、 帰って来ないらしい。姉は四歳歳上、 彼氏の家に泊まっていると言った。彼女は夜間、 家に居るのが怖いので時々公園で寝ると話した。 家に居てもカッターや小刀を両手に持って仮眠するのだと。
 遠い世界の別の国の話に思える程だった。 何より不気味に思えたのは、 彼女が他人事の如く軽い口調で何の感慨も無く話す様子だ。 耳を傾ける内に如何ともし難い感情が沸き上がり、 彼女の名を呼んで泣いた。が、幾ら「華」 と呼び掛けても彼女は自分の名を呼ばれていないかの様な反応だっ た。つまりは無反応だった。
 

 生理が長く止まっていた、 と言っていた彼女がベッドのシーツが染まる位の出血をしたのが、 ある土曜の夕方。
 普段蒼白な顔色は白でもなくベージュに見えた。 見て直ぐにひどい顔色だと感じた。
 熱も有った。家の母親は病院に連れて行くと言ったが、 彼女は泣いて拒絶した。体に傷が有る事を知られたくないのだ。
 父が夜、 帰宅したら車で送って行くと母は言い彼女の自宅に電話した。 義理の父親の家の番号だ。何度掛けても繋がらない。 母は彼女のただならぬ様子を見、虐待の気配を感じていた。

 帰宅した父は、 彼女が眠る二階の客室で彼女と二人きりで話をしたらしい。 何を話したか父は言わなかった。「体調が戻る迄、 家で休ませよう」と父は言った。
 それが長きに亘る事になった。彼女は家で寝起きし、 食事をし徐々に両親は離れて暮らしていた娘が再び現れたかの様な 接し方をし始めたのだ。

 彼女の自然な、しかし礼儀正しい振る舞い。 聖書を読み家の手伝いをし、よく勉強する穏やかで優しい子供。 両親は元々娘をも欲しがっていたが恵まれなかった。 彼女は理想的だったのだろう。
 彼女自身に、 この家に住める様にしようとする思惑は働いていなかった。 彼女の名誉の為に記したい。彼女にそんな計算が働く訳が無い。 何故なら、彼女は身の上を不幸と捉えていなかった。 そんな概念がそもそも無いらしかった。動物か赤ん坊の無垢、 無邪気を失わずにいた。 学校での彼女の成績は比較的上位に在ったが、 もしかすると彼女には脳に軽度の障害が有るのかも知れないと思っ た位だった。

 担任でなく学年主任、 そして家の両親の訴えにより児童相談所並びに市役所の担当者が華 に被虐待の言質を取ろうとした。 彼女は決して首を縦に振らず一言も発しない。彼女と共に「彼氏」 として同席していたので間違いない。
 結局、 虐待の立証は出来ず自治体の怠惰が目立ち彼女は我が家に泊まり続 けた。両親は彼女の保護者に何度も会おうとしたが、 会えた試しが無かった。

 夜間、彼女は二階の客室で眠っていた。ニ間ある客室の内、 一室を彼女の部屋とした。
 家はやたらと広く、特に二階は空虚に映る時が有った。 父が不在がちだった為か、 母は常に寂しさを隠した表情をしていた。
 華が来てからは二階に上がる事が楽しみになった。 彼女が部屋に居る。ただ座って居るだけなのだが、安心する。

 自分は中学に進級した頃から、二階の管理を既に行っていた。 自ら掃除し衣類を自発的に洗濯しアイロンをかける。 通学用の靴を磨き上履きやスニーカーは週に一度、必ず洗う。
 小学校の高学年からだったが、 母親に下着を洗って貰うという事に先ず生理的な嫌悪感が付き纏い始めた。同時に、 母に身の回りの事を一切合切させていた父に疑問を持った。
 食事の後に皿を洗うのも日課とした。 自分は父の様にはなりたくない。

 両親、特に母は彼女の為に家具を購入し衣類を揃え猫可愛がりした。 新しい着せ替え人形を手にしたかの様に。
 布地を買い、彼女の為に服を仕立てる。 彼女はこの家で姫の様に扱われた。 父も例外でなく彼女を街に連れ出し、 彼女に合った革靴を誂えさせた。
 彼女は謙虚な姿勢を崩さず常に礼節を以て両親に接した。「 お父さん」「お母さん」と初期から至極自然な呼び掛けをした。


 誕生日を迎えた翌月。12月。クリスマス間近。
 待降節に入ってから、彼女は毎日祈りを捧げていた。 幼児洗礼を受けた自分より、余程クリスチャンらしく見える。
 日曜には両親に連れて行って欲しいと願い、 彼女は制服姿で教会へ通っていた。 対して自分は宗旨に疑問を抱いていた為、行かずにいた。
 例えば華の育った環境一つ見るに、 神の試練で片付けるには余りにも酷なものがある。
 
 彼女は……、時々おかしな要求や提案をした。
 首を絞めて欲しいと言われ、最初は断った。
彼女は悲しげな顔付きになり、「じゃああなたの首を絞めたい」 と言った。
 彼女の言う通りに、小刻みな呼吸を繰り返しベッドに立つ。 身長差を埋めるべく彼女はデスクの椅子に立っており、 細い腕をこちらの首へと伸ばす。彼女の冷んやりとした手が、 強く、しかし優しく圧迫を加えて行く、
 不意に落とされる。意識を。それは恍惚だった。 彼女に与えられる歓び、彼女に命を委ねる一種の気楽さ。 心地の良さ。どこかを浮遊する感覚の圧倒される様な美しさ。

 

 その日、夕暮れ時に二人で部屋で勉強していた。 こちらは既に赤本を購入し解いている状態。 塾は彼女と過ごす時間を重視し、とっくに辞めていた。 定期テストは満点以外取った事が無かった。 田舎の公立中学の問題は何の捻りも無く、 教科書を読めば解ける問題ばかりだ。
 彼女は数学だけが苦手だったが、 急に解けないと泣き出す割に別日には難問を解く姿が見られた。 彼女の成績は学年で十以内には入っていたが、 学習面にも波が有ると感じた。 テスト前だけ勉強している印象だった。

 

 窓の外は音も無く雪が降っていた。この降りなら積もるだろう…… 彼女は今夜も家に泊まって行くだろう。父の帰宅は深夜、 母は教会のボランティアで十九時頃に帰って来る。 夕食にシチューが有った。彼女の為に温めよう。 食の細い彼女はサラダなら食べるだろうか。 茹で卵は食べられるだろうか。 卵は栄養があるから食べて貰いたい。 この過剰に細い体を何とか標準に出来ないものだろうか。 パンにガーリックバターを塗って食べさせよう。

 未だ夕方だというのに、 雪国の真冬の空は群青の色で塗り潰されていた。 カーテンを閉めるか否か迷い、卓上のランプを点けた。 橙色の光に部屋は包まれる。
 
 教科書を丁寧に捲る彼女の指先を見ていた。 まったく見飽きない程に透明度に優れた白い肌だ。 肌理の細かさを観察する。
 と、彼女はコップに入ったオレンジジュース
を制服の膝に落としてしまった。 オレンジの粒の入ったフレッシュジュース、 紺色のスカートの襞が託し上げられた。真白い腿、傷痕。 視界に斜がかかり一瞬の眩暈を覚えた。


 洗面室からタオルを二枚持って来、彼女の膝を拭いた。 彼女の肌が光を放っているかに見えた。 不意に彼女はこちらの手を取った。 冷んやりとした滑らかな手だった。

 彼女の手を握り込んだ。思わず指先でその肌を繰り返し撫でた。 自分のしている事が既に性的な愛撫であると気付き、愕然とした。 こんな事をして良い訳が無い…… しかし彼女は引き込む様にこちらの唇に唇を付けて来た。 幾度か軽く口づける仕種をし、 溶ける様に生温く小さい舌で歯の一つ一つを、 それからこちらの舌を舐め取る様にした。舌は痛い程に吸われた。
 彼女の華奢な首、 喉がキスで生じた唾液を飲み下す動きをしたのを見、 急激に愛おしさが込み上げた。 こちらも彼女の口内に溢れるものを飲んでみたく、舌でまさぐる。 人の唾液等に興味は無かった、彼女だから欲しいと思った。 すっと儚く消える微かな甘み、その味を確かめたくて堪らない。 何度も何度も長い時間、唇だけで睦み合っていた。

 暫くの後、今度は彼女の首筋に口づけた。血管の薄く透けた肌、 髪の香りが強く漂う。安らぎを感じる甘い匂いだった。
 彼女は自ら制服を脱いで行く、 リボンを取りブラウスの釦をもどかしく外す、 そうしてからこちらの服に手を伸ばした。
 本当に今日、今、これを二人でしてしまうのか迷った。 怖れを感じた。行為自体にではない。その先だ。 関係性が変わるのではないか?それは互いにとって、 良きものなのだろうか。 こうした行いは彼女を穢す事になりはしないだろうか。
 彼女は思考を遮ろうとするかの如く、 下着の上から頬を埋めて来た。一気に何もかもどうでも良くなる。 流れに任せよう。彼女に任せよう。
 

 彼女のした事は感覚として忘れられない。気が遠くなる程の時間、 彼女の指先と舌で全身を隈無く優しく舐められていた。 よもや自分がこの様な我慢の利かない限界を見ようとは想像だにし ていなかった。

 壊さぬ様に慎重を期してゆっくりと彼女の裡側に指を挿れていく。 指の数を時間をかけて増やす。彼女の声や表情が変わる度、 頸から頭頂に抜ける様な震えが走る。 それは果たして震えであっただろうか。快い悪寒、 快い吐き気とでも表すしか無い奇妙な衝動。これ程、 彼女に影響している今のこの自分。幸福だった。
 体の繋がった最初の感覚は忘れる事は無い。今でさえ繋がる度に、 否、繋がるのみで意識が一旦停電するかの様な感覚に陥る。 一瞬の静寂、一瞬の快感に堕ちる。後は昇るだけだ。 彼女は天使なのかも知れない。彼女と居ると天空が視える。
 

 受験生の夏休みは蕩ける様に過ぎ去って行った。 時間が過ぎる傍から溶けていく。
 彼女と居る時間。時計は奇妙に歪んで動いている。


 夕方。
 それ迄、 そんな事は無かった筈なのだが強烈に眠くなり眠ってしまう。 彼女がベッドに共に居る。どちらからともなく目覚め、 どちらからともなく求め出す。
 夏の夕暮れは未だ明るい、 二重の遮光カーテンを閉めるとまるで室内は夜になる。 エアコンの吐き出す冷風を避け、厚い毛布を掛ける。 彼女は羽根布団を嫌い、重い毛布を好んだ。「軽い肌触りは嫌。 重みに包まれていたい」と言った。ランプを灯し、 時には明かりの無い仄暗い部屋で抱き合う。 彼女の希望通りに強く抱き締める。 小さく華奢な体をすっぽりと覆う。
 腕の中で頼りの無い彼女の肩の骨が軋む。関節等、 簡単に外れるのだろうなと思う。ニの腕の細さ。 正しく折れそうな。
 こんな体で彼女は生きている。 低い体温も花に似た体臭も声も吐息も髪の柔らかさも肌の滑らかさ も、何もかもが愛おしい。
 時間が止まれば良い。今を冷凍してしまいたい。世界が今、 滅びれば良い。彼女とだけ居たい。この閉じた場所で。

 
〔この時期の彼女は完璧だった。 何を以て完璧と表すか実は分からないのだが兎も角、完璧だった。 本来は現在の彼女こそが完璧なのだろうが。妻としての彼女は、“あなたは当時の不安定な欠けの目立つ少女に永久に恋をしているの でしょう”と言う。そうかも知れない。 あれは少女という生易しい存在では無かった。今、 自分は妖精と結婚したと考えている。 言葉は美しいがヨーロッパで大々的に話せば“お気の毒に” と言われるに違いない。〕


 出逢った四月とは打って変わり、春めいた麗らかな日。
 高校に入学。彼女と過ごす時間のみが真に生きた時間であり、 受験は片手間どころか半睡の中だった。 
 首席と言われようが、あくまでもこの地方での話。 最高学府への進学率は低く、合格者の無い年も有る。 馬鹿が多いという事。意識が低いという事。 優れた指導者がいないという事。 入学時から教師に理IIIを目指して欲しいと言われ辟易する。 医者になりたい訳ではない。 人の将来を勝手に決めるなと言いたい。

 華は普通科に入ったが、周囲に馴染めない様子だった。 当たり前だ。 成績優先の価値観の狭さを持つ烏合の衆に馴染む筈が無い。 中学でも彼女は浮いていた。 友達を作れないだとか判り易い理由ではない。 寧ろ人には慕われていた。毛色が大きく違うのだ。 
 こちらは新たに友人が出来た。 理数科に入る人間は思考回路が似通っている。 ドライな者が多く付き合う上では非常に楽だ。

 その内の一人、女のような名の光生は「ミキちゃんって呼んで、 出来杉君」と話し掛けて来た。戯けた口振りだが目に熱は無い。 いつも脱力している。
 彼女はいるのかと尋ねられた。普通科にいる、 中学の時から付き合っていると特に隠し立てする理由は無いので話 した。光生は軽く頷きながら聞いていた。

 彼は彼で、かなり歳上の既婚者の塾講師と〝恋愛〟していた。「 ショタコンなんだよ」と彼は興味無さげに呟いた。未成年者、 しかも職場の塾生に結婚していながら手を出す女がまともな訳は無 い。ブレザーの下にベストでなく薄いセーターを着、 日焼けの痕跡の無い手の甲を袖で隠し、 睫毛の長い大きな目をした光生は繊細を絵に描いた少年に見えた。
 
 放課後に華は廊下で待っていた。理数科はほぼ男の園であり、 そんな場所に短いスカートで来るものではない。 彼女の発している空気は明らかに異性、どころか異質であった。 夏服に変わると周囲の視線はあからさまだった。会う同級生、 上級生のみならず教師に舐める様に眺められていたが彼女は全く気 にしていなかった。ブラウスから下着が透けている為、 中にキャミソールを着させた。 スカートを膝丈にしろと言ったが彼女は聞き入れなかった。

 彼女の振り撒いている雰囲気は明らかに処女ではありませんと言ったものであり、 腿の傷が見えないギリギリの位置まで肌を曝してた。 
 彼女の体軀の細さ、輪郭がはっきりしない位の白さ、 長い髪を耳に掛ける仕種、 何もかもが異性であるのだとアピールしている。 他の男が彼女を見るのに嫌悪感を持った。 歩きながら話しながら何気無く髪を纏める彼女を遠巻きに見る飢えた動物が、そこら中に点在している。
 昨晩、一口で含んだ彼女の柔らかな耳朶。見せたくない。 彼女を見られたくない。視線のみで穢される事に、 彼女は気付かないのだろうか。

 貴重な笑い声等、こんな場所で上げないで欲しい。 彼女の声を誰にも聞かせたくない。特に高い声は聞かせたくない。 彼女の声の高低は激しく、 小声の低い囁きにも鳥肌が立つが泣き声や笑い声、 歌声は時に喘ぎに似ていた。だから誰にも聞かせたくなかった。
 そして匂い。ひどく香る、女の匂い。無能で鈍感な雄という種が、 唯一感じる匂いだろう。


 光生は彼女に興味を抱いた様子だった。気軽に話し掛けていたが、 彼女はやはり気にしていなかった。
 「 中学の後輩も先輩もクラスの女子も学年の女子も可愛いランキング No.3まで食った」 と宣う光生が悪目立ちしている華に気付かぬ筈は無い。 彼の目にどう映るのか尋ねたところ「 やった事が無い女はレーティング出来ない」との返答。

 光生如きを適当にあしらっていた華は華で、 どんどん心身のバランスを崩しているかに見えた。 家と外で服装や仕種や言葉が変わる。 家ではどこの良家の娘かと思われるが、 外に出れば彼女の姉の服を纏い化粧をし、 元は童顔なのだが二十歳程度には見えた。美しい声で悪態を吐き、 小学生の頃の友達だという女子に会いに行っていた。 その友人は既に高校を入学一ヶ月で中退し、 歳を誤魔化しキャバクラ勤務との事。

 彼女が彼女であると感じるのは二人きりでいる時のみ。 彼女がバイトを始めると言った時にも反対はしたが、彼女は「 お父さんとお母さんにお金を返したい」と言った。 やはり世話になっている状況が嫌なのだろう。

 二人で部屋にいる夜だけが安息地。 どうすれば彼女は留まり続けてくれるのだろうか。 彼女の心が読めない。
 自信が持てなくなっていた。 愛する事の自信でなく愛される事の自信だ。
 それ迄、愛される事に自信等は必要無かった。 在るがままで良かった。父も母も過剰に愛情を以て育ててくれた。

 光生に愛の受動態について意見を聞くのも憚られる。 彼はそんな事を改めて考えやしない。 光生以外によく話をしていた、栗野という聡明な友人に尋ねてみた。
 愛される事の自信喪失は、何が原因か。栗野は以下の様に答えた。
 :生育歴に問題が無いのなら一時的な現象。 受動に自信が無いなら能動にも自信が無い。 つまり愛するに自信が無い事が原因。 愛するとはそもそも如何なる行為を示す? 自己犠牲を愛と考えるなら犠牲を払えば良い。 払った瞬間に愛されたと実感出来る。 個人的には死を以って愛情を示すという形は元の木阿弥だと考えるが:
 尤もだと思った。彼女に対して自己犠牲感が足りないのだろう。 だが犠牲を払う行為はこちらの勝手な都合。 それで愛し愛された実感を抱くなら、 それは只の妄想ではないのか。 愛とはそれ程に単純なものだろうか。

 華に対し、あれやこれや世話を焼くと煩わしい表情をされる。 その表情すら可愛らしいと思うが、 彼女はその感情の波を感じ取り更に煩いと思っている様子。 以前は違った。困惑した表情。或いは無表情であり、 彼女の無表情は言うなれば透明なのだ。 好意を受け取らず通過させる感覚と言えば良いだろうか。 その好意はどこに行くかと言えば、 恰も彼女を通して神に届く様なのだった。

 時折に華が二人、否、三人も四人も居る印象を持った。 純粋な彼女、苛立ちを持つ彼女、人形か機械仕掛けに思える彼女。 そして誰なのか分からない全く別人の女。
 顕著なのは抱き合っている時間だった。攻撃的な時、 従順な時の落差が大きい。心臓に持病が有るのだから、 激しい動きは彼女には出来ない。 しかし限界を無視した所作をする。 こちらに背を向けて跨り自身が達する迄動く訳だが、 それはセックスとは言えまい。こちらの体を使った自慰と言える。 何故、顔を見せないのか。彼女は、 果たして彼女の表情をしていたのだろうか。

 倒れ込んで来た時の彼女の心拍。薄い肌から伝わる早鐘。 恐ろしい程だった。心臓が破れて出て来るのでないかと思える。 ゼエゼエ、でなくヒュウヒュウという壊れた呼吸音の後、 彼女が気を失っているのに気付いた。体の何処かにon/ offのボタンでも有るのではないだろうか。

 愛、とされる事象に疲れたのではない。 混乱していたのだと言い訳する。
 光生と関わらせる事を許した。他、 三年の男達が彼女にどう接しているか観察していた。
 予想した通り光生の方が数段女慣れしており、 彼女の機嫌を上手く読んで押しては引いているらしかった。

 義理の親に電話での風俗業をやらされていた彼女にとって、 ニ歳上の男は子供に見えたのかも知れない。 バイト先でもっと歳上の従業員と関わるのであろうから、 彼女はいつも通り眠たそうな顔をしていた。
 何を話した?と問うと「たからが聞きたくない話」と言う。 更にしつこく尋ねると「もう良いじゃない、こんな話」 と投げやりな目になる。その時にのみ、 彼女の虚無の深さが窺えた。
 虚無。彼女の虚無。それを共に感じてみたいと思う。 深海に沈む様な心地、 彼女が居る場所ならそれは美しい所に他ならない。
 
 高校に入っても彼女の保健室通いは続いていた。 週に何度も保健室に行き、数時間眠る。 微熱を出す場合も有れば嘔吐や下痢、頭痛胃痛等の症状も有る。 月経痛は相当重かったらしい。長時間立つ事すら出来ず、 全校集会やら朝会の類は欠席するか倒れるかしていた。 この状態を教師らは見て見ぬ振りをしていた。
 華は体育の授業には出ていなかった。 ともすれば座学も無断で欠席していた。
 彼女の纏う空気は他の生徒とは明らかに異なり、 教師にしろ同級生にしろ一歩引いた地点から接していた。 何が異なっていたのか未だに説明不可能だ。「 虐待されていた子供」だからだろうか?……違う。

 中学の時は保健室に連れて行く事が出来た。 そのまま付き添う事も出来た。今はクラスが別となる為、 迎えに行く事が辛うじて出来るのみ。 養護教諭が不在ならば学校に居ながら触れる事も出来るが、 時間帯によっては迎えに行く事も叶わない。

 授業の合間、 ニ十分休みに急いて行くと保健室には彼女と普通科の名前も知らな い男が居た。
 彼らはスライド式のドアの開く音、 それ以前にこちらが入室しようとドア前に立った段階で体を離した 。気配で分かる。つまりベッド上で密着していた事になる。 室内には他に人は居なかった。
 現場を見られていないと思っている為か、 彼は悪びれず擦れ違い様に「羨ましい」と言った。

 黙って見送ったのは衝撃が強過ぎたからである。 どういう事なのか頭では分かる。だが事実を受け入れられない。
 華の様子は至って通常。澄んだ目、 普段より一層澄んだ目でこちらを真っ直ぐに見ている。 動物か赤子の目、否、底知れない精霊か何かの目。 畏怖を覚える位の眼差し。この時、彼女を何故か怖いと感じた。
 全くの未知の存在。自分は彼女を敬拝するしか無いのか。 そもそも恋愛する立場に無いのか、対等では無いのか。 だから問い質せないのだろうか。

 彼女の隣に行き、座った。 彼女はいつもの様に甘え掛かる事もしない。 いつもなら直ぐに手を繋いで来る。いつもなら膝に頭を載せる。 猫の仕種で、自然に。
 顔を覗き込む。このタイミングで彼女は繕った様に、 にこりとした。
 違和感を覚えた。益々、彼女の精神状態が見えなくなって行く。
 言い訳をしてくれ。 あいつに襲われただとか適当に嘘を掻き集めてくれ。 それで視ていない事にする。 又は只の気の迷いだと謝罪をしてくれ。それで忘れる。
 だが彼女は何も言わず、 すっと立ち上がりそのまま保健室を後にした。

 そしてHRの後に廊下で待っていた。いつもの華だった。「 今日は具合が悪いから、バイトは休むの」 と言って腕を組んで来た。
 振り払う事は出来なかった。

 考えたのは、 彼女に何らかの不満を自分が与えたのだろうという事。 おそらく自分が悪いのだろう。こちらに原因が有るのだ。 こんなに混じり気の無い清浄な気の塊を持つ彼女が間違いを犯すな ら、それは彼女の罪でなく自分の罪なのだろう。 それをさせた自分が悪い。
 そう思わせる程の存在だった。彼女は。帳尻が合わないのだ。 他の男と寝た、否、 見方が正しければ彼女はどうでも良い男を誘惑したのだろうが今見ている彼女はそんな事が無かったかの様だ。 一心に見上げて来る瞳に疾しさは一切無い。言うなれば、 こちらへの愛しか無い。どういう事だ。 自分は嫉妬の余り幻視したのか。或いは彼女が幻惑か。 更には彼女の愛が幻なのか。

 訳が分からなくなった。部屋に戻ると、 具合が悪いと言っている彼女に疑問をぶつける事はしない代わりに非常に雑な抱き方をした。彼女は何も言わない。 言わないが泣いていた。だから何だ。 こちらは何もかも彼女に仕組まれてやらされているのではないか。

 この様な状況の中、 彼女は彼女の自宅に帰る度に体に傷を作って戻って来る。 それが小さな痣であっても気が狂う位の怒りが沸き上がった。 彼女の背に紐状の何かで打たれた痕を見つけた。 それは革なのか革の先に金属質の物が付いた何かなのか…… 彼女は何をされたかは言わない。ただ「傷を作り直して」 と言った。
 もっと酷い傷を作らせようと言うのか、 それがどんなにこちらの精神へ負担を掛ける事なのか彼女は知っていたのだろうか。

 気が回らない程に彼女の心は瀕死であったと思う。若しくは、 この作業を通して一生彼女を想わねばならない魔術を仕掛けられたのか。

 両手から彼女の血の匂いがする。 背中の傷を更に大きな傷に拡げていく。彼女を想いながら。 彼女を助けたい。一つの念だけを頼りに。 人間が人間に全面的な救いをもたらす事が可能なのだろうか。 それは神の手の領域ではないのか。
 そんな疑問を抱いている場合ではない。神の領域だとしても、 嘘でも彼女の前では神の振りをせねばなるまい。 彼女を救える存在だと言い張らねばならない。 彼女は神即ち愛と考えている。この行為は愛の具現ではないか。

 傷を作り直す事は思いの外、体力を要した。 人体を傷付ける事は消耗する。神経も使う。 更に言えば神経が病む。
 主にナイフを用いた。他人の体に刃を走らせる。 尋常な精神では出来ない。更にその傷を両手で拡張する様にする。 彼女の受けた傷を自分が消さねばならない。裂目に指を滑らせる。 爪に彼女の血が入り込む。傷は最初、白い。徐々に血が滲む。 どんなに薄い体であっても、 深く切ると脂肪組織である粒が見える。それを目にする。 彼女に体が有る事が不思議に思える。この霊的な存在が、 血に塗れた体を持っている事。これは作り物ではないだろうか、 深く切ってみる。目の前が血に彩られている事に改めて気付き、 怖気付く。

 愛の名目で行っていても代償に何かが欲しくなる。 傷を付けられる側の彼女も消耗するのだろう、 直後にスキン無しで挿入しても彼女は何も言わなかった。
 これで妊娠してくれないだろうか。祈る様に望む。 幼少から刷り込まれた価値観では恋愛も結婚も子を設ける事も共に 生活を営む事も一直線上に在った。 彼女は早急に母になってしまえば救われるのでないか。 彼女は愛を求めているのだから。 二人で地に足を着けて生きて行けば良い。 若さは欠陥にはならない。 彼女と生きて行く道を示して貰えるなら今、 直ぐにでも身を粉にして働こう。 それが本来の人間のあるべき形だ。学生の身分は詰まらない。 数列の極限値を求め、或いは媒介変数を消去しx, yの式に表す事が一体何の役に立つというのか。 そんなものは暇潰しだ。
 
 彼女に乞われて「天国を見に」「永遠を見に」行きたくなる。 行かねばならない境地に陥る。二人で左手首を切り、 温い湯舟に浸けて夜の間、話をしていた。
 真夏だった。外に話し声が漏れない様、窓を閉めていた。 換気扇の回る音。華の囁きの声。
 こうした行為、 彼女の体を切ったり死と隣合わせた行動をしていると自宅は清浄さを増すかの様な静寂に包まれていた。余りにも神聖だった。一見、 闇に属するかの様な行いがあっさりと認可されてしまう。 それは誰にか?思えらく、神に。
 階下に両親が寝ている。それを忘れる。 ただ彼女と二人だけで居る世界が象作られる。

 部屋のドアを開け放ち、 エアコンの冷風を感じながら赤く煙る様に滲むバスタブを見る。 直前に彼女の持っていたクロルフェニラミン、 要は乗り物酔いの薬を規定量以上飲んでいた。 催眠作用が有るからだ。こちらは効かなかったが、 彼女は話しながら超然と微睡んでいた。 幸福そうな笑みを浮かべながら。その顔を見る為にだけ、 この儀式をしているのだと思っていた。 こんな程度で人は死なない。動脈を切らねばならない。 手首なら手首を落とす位しないと不可能だ。
 彼女と共に在りたい。死んでも生きて居ても。
 その意志に濁りは無いが、冷静を保つ事が難しくなっていた。 何をすれば彼女を生に繋ぎ留められるのか。
 一緒に死ねば良いのだろうか。生者としてではなくとも、 彼女の魂が自分の手元に在れば良い。

 混乱を極めていた。 光生は偶々近くに居た犠牲者だったかも知れない。
 彼を家に呼んだ。しかし彼女の使っている客室にも、 私室にも入れなかった。華と居る場所には入れたくない。 二階のもう一つの客室に招いた。光生の喜びそうな餌、 ノートパソコンやゲーム機は家に有った。
 華が居ない日も有る。彼女は多くの日をバイトに費やしていた。

 光生は家に来る事に慣れた。彼の塾がある日は週三だったが、 内二日は自習していた。彼は決して成績が揮わない訳ではない。 部活は陸上とサッカーを掛け持ちしており、 更には塾講師以外に他校の女子と交際していた。多忙なのだ。 塾講師に関しては十三から続いていたというから、 齢十六にして不倫四年目なのだった。
 
 華は彼が来ていると、誘っても客室には来なかった。 予期していたのだろう。

 秋に入っていた。庭の金木犀の香りが二階に迄、漂っていた。 エアコンの効いていない廊下は、ひっそりと冷え込んでいた。
 光生はトイレに行った後にふらりと華の居る部屋をノックした。 そこで止める事は出来たのだが、 あろう事か自分は一階の父の書斎に入り両の耳を押さえて坐り込ん だ。

 神経が参っていたのだと言うのは易しいが、赦されざる事をした。
 父の部屋はピアノを置く部屋と等しく、防音が厳重である。 絶対音感を持つ自分と同様にサクソフォンを奏でる父も聴覚が過敏 な為、仕事に集中出来る様に書斎は壁が厚く作られていた。
 それでも耳を押さえていても、 くぐもった彼女の悲鳴が聴こえる気がした。何故、立てないのか。 何かに抑えつけられている様だった。何にか。自分自身の亡霊に、 だろうか。
 時間がどれ程経ったか。父の部屋の壁掛けの十字架を見た。 祈る事が出来ない。しかし神に問うた。 華を愛する資格が自分に有るのかを。 答えは二十二年経っても見えない。

 光生は客室で何事も無かったかの様にゲームを続けていた。 静かだった。ゲームのBGMが尚、静寂を引き立てていた。
 華の部屋を開けた。彼女はワンピースを着ている。 ゆっくりとした動作だった。
 ゆっくりとこちらを振り返り、ゆっくりと首を傾げた。 次に驚いた様な顔をした。
 それから彼女は抱き付いて来た。光生の匂いはしなかった。 彼女の体は濡れていた。 彼女はシャワーを浴びた後に体を上手くバスタオルで拭く事が出来ないのだ。
 「たから は」
 彼女の声はあくまでも澄んでいた。その声に鳥肌が立った。
 「たからは私を好き?」
 好きだ、と答える。言葉が喉に絡まる。
 彼女は不安になっている。ではこの試みは成功か。 彼女が何をしても見捨てたりはしない。 だからどうか何処にも行かないで欲しい。違う。 申し訳が立たない、彼女が窮地に陥れば良い、 苦しめば良いと思ったのはこちらではないか。 そうすれば彼女は助けを求めて来るに違いない。ああ、 もうどうしたら良いのかが分からない。辛い。痛い。 魂の芯が痛い。
 直後だった。急に吐き気を覚えた。 その様な体調の変化は今迄に無かった。 理由無く胃液とも大量の唾液ともつかぬ物が流れ出た。 トイレでなく華の前で吐いた。
 彼女は激しく泣きながら蹲っていた。彼女の手が背を撫でる。 それで吐き気は治まった。
 
 その夜の彼女の様子は通常と変わりが無かった。 互いに言葉は交わさなかった。普段と変わりが無い、 筈なのだが自分は彼女を抱いている間、寒気が治まらなかった。 彼女は恐らく強い怒りを内面に秘めていた。 表面に顕さないだけだ。
 

 二人で居る時の関係性は変わりがな無い。 彼女は毒を撒く様に強い快感を与える。依存性, 常習性を有したその行為を自分は与えられるまま呑み込んでいた。 十回に一回、つまりは十日に一度程はバッドトリップになる。 こんな事をしていてはいけないと苦渋が喉元迄、迫り上がる。 華の過激さは増して行くばかりだった。 彼女はこちらが血液に興味が有ると知っていた為、 目の前で性器付近を切り裂く事をした。「私は穢れている、 浄化して」……………… 
 強い命令だった。彼女の血を舌で掬い上げて飲んだ。 こんな事が何故、愉悦を伴うのか分からないまま。

 一度切りだが彼女が怒りとも哀しみともつかぬ言葉を口にした。「 もう嫌、どうして私は女なの、 あなたは私が女じゃなければ好きになってくれないくせに」
 違う。否定したかったが出来なかった。黙っていた。 否定する言葉を今の自分は持っていない。 しかし嘘であっても否定をすべきだった。 華はこちらの表情をじっと見ていた。 黒目の多い目に探られている様に感じた。彼女は泣き出した。 次々と涙を手の甲に零した。涙で目を洗うかの如く。 抱き締めるしかなかった。それは狡さでしかなかった。 あの時に言葉で表明しなければならなかったというのに。

 ひどい混迷の中だった。光生は時々家に来た。 華は狙ったかの様にバイトを休む。 元々彼女は月経中は外に出歩く事が叶わない。 光生は彼女の好きそうなゼリーやヨーグルトといった手土産を買っ て来る。
 彼らは示し合わせていたのだろうか。そうではなかった筈だ。 華はPHSのアドレスも番号も光生に教えていなかった。
 そして彼らは最後迄していたのか、確証は未だ無かった。 希望的観測で彼らは関係していないと思っていたかった。 敢えて部屋の様子を探らず光生の様子も見ない様にした。 華からは痕跡が分からない。

 光生は彼女について何も言わなくなった。 それ迄は彼女のプロフィールを聞きたがっていた。 しかし話題に出さなくなった。
 彼女が彼の持って来たプリン等を食べた事にも驚いた。 しつこく口元迄運ばねば、彼女は食べない。 全部を食べる事も無い。一緒に食べていたのか何なのか、 彼女を細かく追及するにも疲れていた。二人が話している間、 自分は私室でヘッドフォンをつけ勉強していた。
 集中出来ない様に思われるかも知れないが、 彼らの音を聴きたくない思いが強いのか予想外に捗る。 フランス語の朗読CDに聴き入る。 合間に華の声が聞こえる気がする。 彼女の声なのだが耳が拾うと吐き気に襲われる。 あれは夜に二人で居る時の華の声じゃない。では誰の声だ。 見知らぬ女の声。しかし……幻聴なのか。

 光生はペットボトル等、ゴミの類は自分で持ち帰った。 その中に使用済スキンが有ろうと無かろうと確認すらしたくなかっ た。この状況を招いたのは自分なのだから。
 光生は月に数万、母親から貰えると言っていた。 ほぼラブホ代に消えるらしいが、 華にやたらと様々な物を買って来た。彼女は受け取りはするが、 自宅に持って行く。 服やアクセサリーの類は彼女の許可を得て捨てた。 ぬいぐるみや人形といった物は、 彼女の中で名を与え生命を宿らせるらしく手を出せなかった。
 彼の中での「ヤリ代」だったのか、 彼は彼で多発する恋愛の一つに数えていたのか。

 三人で家に居る状況は急速に怪しい空気を加速して行った。 光生は彼女に嵌って行く。当たり前だ。 本来の思春期には出来ない事が出来るのだ。 華は普通の男が考え付く限りの事は黙って行わせた。 或いは行った。

 彼ら二人の醸し出す雰囲気に自分もやや異常になって行った。 止められなかった。
 二人の関係の確証が無かった為、思い切って部屋を盗聴した。 録音機器を置いただけだ。後から確認した。全ては聞かなかった。
 それで彼らが何をしているか判明したのだが、 その後に彼女と寝ると気味が悪い程の興奮を得られた。 そういった嗜癖にそのまま転向出来れば良かったのだが、 やはり不可能だった。行為そのものは強い快楽の中に在るが、 終わった後にまた吐き気を覚える。 行為中に飲み下した彼女の血を戻した事も有る。 彼女は女王の様に「どうして吐くの。飲みなさい」と言った。 また別の女に思える。命令に慣れた別の女。 自分の吐瀉物は不可能だった。そこ迄、 人間性を捨てた行いは出来ない。 彼女に命じられた中で唯一出来なかった事だが、 彼女の吐いた物は容易に口に出来た。そんな趣味は本来は無い。 彼女の一部だから、しただけだ。

 彼女の感情は極めて不安定であり「 どうしてこんなに簡単な事が出来ないの?」 と尋ねてから泣き崩れた。彼女の血、 一部を吐き戻したという事は拒否反応だと考えたのだろうと思いそ の数日後に彼女の吐瀉物を口にしたら「何でそんな事をするの? 汚いじゃない」と言う。滅茶苦茶だった。 こちらも何が正解なのか何を示せば彼女が落ち着くのかが分からな い。

 光生とは必要事項以外話さなくなった。 彼とも珍奇な関係になっていく。
 とうとう三人で居る時に光生が彼女の脚、腿に触れた。 突然だった為か彼女は真横に引き摺り込まれる様に倒れた。 急に傷の有る部分に触れるとそうなる事が度々有った。
 光生は淡々としていた。「この子はどうしてこうなるのかなあ」 と言う。癲癇の症状があるのか?と。
 何度も倒れているのか逆に尋ねた。彼は最初からだと言った。 しかし最中に起きるらしい。 だが服を脱がそうとするとまた倒れる、と彼は言った。「 ぶっちゃけ下着だけ取れれば良いしね」と彼は歌う様に呟いた。

 今迄、光生は恋愛をしているのだと思っていた。 初対面で熱量を感じなかった彼が、 それなりに華には手を変え品を替え熱意を以て接しており、 彼女が食事出来ないのを気にも掛けていた。
 しかしそれだけの様だ。 彼にとって華はその他大勢の女と同じであり、 かなり変わった趣向を持つからして懸命に通っているだけなのだろ う。
 人形に触る様に、否、 荷物を持つ様に光生は彼女の腕を引っ張り揚げた。乱雑だった。 そんな接し方を自分は一度たりとも彼女にはした事が無い。 そんな事をすれば骨が外れかねない。 彼女への触れ方で光生が彼女を、 だけでなく異性全般を蔑んでいると感じた。
 小さく開いていた彼女の口に光生が指を挿れた。「噛むかな」 と低く口にした。
 止めろと言って押し除けた。彼はあっさりと手を離した。
 もう来ないでくれと告げる。光生は返事をせず帰り支度を始めた。 全く、終始淡々としたものだった。
 
 その夜に光生がもう来ない事を華に伝えた。彼女は「 あの人の怒りを吸い出さないと、あの人は死にそうなんだよ」 と言う。光生を庇う様な表情だった。
 吸い出す……、 お前はあいつに一体何をしていたんだと問い質したかった。 実際は何をしていたのか検討がついている。 殆どの事を知っているのだと、ぶち撒けてしまいたかった。 初めて彼女に対して強く苛つきを覚えたのが、 この時だっただろうか。
 初めに裏切ったのはどちらだったか。俺か、お前か。 学生の身分で囲う様な事をしたから彼女は窮屈さを覚えたのか。 他の男を物欲しそうにしているから宛てがった迄じゃないか。 光生程度の男と比べられるのは心外だが、 これでもう不毛な浮気など起こさないのではないだろうか。

 ともかく光生はもう来ないと言ったのだが、華は「それ誰の事? 誰の話?」と急に言い出した。 驚くべくは彼女は光生の名を知らなかったのである。 名をしっかりと聞いていなかった、 或いは覚えていなかったというべきなのか。

 〔この件は我々三人の間で曖昧に片付けられた。 思い出したくない事柄であり、華が忘れている事を期待していた。 光生とはこの後全く話さなくなった訳ではない。 その他大勢の友人として彼からは関わって来た。 こちらも遺恨を残した積もりは無い。 彼が悪かったかと言えばそうも言い切れず、 最も責任が重いのは自分である。 しかし光生は同窓会で華を見付け出した。 初対面として接している。華が「こんばんは、初めまして」 と言ったそうだ。その頃は人格の統合が済んでいない。 華でない人格が当時の光生に接していた事になる。 現在の彼女には記憶が繋がっているが、 詳細を正しく覚えているのかは不明。 今回も敢えて書いていないシーンは多々有る。 華の脳が何をどこ迄記憶しているのか定かではない為、 彼女のPTSDの症状を怖れて書いていない。
 光生は同窓会後に華と交際を始める運びになってから、 こちらに勝ち誇った顔で「今、変わった女と付き合っている。 あの学校を辞めた子」と言って来た。光生は光生で狸なのである。 無論の事、 奴には前述の記憶が全て有るのだが都合良く忘れた振りをしていた 。彼らの交際や結婚を祝えなかったのは、 この件が絡んでいたからでもある。〕

 

 十六になった日、 彼女は銀色のリボンと同色の包装紙に包まれた万年筆を贈ってくれ た。「これは、たからが持つべきペン、あなたに相応しい」 と言う。社会人になっても長く使える高価な品だった。 今も保管しているが、彼女との一旦の別れを思い出す品でもある。

 その夜に「痛くしないから」と彼女が彫刻刀を持ち出した。 こちらの心臓の上に耳を寄せ、鼓動を聴いてから肌を彫った。
 …………彼女の名を。 痛みは感じなかったが神経が勝手に反射を起こした。 彼女を載せている膝、腿が時々痙攣する。その度に彼女は「 ごめんなさい」と言った。
 手当てを終えてから彼女は、「ずっと、永遠に好き」と口にした。


 光生と関わらなくなった後、 ニヶ月程は彼女はバイトに集中していた。家に来るのは週ニ、 三に減少した。今日は友達の家に行く、 バイト先の人とカラオケに行く等の連絡は有る。電話してみると、 確かに友人らの声が聞こえ騒がしい。だが、 それで不安が消えた訳ではない。

 家に来た日は予想以上に甘えて来る為、 彼女の言動に振り回されるばかりだった。 光生の話題は一度も出なかった。彼女は「私だけを一生愛して、 私以外には誰も見ないで」と言った。 こちらの目を視線で焼く様にしてから、題目を唱えるかの如く。 彼女さえ傍に居てくれれば、それは日常だ。 今更呪文を唱えなくとも既に彼女の念で厳重に縛られていた。
 学校での彼女はテストを白紙で出したり、 授業に出ない日が続いた。 屋上の柵を乗り越える奇行は習慣的だった為、 もはや奇行ですらなくなっていた。

 クリスマスイブ、クリスマスは家に居た。二人で長く過ごせた。 久々に家族で教会に行き、彼女も祈っていた。そうしていると、 彼女は生まれ落ちてのクリスチャンに見えた。 凪いだ様な穏やかな佇まいだった。 彼女はこのまま落ち着いて行くのではないかと思っていた。

 そして十二月二十ハ日の夕刻に、消息が途絶えた。

 

 
 PHSが繋がらない。
繋がらないコール音を耳にしている。 彼女が独りで暗い洞窟に似た場所を、 ひたすらに歩いて行く姿が見える。
 彼女の心情なのだろうか。 それとも死に場所を探しているのだろうか。

 物が喉を通らなくなった。飲食しようという気にならない。 手に力が入らない。ベッドから出る事が出来ない。
 静寂の中で彼女の囁きを聴いた気がし、目を開ける。 隣に彼女は居ない。寝具に彼女の匂いが有る。 彼女は毛布にくるまるのが好きだった。髪の香りもする。 匂いが有るのに居ない。 それは彼女が死んだと感じる事に等しかった。

 両親には一人にして欲しいとメールで告げた。 心配しているのは感じていたが、両親への対応が出来ない。 三日以上排便が止まっていた。トイレにすら行けず、 三十時間に一度程、 部屋のゴミ箱にティッシュを敷き詰めてから排泄した。 非人間的な行動だ。 排尿と睡眠だけが辛うじて人間の機能として残っていた。
 
 カーテンを閉め切った部屋で新年を迎えた。
窓を開けてみる。 清涼な真冬の深夜の空気に除夜の鐘の音が微かに響いて来る。 百八の煩悩を除くという音………

 捜しに行かねばと思った途端、支度を始めていた。 早朝に出発しようと、目的地迄の経路を調べた。
 彼女は樹海で死にたいと話していた事が有る。『 大地に溶けて死にたい、海でも良いけど死体が見苦しいから』 そう言っていた。
 彼女の遺体の隣で眠りたい、その時はそれだけの想いだった。

 心当たりを探して来ると書き置きして家を出た。 街の中は人が疎らだった。この世界で、 彼女の居ない世界で生きる事に価値は無かった。

 

------------------------------ --------------

 彼女が居なくなった時に一度自分は死んだと思っている。 死んだまま大学受験し上京し死んで以降も彼女に囚われ、 彼女を捜し回っている。あの頃は亡霊だった。

 食欲も性欲も物欲も無い。消えた。 あれらは生き生きと日常を送る中で生まれる求めだ。 彼女は自慰をする男の手が嫌いだと言い放ち『たからの手は、 未だ綺麗。あなたは一人では、しては駄目。 私が全部してあげるから』とこちらの自慰を禁じた。 彼女と出逢った頃、自分は未だ子供だった。 性の欲する所も何も分からなかった。ただ、 淫夢だけは彼女がこの人生に現れてから毎日見る様に変わった。 彼女が消えてからも見る。夢精だけが呪いの様に続く。 彼女の持っていた魔性。 自分は箍の外れた異性に惑わされただけなのだろうか。 それだけの筈が無いと信じたかった。

 周囲の人間と話さねばならない時間が息苦しい。 両親は華が生きていると考えていた。華が自立したと考えていた。 捜し出す事は簡単だった筈だ。両親は警察に捜索願いを出す, 失踪届けを出す等はしていなかった。 彼女は二十八日にクラス担任に会っていた。 退学届を出す為であり、彼女の母親に伴われていたという。 退学後の生活については、働くとだけ言ったらしい。 母について旅館にでも就職するのではないか? と担任は軽蔑したかの様に話していた。 彼ら進学校の教師にとっては、ブルーカラーは偏見の対象なのだ。

 彼女は一月で十六になる。もし自死をしたのならば、 僅か十五で命を絶った事になる……

 樹海に行った事で、自分はある種の諦念に見舞われた筈だった。 彼女は死んだという事にした。 生きていて拒絶されている状況の方が辛い。 しかし何処にいても彼女の姿を捜してしまう。 彼女の名残を求めている。

 実家を出る際、 彼女に纏わる品は全て実家に置いて行く積もりだった。 だが彼女が最後に贈ってくれた万年筆は、 彼女との繋がりを消してはならない想いで唯一持って行く事に決め た。

 上京前、胸が破れるかの様に痛む日があった。 彼女の使っていたシャンプーとコンディショナーが浴室にあった。 その日、全て出し切って使った。彼女の着ていた服を抱いて寝た。 女々しい事をしている。 自覚は有るが彼女の気配を微量でも感じたい。
 長年習っていたピアノは彼女と出逢って以降は彼女の為にだけ、 弾いていた。上京を機にピアノからも離れる事にした。

 理系から合格し易い経済学部を選択し、 大した苦心も無く入った大学は退屈凌ぎにもならなかった。 さしたる努力をする理由が見当たらない。

 クラシックをヘッドフォンで聴く時間だけが、 彼女から派生する痛みを緩和させた。
 彼女に似た姿の女を見掛けると一々、目が追ってしまう。 実際には彼女に似た容姿の者はいなかった。 パーツしか見ていない。脚が細ければ脚を見る。 背が低ければ見る。長い黒髪ならば見る。肌が白ければ見るが、 華の様な病的な容姿の者は滅多にいない。 植物的な気配を発している者は、もっといない。


 同じ学部で出逢った詩織は、近い要素を持っていた。〝 作り変えれば〟華の代わりになりそうだった。
 パニックディスオーダーと自傷癖、 男性恐怖症といった歪みを抱えていた詩織は言うなれば普通の女だ った。多くの人間より弱かっただけだ。ストレス耐性が低い、 周りの目を過度に意識する。 華の様な人間離れした霊性は無かった。

 不憫な事をしたと思う。先ずは華の写真を見せた。 華より好きになる女は居ない、華でなければならない、 華しか愛さないと言ったのだ。その上で詩織とは交際を始めた。

 詩織には自我にも歪みがある。 あなたが至上に愛しているこの人になりたい、 成り切りたいと言う。無駄だと知りながら華はお前よりも華奢だ、 食事らしい食事をしないのだと告げた。 詩織は華を自殺した元恋人だと認識していた。 十六にもならず若くして死んだ薄幸の少女だと、 憧憬を募らせていた。 詩織は死に憧れながら自殺未遂の真似事すらも出来ない。

 そして詩織は食事を極力しなくなった。 元を正せば詩織も拒食気味だったが、それに拍車をかけた。 自分が加速をさせながら詩織に食事を作り、 食べさせる事を演じた。世話したいのは詩織ではない。華だ。 華に食べさせたいのだ。詩織は人形でしかなかった。 詩織は人形で在る事を望んだ。

 日常の中では詩織の名を呼んだが、性交の中では華の名を呼んだ。 華と呼ばなければ詩織に対して反応が一切無かった。
 性の歪みは互いに持っており、 詩織は華に成り切らねば過呼吸の症状が出た。 試しに詩織の名を呼び掛けて愛撫しただけで急な発汗, 硬直が見られた。正常とは言えなかった。互いに。
 詩織と共に眠る日は無かった。 華の霊が隣で寝ていると仮定していた。 だから夜間はタクシー代を負担して詩織を家に帰した。 詩織は実家住まいで親に甘えられるだけ甘えていた。 そして他の大学の学生を小馬鹿にする様な一面が有った。 仮にこちらが音大に進んで居れば、 どこかで出逢ったにしても交際には至っていないだろう。 その程度の縁であると言い切る。

 小学生から働かされていた華の気概とは比べものにならない。 分け隔て無く他者に接しようとする華の姿勢とは全く異なる。 詩織に限らず友人らの紹介で会う同年代の女に尊ぶ点は見当たらな い。
 

 共に眠る存在は、後にも先にも華しかいない。
 
 
 二十歳になり、年末年始の為に地元に戻っていた時だった。

 何の準備も無きまま華との再会が訪れた。 自然な形で街の中で偶発的に会えた。
 あれから、丸四年。死んでいた日々が息を吹き返した。
 過去の彼女の姿より更に体を弱らせて現れた。 手首や足首は小枝の細さだった。 離れていた時間の残酷さは彼女にも降り注いでいたのだろう。
 記憶に在る通りの甘い、たどたどしい囁き声で話す。 時折目付きが鋭く変化するのが気になったが、 女は変わるのだろうからと自分自身を納得させた。 一見して高価なネックレスを身に付けていた事、 男物のコートを羽織っていた事、 バッグは持っていなかったがブランド物の派手な財布を持っていた 事、 髪を脱色していた事等から男と暮らしているのかも知れないと思っ た。彼女の好む服装には思えなかった。

 年明け、東京に帰ってから詩織に別れようと告げた。 華と再会した事を話した。華はメールをすれば律儀に返して来る。 電話も出来る。彼女は丁寧な落ち着いた話し方をし、 時に微かに笑う。相変わらず美しい声で。 通話中は聴覚が彼女の声しか拾わなかった。 窓の外を雨が降っていても風が吹いていても彼女の声だけが脳に響 く。遠距離恋愛状態だった。近くに居る詩織を通り越し、 記憶の中の華しか見えない。より鮮明に華しか見えない。 華は記憶の中に生きているというよりは自分の隣に、 直ぐ傍に居るかの様な錯覚が在った。

 詩織は徐々に精神を狂わせて行った。詩織の中の《たから君》 と恋愛を続けているらしい。
 
 詩織に対し、華にされた事をぶつけていた。 自慰を禁じ二人で居る時間に強い快感を覚えさせ、 身体も精神も支配する。 華から受けた呪いの手順をそっくりそのまま真似て、 詩織に試した。
 詩織はこちらに救いを求めていたと思うが、 こちらの過去の苦悩を引き受けようとする事で存在価値を認めて貰 い、救われようとしていた。それが鬱陶しかった。
 過去の苦悩。誰かに預けて軽減出来る種類の事ではない。 それを誰かに預けようとも思っていなかった。 自分は何時迄も苦悩していたかったのだから。今もだ。

 投資銀行マーケット部門にトレーダーとして就職。大学在学中、 既に個人投資家としてニ年程利益を上げ続けていた。 仕事はやり甲斐に溢れていたと言って良い。純粋に面白かった。
 数十〜数百億単位の資金運用に関われる。 マーケット部門は基本的には個人プレイであり、 実力によりインセンティブが大きい。 やがて部署がセールスに変わるが、 やはり個人の営業力が物を言う、実力主義の世界。 そこで泳ぐ事は楽だった。

 仕事以外は華の事を考える。 考えなくて済む様にと他の女との出逢いに流れてもその出逢いの最 初から最後迄、華を投影している。華だと思い込んでから寝る。
 身も蓋も無い表現だが、華だと思い込んでいようが抜けない。 疲れていると仕事を言い訳に持ち出す。 疲れているので一人でゆっくり休みたいと同衾はしない。 そして淫夢に襲われる。 百の夜の夢に一回有るか否かだが華の姿を夢で見る事が出来れば、 それで良い。
 それ程に求めているというのに、彼女は冷ややかだった。 地元に会いに行っても復縁は叶わない。 幾ら言葉を尽くしても応えてくれない。強引に触れれば怯える。
 
 その頃、詳らかに華の病が明らかとなって行った。
 彼女は脳外科医と不倫していたのだが彼女の言動の不一致、 記憶の空白に医師としての疑問を抱いたものらしい。 その男に大学病院での検査を勧められていた。
 確定診断迄は凡そニ年を要した。彼女の病名は乖離性同一性障害。 分かり易く言えば多重人格者。性的虐待,身体的虐待, 精神的虐待,ネグレクトが要因だった。

 地元に戻らねばならない。華を支える為に。 彼女が東京に来てくれないならば、 こちらが彼女の元に行くしかない。 会社に布石は入社当時から打っていた。
 転勤により部署が変わる為、営業を学ぶ。徹夜でピッチ(資料) 作成し新卒のアナリストを伴い担当企業にプレゼン。M& Aアドバイザリー部とチームで動く。 企業の状況を元にファイナンスを迫る訳だが、 これはこれで楽しみながらこなしていた。ゲームの様なものだ。 本気でやる仕事ではない。 上手く肩の力を抜けない者から潰れて行く。

 地方での上下関係は軍隊さながら。 有力な上司に気に入られてしまえば問題は無いが、 上の人間数人に入れ込まれ派閥争いに巻き込まれる。 彼らは暇なのだろう。真剣に小競り合いに巻き込まれている程、 間抜けではない。周囲には流れない、 曲者の上司の下に自然と落ち着く。

 何故わざわざ地方都市に来たのか直属の上司に尋ねられた。 故郷であるから、 そして親の介護を視野に入れてと当たり障りなく答えた所、 嘘だなと見抜かれる。この上司は直感で動くタイプだった。
 〝放っておけない幼馴染み“として華の話を控えめに明かす。 上司は最初、からかって来たのだが話と酒が進むにつれ、 それは放っておいた方が良いんじゃないかと真面目な面貌で言った 。お前が先に侵食されるんじゃないか、と。
 自分は彼女に侵食されたいのだと答えた。


 華の状態は如何なるものか。こちらからは窺えなかった。 彼女は会っている時は正常だった。
 正常とは何を以て正常だろうか。 思春期の彼女は正常と異常を往来していた。 それが魅力だったのかも知れない。他の人間には見られない魅力。 共に居ると地獄にも天国にも引き摺られて行く………様な。
 掴み所の無い言動は変わらず。 しかし恋人にする様な憂心を見せる。 話の内容によっては非常に理知に富んだ返しをして来る。 彼女と何時間でも、永遠程の時間を話して過ごして居たい。

 自分には分からぬ部分で、彼女は闇を歩いていたのだろう。
 映画やライブに連れて行き、 帰りに喫茶店に入り彼女がジャケットを脱いだ時だった。 薄いカットソーの下、 解けて血が滲んだ包帯に包まれた両の腕が現れた。 どうしたのか尋ねると「朝起きたら腕、切れてたの」 と小さな声で言う。
 きちんと消毒が為されていないのではないかと訝り、 車の中で包帯を解いてみる。両腕に百箇所以上に及ぶ傷、 彼女は右利きの筈なのに右腕の傷の方が深い。 病院に連れて行こうにも、行きたくないと泣きじゃくる。 華は自傷行為をした覚えが無いらしい。 それを病院で言うと閉鎖病棟に入れられると言う。 仕方無くガーゼと消毒薬、 包帯を買い込み改めて車内で丁寧に治療する。 彼女との間には昔から、血が介在している。
 彼女は未だ流れ出ている血を黙って見ている。 その表情に寒気を覚える。瞬きをしていない。 血を見ていた筈の彼女がこちらを見上げる。 彼女は他人を見る目をしていた。
 華ではないのか…………?
次の瞬間、目の色が戻る。「たから、ありがとう」。しかし、 幼児の様な口ぶりだ。本来の華は何処に居るのか。 何処に行ったのか。

 二週間の検査入院。精神科は異様な雰囲気の場相を形成していた。 見舞いに行くと遠慮無く他の患者に見られる。 卑猥な言葉を掛けて来る患者、奇声を上げる患者、 雨の日の薄暗い通路でサングラスをかけ佇む患者。

 華は談話室で恰もカウンセラーの様相を帯びていた。 しかし薄紅色の入院着を纏い、両腕、 その時は首にも包帯を巻いていた。首を吊ったのだと、 彼女は何でもない事の様に口にした。周囲に人の輪が出来ており、 彼女に話を聴いて貰いたがっていた。
 
 彼女の力に、支えに成れてはいないらしかった。ある時は「 呼吸が苦しいの、何か話して」と夜中に電話して来る。 甘えた声だった。 これから行こうかと言うと急に低い声で断って来る。 こちらは側にいる積もりなのだが、 彼女は自傷行為や自殺未遂を平気でやる。時に可愛らしい声で「 川に落ちちゃったの」 と電話して来るので何を大袈裟なと思っていると、翌日の朝刊に〝 橋の欄干から女性転落“。彼女は病院から電話していたのだが、 それを言わない。

 学校の屋上の柵を乗り越え縁ギリギリを歩いていた彼女は、 更に危険な遊びをしているかの様だった。 ある時は国道で車に飛び込んでしまったと言うのだが、 彼女は他人事の口振りなのだ。いずれも骨折や打撲、 掠り傷で済んでいるのが不思議だった。一度でなく数度。 決して大事故にはならない。 彼女は事故になる度に嘆願書を提出し、 運転手が免停や罰金を食らわない様にしていた。
 二人で道を歩いていると、彼女は成る程、 陽炎の様にふらふらとしている。中学高校の頃、 これ程に危なっかしい状態だっただろうか。そうだ、 当時は手を必ず繋いでいたのだった。
 華を歩道側に誘導しようと手を引いた。 力は入れていない積もりだった。呆気無く、彼女はよろめいた。 次に怯えて震え出した。真に怖がっている様子だった。目が、 彼女の目付きではない。視線の注ぎ方が違うのだ。 落ち着かせようと頭、肩の辺りを引き寄せたら泣き出した。 ここ迄、拒絶されようとは………

 華を想いながら他の女を抱くにも飽きた。 詩織は東京からこちらに追って来ていた。生涯、離れ得ぬ様に。 そう接したのは自分だった。詩織の命を吸い取る強さで関わった。 華にそうされた様に。

 華を放置するのは危険だと思っていた。 片時も離れぬ様にするにはどうすべきか。 彼女は脳外科医との不倫の収束を迎えていた。 直ぐにアプローチしても未だこちらに意識は向けまい。 電話をしていても沈んだ声で寂しそうにしている。 タイミングを見計って会おうと誘っても、 夜だからなのか警戒されてしまう。正直、 夜に会って何もしないで終わらせる自信は無かった。 彼女の警戒心は正しいと言えた。

 同窓会の招待については、早々に断っていた。
 高校を辞めた華が行く訳が無いと思っていた。
 どの風が彼女の周りに吹いたのか、 余計な事をする彼女の友人が彼女を同窓会に連れ出してしまった。 そこで事件は起きた。

 『入江さんが来ているが……?』と、 同窓会に出席している友人からのメール。 華が来ている事に驚きを隠さず。彼は逐一、短い報告をした。
 『ミッキー イリエ ヘ 粘着』大正時代の新聞の見出しの様である。
 ミッキーとは光生の事だ。
 何という事だろうか?

 華から『たから、光生君知ってるでしょ。 お酒飲んでなかったから、帰りは送って貰ったよ』というメール。
 何という事だろうか。

 華は光生を憶えていない様だ。それはそうだろう。 精神的要因の記憶障害なのだから。憶えていたい訳がなかろう、 あんな事を。性的虐待被害者に性的被害を負わせたのだから。 光生と二人で。
 光生はどういう積もりなのだろうか。 よもや彼迄もが憶えが無いと言う積もりではあるまいな。
 
 その通りになった。 光生は週末に友人同士のフットサルの集まりで「今、 変わった女と付き合ってる。あの学校を辞めた子だ」 と言い出した。 あくまでも無かった事にした上での申し出だったが、 彼はこちらに対し勝ち誇った表情をしていた。
 光生は、〝出来杉君” の唯一にして最大の弱点をよく心得ているものらしい。

 こちらもあくまで例の件は忘れた態で話した。 自分は彼女と付き合っていたのだと改めて告げた。 光生はそれについても流し、 彼女の心臓が弱いとはどういう事なのか等を尋ねて来た。

 光生と形だけでも親密になり切る必要が有る。華を守る為だ。 そして彼女を奪わねばならない。否、奪い返さねばならない。 それをする事は光生が彼女に侵食されぬ様、 防ぐ事にもなるだろう。
 光生の性格は知っていた。癖はあるものの彼の根本は素直・ 率直であり虚飾が無かった。 それは無気力に通じていたかも知れない。 何かが有れば彼の精神は空気が抜ける。 危うい人格であると見ていた。 華に嵌り過ぎたら彼は恐らく崩壊する。

 華と光生が結び付いてしまった理由を、今は知っている。 光生の育った家庭環境、彼の母親に問題が有った事。

 光生は溺愛という名の暴力に晒されていた。 中学時代から付き合っている女子を家に連れて行くと母親が部屋に 急に入って来ると聞いた。彼は笑い話にしていたが、 ベッドで彼女と全裸でいる状況で母親が邪魔をして来るらしい。 成績が僅かでも下がると長時間正座させられたらしいが、 彼は中学時代は一位をキープし続けた。 高校に入ると周りは似た様な生徒ばかりであり、 満点を取らない限り順位は下がる。 九十九点で同列の者が何人もいる。母親はそれを解しない。 彼は母親を自己より遥かに頭が悪いと小学生の時に位置付けており 、思い通りにならないと手を上げる母親、 のみならず父親を内心馬鹿にしていた。

 彼が高校時代にこちらの家に喜んで来ていた事には、 更に理由があった。 不登校の二歳下の妹が家で叫び声を上げて暴れると言う。 精神科では病気でなく性格異常とされており、 うるさくて勉強にならないので塾に逃げていたとの事。 そこで親身に相談に乗ってくれたという塾講師と「恋愛」 に落ちる。塾講師はその夫との性生活の不満を、 女を知らない十三歳の少年で解消したのだ。光生もまた、 ある意味で性被害者と言える。
 光生は華に同様の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。 但し彼は華の様に多くを受け身にはせず、攻撃性を露わにした。 特に異性に対して。


 二人は交際を始めてから一ヶ月も経たない内に、 半同棲状態になっていた。
 華の話を聞いていると彼らは性生活に於いて非常に風変わりな形態 である事が伝わって来た。
 彼女の治療に伴う異相の現れなのか、光生潜在の趣味であるのか。 その破調は加速して行く。
 膣に挿入した物体が取れなくなり婦人科に行った、 性交中の腹痛が激しく救急車を呼ぶ事になった等の話を聞くと今直 ぐに別れさせねばと思う。 匿名でシェルターに相談した事もあるが、 やはり華当人が助けを求めて来ない限りは機関としても動きようが 無いと言う。児童虐待と同様に。
 思春期に頑なに虐待の事実を隠蔽していた彼女を思い出す。 自分は成人していても子供の時と同じく彼女を助ける事が出来ない らしい。
 無力感に打ちのめされる。 どうすれば彼女がこちらに靡くというのか…………

 真冬の夜、山形に近い地域で電車が止まった。山奥迄、 家庭教師に行っていた華から電話が来た。「無人駅で暖房が無い。 電車が180分待ちだって」 彼女は駅に備え付けられていた電話で情報を得ており周囲にはホテ ルも旅館も無いと、か細い声で告げた。 駅内に放送すら入らない小さな駅だ。
 光生は仕事、0時迄の勤務。実際には三時頃迄仕事をし、 会社に泊まるのだ。 シャワーブースも雑魚寝するスペースも有ると聞いていた。 彼は経営コンサルタントだが、 華と付き合い始めてから27で執行役員に昇格した。 勤務時間は有って無いようなものだ。

 片道約五十二km、平時なら一時間もあれば着くが大雪の中だ。 山に向かう程に積雪が増す。
 這這の体で迎えに行くと、華は迷子の表情で震えていた。 程近くに彼女の生徒がおり、 その男子高校生は彼女を家に泊まらせようとしていた。 彼女は十年経ってからも男を誑かしている。

 車の中で彼女は微睡んでいた。既に夜中。「ホテル代を出すから、 泊まりたい」と窓外を見て彼女は呟いた。 七号線沿いには外世話なラブホテルが乱立していた。
 その内の一つに入った。 林を抜けて坂を上がり車もろとも一室に乗り入れる。 シャッターが閉まる。中は十畳程。窓は無い。
 華は寝入っていた。 スーツを着ていても彼女の顔立ちは中学時代のままだった。 意識を失った人間の体はやたらと重いものだが、 彼女は拍子抜けする程に軽かった。
 助手席から、 如何にも安っぽい合皮のソファーに一旦寝かせコートとジャケット を脱がせた。ハンガーに掛けておく。 部屋はエアコンを最大にしても寒い。
 薬を飲んでいる様な寝入り方だ。 思わず呼吸をしているか確かめた。彼女の顔の傍に顔を近付けた。

 仕事後に雪道をひた走り、明日また仕事が控えているというのに… …抱けない女、友人の彼女に何をここ迄。道化も良い所だ。 何故彼女は泊まりたい等と言ったのだろう。 彼女は本気で眠っている。男を馬鹿にし過ぎてはいないか。
 細い顎を掴み口を開けさせて舌を入れた。 一時間以上それを繰り返して待っていた、 彼女が起きる事を期待して。
 唾液を注ぎ込む様にしてみると、 彼女は眠っていてもそれを飲み下した。 無意識にしては吐息に甘やかな声が載る。 こいつは意識が有ろうが無かろうが、こうした反応を崩さない。 実は起きて居るのではないかと観察を続ける。しかし、 やはり深く寝入って居るらしかった。

 情けないが襲って来たのは性衝動でもなく悲哀、哀哭だった。 泣けて来てどう仕様も無い。彼女は一体、自分にとって何なのだ。 否、自分は彼女の何だ。
 
 キスで目覚めなかった姫だが、 朝になると起き出してシャワーを使っていた。「ねえねえ、 朝だよ。起きて」と揺り起こして来た。 苛つくので寝た振りをしていた。 彼女は困った様に揺り起こし続けて来た。 こちらの髪を撫でたり手に軽く触れたりする。 子供の頃と同じ声で名前を呼んでくれる。 ずっとそうして居て欲しい。就職して初めて、 仕事を休んでしまおうかと考えた。


 彼女と大きく近付けた時はもう一度有り、 その時は監禁未遂まで持ち込めた。

 光生の話を楽しそうにする彼女を見ていると、 陰ながら二人の幸福を願う聖人の衣も纏えなくなっていく。 光生をいっそ殺してしまおうか。彼女が嘆き悲しむ側で待ち続け、 彼の代わりを務めるか。しかし死別は美化されてしまうのだろう。 彼女を監禁してしまえば、いずれ彼女の精神を支配出来る。 そちらの方がリスクは少ない。

 監禁するならいつ。どの様に。計画とも言えない夢想をしていた。 夢想だが拘束具や簡易トイレ等は用意していた。 仕事で忙しく過ごす日々の中、 その様な物品を通販サイトで購入し自宅に保管する異常性。 それらを傍目に見ながら誠実な声色を作り彼女と電話している時の自己嫌悪。彼女と話していると自己否定感に苛まれる事が有る。 彼女を通さねば明らかとならない自分の忌むべき部分に目を逸らし たくなる。 それでも着実に準備が進むと安心感の方が強くなって行った。 彼女の心は未だ動かせないかも知れないが、 彼女を捕らえておく檻は確実に目に見える用意が出来る。 彼女さえ居てくれれば他はどうでも良い。

 心臓に持病が有ると塞栓を起こし易い。 拘束だけでも方法によって人は死ぬ。 適切な拘束についてガイドラインを参照、 制菌介護衣について迄も調べていた。
 そして機会が訪れた。

 美術館に連れ出した際、 トイレに行った彼女が長く戻らず女性係員を呼んだ。 やはり中で倒れていた。便座に寄り掛かる様にして倒れていた。
 救急車を呼ぼうとした係員に彼女は持病が有るのだと言い、 車に運んだ。手慣れた様に見えたろう。 実際彼女を運ぶのは手慣れている。
 マンション内の誰にも会わずに彼女を運ぶ事が出来た。 あまりに簡単だった。

 彼女は目覚めても騒がなかった。 だが幼児の様に泣くばかりだった。
 高校の頃、光生に彼女を貸した事は重い痼りに変わっていた。 このまま監禁を続けたとしても自分が罪悪塗れになるだけだと判断 した。

 その日の内に解放した。彼女は光生に何も告げない。 誘拐をされたのだと言いつけてくれれば良いものを。
 光生と話し合いたかったが、 それを自分は恐れていたかも知れない。 彼は彼で高校時代に彼女にした事を償っていたのだろう。 精神の病を支えるには並大抵の心掛けでは出来ない。 償いだけではなく、 彼はやっと真に人を愛する事を知ったのだろうが。

 もう一つ、彼女はこの時まるで魔性の者にも見えた。 泣きながらこちらを見る目、中に何人が存在しているのか。 実に恐ろしかった。 彼女の全てを受け容れる覚悟で接している積もりだったが、 泣き声が低音を帯びると耳が反応した。彼女か? 彼女でない人物か。疑心暗鬼になる。
 
 光生は、この状態で構わず彼女を抱けるのだろう。「 全部が華だからね」と挑発的に言われた事がある。自分はどうだ。 思春期の植物的な彼女、 霊的な彼女だけを愛しているのではないのか。 痛みの記憶を持つ彼女の人格は否定し、 人間の穢さを赦し憎しみの感情が抜け落ちた妖精の様な彼女だけが 、絶対なのではないだろうか。 虐待に拠って故意に捻じ曲げられ感情の失われた彼女の人格、 それだけを愛する事は狭量ですら無い。それは罪だ。


 手を拱いている内に光生と彼女は婚約に至る。 自分のどこが光生に劣るのだろうかと疑問だったが、 少なくとも彼は彼女を恐れてはいなかった。
 彼女の何が恐いのか考える。例えば自傷。 それは親しい者を同時に傷付ける事に等しい。 自傷は実は他害である。彼女に死なれるのは恐い。
 光生の話を聞くと、 彼が帰宅した時に華は丁度首を吊ろうとしていたりすると言う。 部屋中が血塗れであったり、彼女が刃物を握って佇んでいたりと。 彼は内心動揺しながらも冷静に対処していた様だが、 自分は果たして冷静でいられるのだろうか。自信は無い。 彼女が目の前で消える選択をしていたら、 それだけで衝撃を受けるだろう。 こちらの日常化した看護を否定されている事になるからだ。 彼女でなく別人が彼女を殺そうとしていたら、 彼女の体を動かしているその人格を言葉で攻撃してしまうだろう。

 この頃の華は精神状態が荒れ狂っていた様なのだが、 全ては光生の話でしかない。 彼はこちらに頼り切る姿勢に早くも変わっていた。
 光生は単独で華を支えていたのではない。彼にその力は無い。 実家に頼り友人であるこちらに依存し時に仕事に逃げていた。
 華はメールでも電話でも物静かだった。つまり自分は、 やはり透明な植物の様なこの世ならぬ彼女の姿を勝手に想い描き、 過去の彼女だけを追い求めていたのかも知れない。
 光生の存在を自分は格下に見ていた。 彼に華を盗られたと捉えていた。 彼女に執着する理由は初めて味わった屈辱からだったかも知れない 。
 その様に自己分析して華の比重を軽くしたかったのだが、 彼女の存在の大きさは裡側で嵩むばかりだった。

 数年後の冬、一月。
 光生が出張で寂しいからと、彼女から「どこかに連れてって」 とメール有り。こちらは休暇中だった。
 相変わらず、彼女に利用されているだけの感覚に陥る。 元彼氏を友人に据える女は残酷だ。 彼女は利用している積もりは毛頭無いのだろう。−− をしてやったのだから~~ をしてくれと言う事の浅ましさ卑しさを、 高潔な彼女の前で出す訳にはいかない。
 
 オーダーしていたスーツを取りに行き、書店に連れて行った。
 彼女が文庫本を何冊か買おうとしていたので、 こちらの分と合わせて会計を済ませる。 彼女は大した額でもないのに恐縮していた。 光生は彼女に物を買う時、余程に恩着せがましいのだろう。
 何か食べさせるべきだと思い、 付近の店を思い浮かべながら運転していた。 彼女はサラダ位しか食べそうにない。夕方になり、 雪が多くなっていた。

 「聖の家に行く」唐突以外の何物でもなかった。 彼女はゆっくりと、「一緒に帰る」と口にした。
 その言葉を反芻している間に家に着いた。 どの道を通ったのか記憶に残っていない。雪の降る中、 彼女が助手席に居る。それだけだ。

 あの日のあの部屋のベッドに華が当然の如く坐っていた、 その映像だけを切り取って自分は永久のものとしたいのだろう。 起こっている事はイレギュラーな筈なのだが、 最初から定まっていたかの様に離れていた時間が嘘で在るかの様に 彼女は当然の事として、そこに居た。

 肌の滑らかな感触。変わっていなかった。 彼女の意識が幾筋にも枝分かれしているにしても。 何故この体が今は、光生のものなのか。
 彼女は彼を愛する振りをしているのではないか? そうでなければ彼を心底愛するのならば何故、 他の男の部屋に自ら来るのか? しかも彼の友人である立場の男に抱かれて何故、 悦楽を味わうのか。 彼女はこちらを友人扱いしているがそれも嘘だ。彼女もまた、 昔の思い出に浸って生きているのではないか?
 では光生と擬装結婚する理由は何だ?経済力だろうか。 ならばこちらに来た方が得ではないか。 彼のDVに嵌っているという事か。 暴力を愛と履き違える女はいつの時代にも一定数存在している。 暴力の後の謝罪、快楽を愛だと捉えている女。 彼女も加虐と被虐の関係を愛だと思っているのか。


 この時、 華を強烈に愛おしく感じながら劇しく壊してしまいたい衝動に駆ら れた。衝動は喉元を突き上げる強さで断続的に生じた。殺めたい、 この手で。それで終わる。……果たしてそれで終わるだろうか? より強く彼女に縛られるだけではないのか。そうだ、 縛られたいのだ。より強く。彼女に。
 目の前にベッドへ拘束した彼女の肢体が有った。物体の様だ。 遠目に見てこれが人間の体だとは通常は思わないだろう。 その様な形に縛っていた。 彼女を縛りながら彼女に縛られたいと切願している、 この梼眛な自分。
 

 その二月後に妊娠したと知らされた。
 時期を鑑み、 自分の子ではないかと思ったものの彼女の妊娠のしにくさを考える と光生の子供である可能性の方が上だ。彼は「 毎日やっていても出来ない。トランキライザー(安定剤) のせいだ」と言っていた。
 彼女は光生と付き合い出してから婦人科に行く様になったが、 そこで中隔子宮であると知らされていた。 妊娠率が低く流産率が高い。子宮内に柱が生じている奇形の為、 低体重児が産まれ易い。
 
 妊娠したのだから、減薬どころでなく断薬せねばならない。 彼女は二、 三度全ての薬を飲まぬ様にと試みたらしいが動悸や錯乱という激し い禁断症状に驚き、 薬をピルカッターで十二分割し少量ずつの服薬に切り替えていった という。
 いつメールしても「死にそうに具合が悪い」という一言があった。 気弱な発言、負の発言を殆どしない彼女が。
 心配だったが会いに行けない。妊娠中の腹部が膨らんでいる姿等、 直視出来ない。光生の子供を宿している事実を見たくない。 見たら気が触れるかも知れない。中・高校であれ程、 彼女と生きる将来を想い描いていたというのに。何故、 彼女の子の父親が自分ではないのか。何故、光生なのか。

 自分は本当の意味では彼女を案じていたのではない。 自分の精神の安寧を優先していたのだ。 光生の子供を妊娠したから苦しむ結果になったのだと彼女を心中で は詰って責めていた。愚かしい女だと思い、 切り捨ててしまいたかった。だがそんな事は出来なかった。
 
 電話で助けを求められ、 彼女が蚊の鳴く様な声で話している際にも彼女の声だけが、 延いては彼女の魂だけが持つ受容力に浸っていた。 彼女が苦しんでいても、 苦しむのは当然だろうと心の片隅でせせら笑っていた。 この俺を捨てたのだから当然だろうと。 お前なんか苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死んでしまえば良い。 霊になってから後悔すれば良い。そうしたら側に置いてやる。 悪霊に変わっていても。 

 その時期に有ったのは、恐るべき彼女への憎しみだった。 気付いて自己嫌悪した。
 通話中に我に返り、 今から病院に連れて行こうかと口にすると彼女はこちらの人間性を 見抜いたかの様に電話を切った。
 益々彼女は遠ざかる。
 彼女が光生を選んだのは、彼に裏表が無いからなのだろう。

 十月、華は女児を出産した。
 
 会いに行かねばと思いながら行けなかった。 多忙は事実だが時間は作れる。敢えて作らなかった。
 十二月に入ってから、光生の出張中に会いに行った。 邪魔にならないボックスフラワー、 彼女から希望の有った鉢植えのオリーブを持って行った。
 三万も包めば友人としては充分なのだろうが、 光生に見せぬ様に言って他に十万渡した。華は最初「要らない」 と固辞した。 多過ぎる金額は失礼に当たるとこちらも分かっているが、 光生は彼女に生活費を渡していない。 ネットスーパー等で光生名義のカードは使えると聞いていた。 商品券で渡す事も考えたのだが、 何か有った際には現金の方が良い。

 妊娠中十一kg増して産後七kg落ちたと聞いていたが、 以前と同様に子供を自然分娩出来た様にはとても見えない体型だっ た。
 貧血がひどいという話通り、蒼白な顔色。 光生はこんな状態の彼女を残して、 よく仕事に出かけて行けるものだ。 如何に実家が近いとはいえ出張先が国内とはいえ、 不安ではないのだろうか。
 赤ん坊の世話に明け暮れる彼女から、興味は削がれたのだろうか。 光生は彼だけを見ている女を好むのであろうから。
 
 ちょうど赤ん坊の具合が悪い、 咳をしているとの事で付近の小児科に連れて行った。 待合室で父親の振りをする迄も無く父親だと認識されていた。 診断の結果赤ん坊は体調不良でなく、 病院から自宅に環境が変わった事で埃を吸い込み過ぎたものらしい 。低月齢の内はアレルギー検査は見送るとの事。
 次に彼女に会いに行った時は空気清浄機を購入し、持って行った。 更には乳幼児兼用チャイルドシートを車に置いた。 空気清浄機については光生の目がある為〝出産祝い〟とした。
 
 会いに行く日は二週に一度。光生が家を空けている日のみ。 様々な生活用品や食品を持って行ったが、 彼女の喜ぶ顔が見られるのはウェットティッシュだのオムツだの実 用品か又は、本だった。
 活字には欲するものが有るらしい。 しかし彼女の読む本は児童書や癖の有る小説が多く、 どれが良いのか分からない為、 必ず著者名と本のタイトルを尋ねてから探して持って行った。 書店には無い本が多かった。 更には検索してもヒットしない本も有った。数ヶ月後、 出張先の街の古本屋で奇跡的に見つけ出した事が有る。 彼女は竹取物語の様な無理難題を出す。それを愉しんでもいた。

 彼女の居る家というのは、ひたすらに静寂だった。 静寂にも種類が有るが、彼女の居る場所は暖かい。
 雨の日、雪の中の薄暗さ。彼女は必ずキャンドルを灯した。 彼女は昔から「ランプの白熱灯は好き」だと言っていた。 蛍光灯の明かりの中に居る位なら暗闇の方が好きだ、と。
 暗闇の中に共に居た日々も在る、彼女は憶えているのだろうか。 浴室で【永遠へ】手を伸ばした日を、 二人で毛布にくるまって過ごした夜を。

 彼女と居るだけで気が落ち着く。 仕事に戻れば自分は周りの人間の評する通り、 鉄仮面を着けているかの様だ。顧客に対しては笑っておく。 作った笑みだと悟られない様に数パターンの笑みを浮かべる。 疲れる。何故彼女の前でだけ真の意味で笑えるのだろう。

 何と詰まらぬ人生だろうか、 神童だ等と言われ続けて来ても大学に入れば自分如きのレベルは唸 る程当たり前に夥しく存在した。 海外の主要な大学に留学する気骨も無かった。 その努力をする価値が見当たらないからだ。 大学入学迄は点取りゲームだと思っていたが、 大学入学以降も就職後も言うなればゲームだ。 やや内容に変化が見られるだけだ。上司に気に入られるゲーム、 同僚と成果を競うゲーム。恋愛も同じく。結婚も等しく。

 華さえ、華さえ傍に居てくれれば。彼女が妻ならば。 毎日彼女と話せる環境ならば。この世の常識から離れて只、 静かに息づいている彼女。他の誰とも似ていない。 彼女しかいない……

 自分は誠の神童等では無かった。歳を重ねる毎に実感した。 多くの人間よりは数字に強いだけだ。 彼女こそ神が遣わせた存在ではないのか。 彼女は人の心を解きほぐす。
 学校でもそうだった、病院でも。光生に辞めさせられる迄、 彼女は不登校の生徒を家庭教師として教えていた。 自らの力を役立てる場所を彼女は熟知している。
 そして今迄彼女と恋愛し、関わった男は幸福であろうと思う。 一時の安らぎであっても、それは絶対的な安らぎで在っただろう。

 赤ん坊は見る度に大きくなり、床を這う様になり掴まり立ちをし、 抱き上げれば笑う。 だが光生の子供だと思うと笑いかけてやる事が出来ない。
 彼女と同じ空間に居ても、近くには赤ん坊が居る。 産後の体調の悪化の中、 相変わらず減薬し苦しんでいる彼女に何かを告げる事は出来なかっ た。一緒に居る時間を持てる。 それだけで僥倖と自分に言い聞かせた。

 しかし光生の横柄さ、横暴さは目につくばかりだ。 育児には協力せず。彼女の薬断ちにも疲れたのか、 仕事ばかりの日々。その割に過激な性行為には余念が無い。 闘病中、 しかも出産後の妻に何故そんな事が出来るのかが理解が出来ない。

 光生は彼女と婚約してからだったか、緩やかに痩せて行った。 顔色が優れず仕事だけは順調な様だがプライベートは彼女から与え られる病みと悦びが起因しておかしくなっていた。「 華といると釣られて食欲が無くなる」と彼は言った。
 彼ら二人の関係は夫婦と言うよりは崩れて歪み切った恋人に見えた 。だから余計に目に余ったのかも知れない。 子供が居る家で性暴力が在る。彼女の心を読むとして、 紙背に徹すれば彼女が犠牲になり光生の暴力性を吸い取っている事 になるのだろうが。
 
 夜中に彼女から電話が来、 声が地の果てから聴こえる様でぞわりとした。 この後死ぬ気ではないのか? 
 そう感じた。
 長く話した。
 迎えに行くと伝えた。華の居ない人生を、歩む積もりは無いと。
 彼女は「来世で。来世で一緒に」と答えた。

 
 転機は子供の保育園入園。 彼女を外界に連れ出す切っ掛けが訪れた。
 彼女の心臓の持病により、 優先的に入園出来た訳だが彼女は働きたいと言い出した。
 以前働いていた古美術店に連絡を取った所、 どんな流れなのか場所を貸してやるから占い師をやれば良いと言わ れたらしい。成る程、彼女には天職だ。
 光生には「パートに出るより稼いで来ると思うが」 と言っておいた。光生は最初渋っていたが、 動き回る仕事ではないと安心を見出した様だ。

 これが思わぬ人脈、利益を生んだ。華はただそこに居るだけ、 人の話を聴くだけなのだが顧客は彼女に入れ込んだ。 彼らは華に話を聴いて貰うと楽になる、 何故か上手く行かなかった事が動き出す等と言う。 彼女に触れられて泣き出す顧客を何人も見た。
 店主は「以前からこうだった、彼女が居ると人が来る。 物が売れる」と言う。更には、 こちらの彼女への慕情にも気付いていた。「 俺はあの子の笑顔だけが見られれば良い、 君が高校の時の恋人なんじゃないかね、何で結婚しなかったんだ」 と尋ねて来た。光生について話した。DVについても。「 早くどうにかしてやれ」との答え。 言われなくともその積もりだが。

 華と添えそうにないと思った時期から、中学時の後輩・ 奈々との交際を重ねていた。無論の事、 華にしか気持ちがないのだと最初に告げた。 何か有れば華を優先すると言っておいた。 奈々はそれでも良いから結婚したいと交際前から言っていたが、 結婚という事象に幻想を抱いているだけだろうと分かっていた。

 奈々が居ようが居まいが、 他の女と縁が有ればそちらとも一時的にだが接していた。奈々は「 どうせ浮気だから」と言っていた。確かに浮気でしかない為、 奈々に戻りはする。戻りたい場所は奈々ではないのだが。 それについても、奈々は了承していた。

 女を邪険に、或いは小馬鹿にしていると思われるだろうが、 実際に男からその様に扱われたい女達だけに接していた。 彼女らは一様に、その状況に染まる。 その状況に陥る自分自身に浸る。男と恋愛したいのではない。 そんなものは恋愛ではない。 自分は彼女らに自己満足感をもたらす餌になっただけだ。 社会的地位だの経済力だの、 付属品が充実している中身の無い人型に彼女らは、 何をそんなに懸命になるのか。自意識が過剰過ぎる。 彼女らは現実逃避をしたいだけだが、それに気付く事は無い。
 
 奈々も同じだ。良い所にお勤めの彼氏がいる・彼は高学歴である・ 良い車に乗っている・高級品しか買わない・ たかだか寿司屋で数万落とす・ 誕生日にブランド品を幾つも買ってくれる。だから何だ? こんな女と結婚したくない。そう思っていたが、 奈々はその浅薄さに気付いて恥じるだけの謙虚さは持ち合わせてい た。「華先輩はこうじゃないよね」と自ら比較する。当然だ。 比較対象にすらならない。
 奈々は詰まらぬ女だが、だからこそ共に居て楽ではあった。 考えている事が分かり易く、常識から逸脱する事も無い。

 奈々と過ごした期間は決して短くはない。その間、自由だった。 唯一、華と異なる点が有る。奈々は念が薄い。束縛が無い。
 華とは離れていても縛られ続ける。 その様にこちらが求めているからなのだが。

 華は暫くの間、古美術店の一隅で占い師をしていた。 顧客が膨らみ過ぎ、独立の話が出た。その際に「 たからと占いの館を作りたい」と言ってくれた。素の言葉、 狙いの無い言葉だった。

 彼女が占いを教えた弟子を含め、占いの館をオープンした。 彼女の希望で敢えて古いマンションを選んだ。 質実剛健な彼女らしかった。
 二人で居る時間も取れる様になったが、 彼女の言動は仕事上のパートナーに対するそれだった。


 魔が差したと表すれば月並みだが、 彼女の体調不良時に手を握られて自制が利かなくなった。 この時ばかりは自分でも何がどうなったのか未だに言い訳出来ない 。

 彼女はその最中、茫然を通り越した表情だった。普段、 囁きでしか話さない割に作った様なAVの見本の様な声を上げる。 演技なのか本気なのか判断が付かない。 腕や手が痛いと泣いていたが、 それが真実なのかも判断が付かなかった。 女が完全な絶頂の中に在ると威嚇する猫の様な声を出すが、 結局は人による。 華の場合は沈黙して微動だにしない事も有るので分からない。 この時は前者だった。つまり、 こいつは男に犯られて悦んでいるのだなと思った。

 終われば彼女は白けた風情だった。手が痛いとまた言い、 ティッシュを取れだの浴室に連れて行けだの命令し最後に「 たからは私が好きだから仕方がない」と言った。

 激しい悔恨に苛まれた。 後に彼女がその時に骨折していたと判った。
 遠い過去に彼女が「何故私は女なの」と言った事が有ったが、 では同性で在ればこの様な間違いも無かったのかも知れず…………
………間違い?彼女と触れ合う事は間違いなのだろうか。 そんな次元とは離れた所に二人で流れ着いているのではないのか。

 華に〝友達〟を止めようと告げた。この関係を。 彼女と繋がる糸を一切絶ち斬ってしまえばもう、 傷付ける事も無い。傷付けられる事も無い。 縛られる事も無くなる。

 仕事で日本を離れると告げた。もう会えなくなると。
 海外駐在の希望を会社へ出していた。 海外駐在要員として入社した訳ではないが、 考課により下半期の手を抜かなければ現地企業調査部への希望は通るだろう。

 営業成績が全国的に見てトップクラスである事は必要とされるが、 それはどういう事かと言えば顧客に手数料の高い商品をごり押しで売り捌き、営業記録(販売に至った経緯の記録) は事実に沿った形でなく半分以上作った記録になるという事。 押し売りに経緯等、無いに等しい。不正でも何でもない。 それが当たり前の世界だ。顧客はこちらへの好意や信頼性で買う。 それらを築き上げる事が手腕。商品に魅力は特に必要無い。

 顧客とアポが取れたなら商品を予め用意して行く。 本来はこの時点でのピッチの用意は禁止されている。 しかしそんなものは建前であり、新商品の売りは通常業務。 運用担当と融資担当が組んで仕事をする。 金を貸すのだから投資商品を買えと法人へ圧力を掛ける。 腐った業界だが、国自体が腐っているのだと自分は考えていた。

 華と居ると、これらの自分の常態が目につく。 彼女はここに至っても魂の高貴を保ち綺麗なままだが自分を含め周囲の人間、目に映る世界は只々汚らしい。
 彼女と離れるという事は美しいものから離れるという事、 自分も完全な汚物と化す事。 漠とした意識で何も思考せず何も感じず、死して生きる事になる。

 華はそれを感じ取ったのか泣きながら抱き付いて来た。「 行かないで」と。
 都合の良い返しだ。
 他の人間の考えている事は簡単に読めるのだが、 彼女に関しては全く読めない。 自分は心や魂といったものが揺さぶられる様な恋愛を求めていたのかも知れず、それが出来るのは彼女を除いて他には無い。
 光生から切り離す事は可能だと、この時の彼女の言動で判断した。
 
 奈々の妊娠、華の体調不良。
 続けざまに変化が有った。

 仕事中にトイレに立った華がなかなか戻らず、 テラコッタタイルと人の体、正確には人の骨だろうが、 それらがぶつかる鈍い音がした。
 トイレの床は血だらけだった。タイルの色が見えない程。 タイツと下着の下がった状態で彼女は倒れていた。 おそらく一度便座に座ったのだろうが血に驚いて立ち上がり、 それで意識を保てなくなったのだろう。便座も血みどろだった。
 子宮からの出血、採血の結果は極度の貧血と腫瘍マーカーの高さ。 当初の診断は筋腫と内膜症。しかし精密検査で癌と判明。
 
 この様な中で奈々との結婚が決まる。 意図して子供を設けようとは思っていなかった。 これでも奈々に対して可能な限り誠実で在ろうとは常にして来た。 気を遣ってもいた。誠実で在る……でなく、 誠実な振りをしようと努めて来た。取り敢えずは気を遣って。
 奈々は付き合い当初から「優秀な遺伝子が欲しい」「 先輩の学歴と経歴と顔と体が好きだから結婚したい」 と至極シンプルな要望を吐いていた。願いが叶って何より。

 冷めたまま結婚準備を進める中で、華には不倫関係を強いた。 彼女が身動き出来ない様に仕事場で先ず性行為に至らしめた。 弟子には学生時代からの因縁を涙ながらに伝え、協力を得ていた。
 光生と結婚していながら今こうなっているのは全てお前のせいだと 暗示を掛け続けた。こちらにも光生にも罪悪感を抱かせる。 思惑通りに支配したかった。暗示が効いていたかは分からない。 彼女は黙って従うだけだった。
 
 彼女の闘病を支えようと退職を視野に入れていた為、 仕事の手は抜いていた。形式的には午前8時に出社するが、 外回りの時間に華と会う。 若手のセールスに上司として同席せねばならない時もあるが、 勤務時間は幾らでも誤魔化せる。
 
 光生の居る家から、 どうにか出せないものだろうかと考えあぐねていた。 不倫には持ち込めたが離婚に迄、 どうしたら辿り着かせる事が出来ようか。
 
 神に逆らう様な事を続けざまに行っていた。 光生と華の寝室から夜に電話を掛けさせ、 通話の中で卑猥な言動をさせた。 更にはライブ動画を送信させてもいた。彼らの寝室、 夫婦のベッドを穢したいと考えていた。
 奈々との入籍を済ませた後、仕事中は指輪をしていた。 社会的信用の為だ。華と会う時は外していたが、 ある時ふと思い付き彼女の愛液で指輪全体を塗れさせた。 この婚姻は打ち消したかった。奈々と結婚したかったのではない。
 奈々との式では誓いを立てる事を放棄した。 ブライダルチャペルであり、 挙式専用の場であったので正式な司式とは認識出来なかった。
 披露宴では華に祝福をさせた。 彼女は讃美歌をアカペラで歌い上げた。彼女の祈りそのものの声。 上司はそれを聴いて思う処があったのだろう、 彼女が例の幼馴染みだとは伝えていなかったのだが、 数日経ってからお前の想い人はあの子なんだなと耳打ちして来た。
 式の前日も翌日も華に会っていた。 時間が無く車の中で抱いても彼女は何も言わず身を固くしていた。
 

 華の体調は悪化して行く一方だった。 車に乗せている時に不正出血、或いは腹部に痛みが出、 便や尿の漏れ等が起きる。ボルタレン(鎮痛剤) を2シート程纏めて飲み、 自宅トイレ内で眠り込んでいる所を救急車で運ばれる。 胃洗浄はされず終いだったが、彼女は「痛かったから飲んだ」 と言う。担当医師は薬の過剰摂取、 更には彼女の既往歴から自殺未遂と取っていた。

 そして境の日は訪れた。
 
 夜中に彼女からのLINE、『助けて』と。この、 直接的な彼女からの望みをどれ程、 どれ程の長い間待ち続けただろうか。

 華は歩く事が難儀なレベルだった。 膣口からだけでなく子宮口からの出血。光生は非常識な異物を、 否、非道な異物を彼女に挿入しようとしたらしい。
 それを聞いた直後には殺してやると考えたが、 華が手を繋いで来た事であっさりと衝動に駆られた思いは鎮まった 。
 病院に行き縫合の処置をし、診断書を取った。
 新婚だが華との関係を知っていた奈々とは別居の状態にあった。 華を自宅に連れ帰り、共に眠った。
 腕の中に居る彼女の表情、肢体、 声も仕草も目の前から消えた高校の時と全く一分足りとも変わっていなかった。
 彼女が居ない期間は、 彼女と過ごした中学高校時代が幻だったかに思えたものだが、 今は彼女の居なかった長い時間こそが、 長い悪夢だったかに見える。 あの十六の頃に舞い戻った様な気がした。 もう何処にも逃さぬ様に、せねばならない。
 

 翌朝、光生と話し合いを持った。
 光生は抑揚無く合理的に話を進めた。 彼が意識して怒りを抑える場面も有った。 華といつから関係が有ったのかと尋ねられ、 こちらが茶を濁した時だ。 それを正直に話して何になるのだろうか。話す必要が無い事迄、 話したくはない。彼も不毛な問いであると途中で気付いていた。 理知有る男なのだろうかと疑問は残ったが。
 最終的にこちらからの慰謝料は取らないという結論だった。 光生に対し華がされた事に関しての被害届を出すと言ったからだ。

 問題は娘、紅子について。
 華からは衝撃的な真実を知らされていた。
 あの日、あの雪の夕方から過ごした夜に「降りて来た子だ、 あなたの子だ」という言い方をされた。 彼女はこちらが納得するだけの証拠を握っていた。 郵送で済むDNA鑑定の結果を持っていた。 対照として光生の検体も調べていた。 子の生物学的父親は紛れも無く自分だった。

 それを聞いて以降、改めて鑑定を行った。 民事裁判で使用する為だ。当時、 情交関係の有った間接事実を客観的にも証明は出来る。何故なら、 その時のフィルムや音声が有るからだ。

 光生は事実を知っても自分よりは驚いていなかった。 華の妊娠以前は精神的な不安定さに彩られており、 紅子が華の元恋人(医師)の子だと疑った事もあると言う。「 聖の子とは思わなかったけど別に不思議ではないよ」と答えた。 彼は内心では嫌悪を抱いたと思うが、顔には出さない。

 光生の実家の反応が疑問だった。 華との離婚については積極的に後押しする割に、 子供は渡さないと主張していた。事実関係を整理し紅子の親権( 財産管理権・身上監護権)を華が取れる様、弁護士に依頼した。
 光生の両親は紅子を誘拐しかねない程、感情的になっていた。 話し合いに成らなかった。

 多くの事柄が縺れながら蠢いて行く。
 華は手術を渋っていた。手術しても完治する可能性は低い。 この時点でステージIIIb、骨盤壁に癌が浸潤している状態。 やがて肺への遠隔転移が見つかり、ステージIIII(末期) の診断だった。カルテは子宮頸癌から多発性癌と変わっていた。 5年生存率20%、 癌としては比較的高い数字だが華の場合は心臓に持病が有る為、 5年生存率は16%と言われていた。緩和ケアに切り替えた場合、 後は死を待つのみ。

 既に下腹部や腰に激痛が有り、彼女はオピオイドフェンタニルテープ)を使用していた。 モルヒネの貼り薬版と言える。 彼女の隣で映画を観ている様だった。 これから日を追って彼女は死に向かって行くのだと思い、 それを看取る覚悟も無いままだった。 運命というフィルムがカラカラと乾いた音で回り行く様な、 それを止める手段も見つからないまま。

 彼女は癌だという事を認めていないかに見えた。オペなら日本で、 放射線治療ならアメリカでと考えていた。費用等、 幾らかかっても良い。彼女は笑いながら「 アメリカには行きたくない」「たからがいてくれて嬉しい。 ありがとう」と言う。彼女は猫の様に、 こちらの手に頬を擦り付ける。「たからが好きで堪らない。 昔から。本当はね。ありがとう。大好きだよ」と繰り返した。 それは本心なのだろうが、 死ぬ事を軽く見せるかの様な気休めを唱えないでくれと言った。 彼女から湧いて出て来る愛情の言葉は、 喜びをもたらすよりも苦しみを感じさせた。 彼女に優しく首を締められている様に感じた。

 両親は信仰に則り、最初は奈々との離婚を認めなかった。 奈々が妊娠していた為もある。
 華に対しては両親共に心配を続けていた。 詳細は知らせていないが、彼女のDID(乖離性同一性障害) や癌についても話していた。奈々との式で華が讃美歌を歌うと、 両親は言葉にならない様子で涙を流していた。

 彼らは華への対応を誤ったと考えていた。 虐待を立証すべきだったという事、 そして彼らが自分本位の接し方をしたのではないかという悔い。 華にしてみれば心身の被害状況を根掘り葉掘り暴かれるのは二重三 重に傷付けられる事に相当したであろうし、 結局は人が人を救おうとする時に自己満足感を生じさせない事は不 可能に近い。父も母も華を娘にしたかっただけなのだろう。
 実家に華を連れて行き、奈々とは離婚の算段がついている事、 自分は華と再婚しなければならない事を伝えた。 華はこの人生の全てだ、と。
 父は何も言わなかった。それは詰まり了承したという事になる。 母は泣きながら華に「あなたは私の娘」と伝えていた。 華も泣いていた。


 季節は容赦なく移り変わる。華の病状は、 まるで原色の布が色落ちするかの様に悪化の一途を辿っていた。

 十二月二日、奈々との子供が生まれた。命名をしたのは華である。 奈々が彼女から名付けされる事を望んだ。
 十二月四日、華の亡き実父の命日に司式。 両親が懇意にしている教会にて。三十六になっていた。 彼女の消えた冬、あれから二十年が経つ。 事情を知る司祭は我々を〔この二人は事実上の初婚である〕 としていた。
 
 十二月十二日。華は手術を受けた、そして心停止した。


 
 時は…………

時は止まるのだと十六の時に知った筈だが、 今度こそ本当に留めを刺して行った。
 
 涙は出るが無感覚だった。紅子を保育園に迎えに行き、 そのまま空港へと向かう。
 手術前から華とは計画しており、 光生の実家が手を出せない様に海外で暫く紅子と過ごして欲しいと 希望されていた。華は紅子が自分と二人だけで入国出来る様にと、 英語で委任状を作成していた。日本を離れた風景の中で、母を、 華を亡くした痛みを和らげて欲しいと。 紅子だけでなく自分も華が居なければ日本どころか、 もうどこにも存在したくないのだ。

 小雪が舞っている。 こんな時でなければ綺麗だと感じたかも知れない。 華の事しか考えられない。 
 紅子には何も伝えられなかった。だが、既に理解していた。 泣くが、気丈に映画に集中しようとしている。 こちらの手をしっかりと握って来る。 これが六歳の子供の精神だろうか。何と強い子だろうか。
 仁川へ二時間程。そこから出張で土地勘の有るフランスへ。 フランス語は英語と同程度に話せる為、不自由はない。 十数時間のフライト。


 その間、実に不可思議な事が起きた。
 華の霊が傍に在ると感じた。
 くっきりと感じる。膝の上に彼女は載っている。 紅子の頭や頬を撫で、こちらを覗き込む。一瞬、 とうとう自分の神経が飛んだかと思ったものだ。 幻を視たければ脳は観せてくれるのだろうから。
 匂い迄する。華の匂いが。
 言葉は交わせないが、表情すら視える。 微かに声も聴こえる様だが、何と言っているかは判然としない。
 幻覚でも良い。幻聴でも良い。傍に居て欲しい。

 十二月十五日。 
 光生が自殺したとの連絡。
 正確には未遂、首を吊り意識不明。ICUに入院したと。
 そして華は、危篤から回復した。

 十二月二十八日。
 彼女が一度消えた日から二十年。今は、共に在った。 病院の高層階から望む雪は、圧倒的に純白。 華との間に降り積もった時間を思う。
 長かった。ただただ長かった。

 
 光生は何もかも失った事になる。
 彼の価値観では華に対するDVはDVでなく愛情表現、 最愛の妻を親友に寝取られた形。 子供は彼の子であると長年騙されていた。守るべき者は無い。
 光生への感情は今も複雑である。 とても友人だとは思えないのだが、決して嫌いではない。 自分は高校の時に彼を利用し、彼もまた積極的にそれに乗った。 こちらの思惑を計りながら。彼は華を当時から愛していた。 歪みながら。
 
 華は光生を選んだ時、彼の純度を知っていたのだろう。
 華を喪い、 迷い無く死を選んだ光生を敬うのは間違いであるかも知れない。 しかし敬うという言葉以外が見つからない。

 この二年は光生に憎しみを抱いていた。慰謝料は渡した、 彼の介護も形ばかりだがしていた。首吊りの後遺症は重く、 四肢の麻痺と言語障害が続いた。現在は歩行と車の運転が可能、 SEに転向し仕事もしているが、発語は殆ど出来ない。但し彼は、 華には呼び掛けを行う。彼と彼女が結婚していた時、 彼が彼女に与えた本名とは異なる呼び名を。

 麻痺の残る彼の前でこれ見よがしに華を抱いたりもしたが、 あまり愉しめなかった。彼女は泣くだけであったし、 光生は大して動じていなかった。

 光生が常に付近に居る暮らし。 一時はやや離れた場所で生活させたが、彼は華に会いに来る。 彼女が光生に会いに行っていた時もある。特に光生の退院後、 彼女自身も介助が必要でありながら光生を気にして家を抜け出した 。
 現在、光生は同マンション内に部屋を購入した。


 華しか見ていないこの生涯だが、 二人を引き離したのは自分なのかも知れず。 この二人こそが真実に共に在るべきだったのかも知れず。
 彼女が隣に居て眠りに落ちる毎日の一瞬に、 そんな翳りが落ちる事も有る。

 華は日々寝ついている。ベッドから離れない。 外に出るのは主に通院時のみ。歩く事すら殆ど無い。 癌はオペ後の放射線治療寛解したが、 今度は癌治療に耐え切れなくなった心臓に不備が出た。 しかし神に召される事無く、ここに今も眠っている。 国内であれば旅行にも出掛けられる。恵まれている。

 この先は不動産投資で食おうかと思っていた矢先、 父の会社の経営に望まれて加わった。これも親孝行と捉えている。
 全てが華中心。紅子すら母を優先する。
 
 華は病床に在って聖書を学び洗礼を受け、 以降は縁有る人々の相談役をしている。相当な無理をしている。 貧血であろうが息が切れようが人に会おうと努める。
 植物が、或いは形を持たぬ光が人間の振りをしている様に見える。 彼女の霊性霊格に惹かれて止まない。

 自分は彼女の庇護者で在りたいと願う。 この世に彼女を留めさせる噐で在りたい。 華を仕舞う筐と成り得たい。

 この先は華の筐体として、相応しい自分でなければならない。
 

 

 


 
 
 

 
 
 
 
 

 

 

 
 
 
 <以下編集前>

 雪の残る四月だった。
 雪景色の中に桜の固い蕾。灰色の雲の隙間から仄かに陽が零れる。 
 未だ制服の上に黒のダッフルコートを着、通学していた。

 中学ニ年に進級したばかり、席順は名簿で割り当てられた。隣の席の女子はこの寒さの中でコートを羽織らずに学校に来ていた。
 下駄箱や廊下で会えば「冨岡君。おはよう」言う。自分に限らず、必ず人の名を呼び掛ける。
 顔色はいつも悪く、蒼白だった。制服から覗く手首、首筋は画用紙の如く真白い。よく梳かしてはあるが、結んでいない長い黒髪。 体つきは繰り人形の様だ。頼り無く細い。棒に似た真っ直ぐな脚。
 心臓に持病があるらしく、体育は毎回見学していた。保健室へ行く頻度が多い。

 彼女の名は入江華。ニ年に進級したばかりの際は姓が佐藤だった。 それが一週間経たずに入江姓に変更。家庭に何らかの問題が有る事は、見ていれば直ぐ分かる。食事を与えられていないのではないかと疑っていた。担任は何の疑問も持たないのだろうか。持っても面倒事を避けていたのであろうが。

 話すきっかけは割合早く訪れた。彼女がペンを貸してくれた事を皮切りに、様々な事を話した。
 彼女は思いがけず数多くの本を読んでいた。初めて同い年の人間と話が合った。アングラな知識は彼女の方が詳しかった。 旧日本軍細菌部隊の話、ナチの悪魔的医師の話等穢らわしいが知り得ない事は罪と思える話をしていた。

 名前で呼び合う仲になる迄、時間はかからなかった。
 「聖書の聖の字で、〝たから”と読むのは尊い想いが籠もっている ね」と彼女は言った。未だ伝えていなかったが、家はクリスチャンホームだった。
 男友達に混じって家に遊びに来る迄にも、時を要さなかった。
 彼らは華に丁重に接していた。病弱で誰が見ても守らねばならない容姿、そして優しい受け応えを崩さぬ彼女。ある面では非常に大人びていたが小さな子供めいた仕種、たどたどしい話し方をした。しかし話す内容は機知に富む。まるで老成した人の様にも思われた 。適当な言動は彼女の前では許されないという重さを感じた。
 そして彼女の声はいつ聞いても美しかった。彼女に似た声を後にも先にも知らない。声に率直な表情が潜んでいる。魂から発していると分かる、透明な声。彼女が口を開くと誰もが耳をそば立てた。

 家の母親は、聡明で品の良い彼女を直ぐに気に入った。彼女は敬語を滑らかに遣って話した。大人と話す事に慣れている風情だった。
 やがて父にも会う様になり、両親は彼女が家に来る事に慣れた。彼女は自然な形で我が家に馴染み、穏やかに迎えられた。

 華の言動は良くも悪くも普通とは異なっている。
 ある時彼女は道路で轢かれ息絶えた猫を抱き上げ、墓を作った。制服が血だらけになるのを厭わなかった。
 初めて泣いているところを見た。白い頬が鮮やかな朱色に染まり、涙で潤った目は赤く縁取りがされたかの様だった。綺麗だった。不謹慎だが彼女の泣き顔をずっと見ていたかった。彼女は墓を作り、祈っている。その姿と家にある聖女の御絵が重なる。

 そして彼女は理由も無く、時に自傷行為をした。理由は有ったのだ ろうが、何故そんな事をしているのか分からなかった。白い手首にコンパスの針を突き刺さす、しかも前触れが一切無い。人前ではしない。二人きりの時に目を離した一瞬。或いは爪をニの腕がびっしりと紫色の痣に変わる迄、何度も何度も食い込ませていた。直前には談笑していただけであったり、お互いの了承の下でお互いの体に触れていたりした。彼女の手の甲の肌を指先で愛撫し、軽く口づける程度。

 触られるのが嫌なのかと思いもしたが、彼女は「触って」と言う。 「もっと触って」「ちゃんと見て」「愛して」。……未だ交際する、しないの話すらしていなかった。だから唇へのキスはしなかった。出来なかった。触れても我を忘れない箇所だけに触れた。
 細く真っ直ぐな両脚。だが彼女の膝から上は触れない。触って、とは言うが腿の付近は身を捩って嫌がった。その様子を可愛らしいと感じ、もっと見たかったが制した。形の良い指、思わず口に含んでしまうが唾液に塗れさせてはならないと思う。唇だけで食むに留める。折れそうな腰を両手の掌で包んでみる。抱き締めてみたいが未だ出来ない。胸や臀部には触れない。彼女の唇をなぞる。その奥に指を挿れたい。あからさまに性的な事に思える。だから出来ない。

 彼女はこちらを隈無く触る。性器に触れたがる。制服の上から触って良いか尋ねられる。やんわりと彼女の手を握り、避けていたが避け切る事をしなくなって行った。小柄な彼女が膝の上に載って来る 。後ろから抱き付いて来る。彼女のしなやかな両の腕が首に巻き付く。彼女はゆっくりと指を絡めて手を繋ぐ。その全てが淫らでいやらしい。
 そっと吐息と共に彼女が紡ぐ声に、ぞわりと首筋から耳にかけてが素早く粟立つ。明らかに彼女は女という生き物であるらしい。視線が誘い掛けて動く。視線が囚われていく。

 いつも穏やかである彼女、それは菩薩か聖母かと思われる様子。だが彼女は不意に瓦解する事があった。
 自傷もそうであったし、突として茫然と立ち尽くして居り問い掛けにも応えない。こちらも見ようとしない。 目は開けているが瞬きを殆どしない。視点は一定だった。壊れた機械仕掛けの人形であるかに見えた。
 とにかく彼女は「変」な存在であり、人間に思えないのだ。決して美人ではないのだが、心の透明度が滲み出している為か妖精か何かにも見えた。

 ある時、彼女の腿に大きな傷が有るのを見てしまった。彼女は人のベッドである事を気にせず、よく眠りに落ちた。気を失う様に眠っていた。眠い、眠いと言っている間も無く眠ってしまう。毛布を掛けてやろうとした時彼女が大きく寝返りを打った、制服のスカートが捲れ新雪の肌が露わになる。目に飛び込んで来たのは明らかに鋭い物、刃物で抉られた傷。そして広範囲な火傷。
 ぞわぞわと首筋に寒気を覚えた。何だ、この傷は。悪意を持った者が彼女にこの傷をつけた。彼女はこの傷を、過去に確かに受けたの だ。今、直ぐに全ての衣類を彼女から奪って他に傷が無いか確かめたくなった。それでどうするのか、その先を考えてはいなかった。
 実際にした事は、毛布で彼女をくるみ込み抱き締める事だった。長い黒髪に顔を埋めると、清潔な匂いと甘ったるい花の香りに似た彼女の体臭がした。ここにどうやら生きているらしい彼女の低い体温 、蒼白な額のすべらかさ。彼女の香りを深く嗅ぎ取る。ゆっくりと自分の頬に涙が伝うのを感じた。

 

 恐ろしい事が分かって行った。
 彼女のブラウスの釦を一つ一つ外して行く。肋骨が浮き上がっている。スカートのホルダーを外す。骨盤の辺り、両側に切り傷。 傷跡の大きさから、深く傷口が開いたであろう事が知れる。驚き、傷に触れた。怒りが来る迄に放心状態になった。 また涙が一人でに流れる、彼女は「 どうして斬られたのか理由は分からない」「小学生の時。五年の時 」「学校は長く休んだ」「春だった。けれど何日も炬燵で眠って治した」「病院なんて行ってない。行けない」「高い熱が出た」「 痛くはなかった」「痛みは大き過ぎると分からなくなるんだよ」「痛みは意識を忘れさせる、そうしたら体から意識が飛んで気持ち良くなるの」淡々と話した。表情の無い白い顔で。


 彼女は市営住宅に住み、義理の父親の隣の家にいた。姉と二人暮らしをしていた。母親は山手の旅館で住み込み仕事をしているらしく 、帰って来ないらしい。姉は四歳歳上、彼氏の家に泊まっていると 言った。彼女は夜間、家に居るのが怖いので時々公園で寝ると話した。家に居てもカッターや小刀を両手に持って仮眠するのだと。
 遠い世界の別の国の話に思える程だった。何より不気味に思えたのは、彼女が他人事の如く軽い口調で何の感慨も無く話す様子だ。耳を傾ける内に如何ともし難い感情が沸き上がり、彼女の名を呼んで泣いた。が、幾ら「華」と呼び掛けても彼女は自分の名を呼ばれていないかの様な反応だった。つまりは無反応だった。


 生理が長く止まっていた、と言っていた彼女がベッドのシーツが染まる位の出血をしたのが、ある土曜の夕方。
 普段蒼白な顔色は白でもなくベージュに見えた。見て直ぐにひどい顔色だと感じた。
 熱も有った。家の母親は病院に連れて行くと言ったが、彼女は泣いて拒絶した。体に傷が有る事を知られたくないのだ。
 父が夜、帰宅したら車で送って行くと母は言い彼女の自宅に電話した。義理の父親の家の番号だ。何度掛けても繋がらない。母は彼女のただならぬ様子を見、虐待の気配を感じていた。
 帰宅した父は、彼女が眠る二階の客室で彼女と二人きりで話をしたらしい。何を話したか父は言わなかった。「体調が戻る迄、家で休ませよう」と父は言った。


 それが長きに亘る事になった。彼女は家で寝起きし、食事をし徐々に両親は離れて暮らしていた娘が再び現れたかの様な接し方をし始めたのだ。
 彼女の自然な、しかし礼儀正しい振る舞い。聖書を読み家の手伝いをし、よく勉強する穏やかで優しい子供。両親は元々娘をも欲しがっていたが恵まれなかった。彼女は理想的だったのだろう。
 彼女自身に、この家に住める様にしようとする思惑は働いていなか った。彼女の名誉の為に記したい。 彼女にそんな計算が働く訳が無い。何故なら、彼女は身の上を不幸と捉えていなかった。そんな概念がそもそも無いらしかった。動物か赤ん坊の無垢、無邪気を失わずにいた。 学校での彼女の成績は、自分に次いで上位に在ったが、もしかすると彼女には脳に軽度の障害が有るのかも知れないと思った位だった 。

 担任でなく学年主任、そして家の両親の訴えにより児童相談所並びに市役所の担当者が華に被虐待の言質を取ろうとした。彼女は決して首を縦に振らず一言も発しない。彼女と共に「彼氏」として同席していたので間違いない。
 結局、虐待の立証は出来ず自治体の怠惰が目立ち彼女は我が家に泊まり続けた。両親は彼女の保護者に何度も会おうとしたが、会えた試しが無かった。

 

 夜間、彼女は二階の客室で眠っていた。ニ間ある客室の内、一室を彼女の部屋とした。
 両親、特に母は彼女の為に家具を購入し衣類を揃え猫可愛がりした 。新しい着せ替え人形を手にしたかの様に。
 布地を買い、彼女の為に服を仕立てる。彼女はこの家で姫の様に扱われた。父も例外でなく彼女を街に連れ出し、彼女に合った革靴を誂えさせた。

 誕生日を迎えた翌月。12月。クリスマス間近。
 待降節に入ってから、彼女は毎日祈りを捧げていた。幼児洗礼を受けた自分より、余程クリスチャンらしく見える。
 日曜には両親に連れて行って欲しいと願い、彼女は制服姿で教会へ通っていた。対して自分は宗旨に疑問を抱いていた為、行かずにいた。
 例えば華の育った環境一つ見るに、神の試練で片付けるには余りにも酷なものがある。

 彼女は……、時々おかしな要求や提案をした。
 首を絞めて欲しいと言われ、最初は断った。
彼女は悲しげな顔付きになり「じゃああなたの首を絞めたい」と言った。
 彼女の言う通りに、小刻みな呼吸を繰り返しベッドに立つ。身長差を埋めるべく彼女はデスクの椅子に立っており、細い腕をこちらの首へと伸ばす。彼女の冷んやりとした手が、強く、しかし優しく圧迫を加えて行く、
 不意に落とされる。意識を。それは恍惚だった。彼女に与えられる歓び、彼女に命を委ねる一種の気楽さ。心地の良さ。どこかを浮遊する感覚の圧倒される様な美しさ。

 その日、夕暮れ時に二人で部屋で勉強していた。こちらは既に赤本 を購入し解いている状態。塾は彼女と過ごす時間を重視し、とっくに辞めていた。定期テストは満点以外取った事が無かった。 田舎の公立中学の問題は、何の捻りも無く教科書を読めば解ける問題ばかりだ。
 彼女は数学だけが苦手だったが、急に解けないと泣き出す割に別日には難問を解く姿が見られた。彼女の成績は学年で十以内には入っていたが、学習面にも波が有ると感じた。テスト前だけ勉強している印象だった。

 

 窓の外は音も無く雪が降っていた。この降りなら積もるだろう…… 彼女は今夜も家に泊まって行くだろう。父の帰宅は深夜、母は教会のボランティアで十九時頃に帰って来る。夕食にシチューが有った 。彼女の為に温めよう。食の細い彼女はサラダなら食べるだろうか 。茹で卵は食べられるだろうか。卵は栄養があるから食べて貰いたい。この過剰に細い体を何とか標準に出来ないものだろうか。パン にガーリックバターを塗って食べさせよう。
 未だ夕方だというのに、雪国の真冬の空は群青の色で塗り潰されて いた。カーテンを閉めるか否か迷い、卓上のランプを点けた。橙色の光に部屋は包まれる。

 教科書を丁寧に捲る彼女の指先を見ていた。まったく見飽きない程に透明度に優れた白い肌だ。肌理の細かさを観察する。
 と、彼女はコップに入ったオレンジジュースを制服の膝に落としてしまった。オレンジの粒の入ったフレッシュ ジュース、紺色のスカートの襞が託し上げられた。真白い腿、傷痕。視界に斜がかかり一瞬の眩暈を覚えた。
 洗面室からタオルを二枚持って来、彼女の膝を拭いた。不意に彼女はこちらの手を取った。冷んやりとした滑らかな手だった。
 彼女の手を握り込んだ。彼女は引き込む様にこちらの唇に唇を付けて来た。幾度か軽く口づける仕種をし、溶ける様に生温く小さい舌で歯の一つ一つを、それからこちらの舌を愛撫した。舌は痛い程に吸われた。彼女の華奢な首、喉がキスで生じた唾液を飲み下す動きをしたのを見、急激に愛おしさが込み上げた。こちらも彼女の口内に溢れるものを飲んでみたく、舌でまさぐる。人の唾液等に興味は無かった、彼女だから欲しいと思った。すっと儚く消える微かな甘み、その味を確かめたくて堪らない。何度も何度も長い時間、唇だけで睦み合っていた。
 暫くの後、今度は彼女の首筋に口づけた。血管の薄く透けた肌、髪の香りが強く漂う。安らぎを感じる甘い匂いだった。
 彼女は自ら制服を脱いで行く、リボンを取りブラウスの釦をもどかしく外す、そうしてからこちらの服に手を伸ばした。
 本当に今日、今、これを二人でしてしまうのか迷った。怖れを感じた。行為自体にではない。その先だ。関係性が変わるのではないか ?それは互いにとって、良きものなのだろうか。こうした行いは彼女を穢す事になりはしないだろうか。
 彼女は思考を遮ろうとするかの如く、下着の上から頬を埋めて来た 。一気に何もかもどうでも良くなる。流れに任せよう。 彼女に任せよう。

 彼女のした事は感覚として忘れられない。長い長い時間、彼女の指先と舌で全身を隈無く優しく舐められていた。よもや自分がこの様な我慢の利かない限界を見ようとは想像だにしていなかった。
 壊さぬ様に慎重を期してゆっくりと彼女の裡側に指を挿れていく。 指の数を時間をかけて増やす。彼女の声や表情が変わる度、頸から頭頂に抜ける様な震えが走る。それは果たして震えであっただろうか。快い悪寒、快い吐き気とでも表すしか無い奇妙な衝動。 これ程、彼女に影響している今のこの自分。幸福だった。
 体の繋がった最初の感覚は忘れる事は無い。今でさえ繋がる度に、否、繋がるのみで意識が一旦停電するかの様な感覚に陥る。一瞬の静寂、一瞬の快感に堕ちる。後は昇るだけだ。彼女は天使なのかも知れない。彼女と居ると天空が視える。


 受験生の夏休みは蕩ける様に過ぎ去って行った。時間が過ぎる傍から溶けていく。
 彼女と居る時間。時計は奇妙に歪んで動いている。

 夕方。
 それ迄、そんな事は無かった筈なのだが強烈に眠くなり眠ってしまう。彼女がベッドに共に居る。どちらからともなく目覚め、どちらからともなく求め出す。夏の夕暮れは未だ明るい、二重の遮光カー テンを閉めるとまるで室内は夜になる。エアコンの吐き出す冷風を避け、厚い毛布を掛ける。彼女は羽根布団を嫌い、 重い毛布を好んだ。「軽い肌触りは嫌、重みに包まれていたい」 と言った。ランプを灯し、時には明かりの無い仄暗い部屋で抱き合う。彼女の希望通りに強く抱き締める。小さく華奢な体をすっぽりと覆う。
 腕の中で頼りの無い彼女の肩の骨が軋む。関節等、簡単に外れるのだろうなと思う。ニの腕の細さ。正しく折れそうな。
 こんな体で彼女は生きている。低い体温も花に似た体臭も声も吐息も髪の柔らかさも肌の滑らかさも、何もかもが愛おしい。
 時間が止まれば良い。今を冷凍してしまいたい。世界が今、滅びれば良い。彼女とだけ居たい。この閉じた場所で。

 

〔この時期の彼女は完璧だった。何を以て完璧と表すか実は分からないのだが兎も角、完璧だった。本来は現在の彼女こそが完璧なの だろうが。妻としての彼女は、〝あなたは当時の不安定な欠けの目立つ少女に永久に恋をしているのでしょう“と言う。 そうかも知れない。あれは少女という生易しい存在では無かった。 今、自分は妖精と結婚したと考えている。言葉は美しいがヨーロッパで大々的に話せば〝お気の毒に”と言われるに違いない。〕


 出逢った四月とは打って変わり、春めいた麗らかな日。
 高校に入学。彼女と過ごす時間のみが真に生きた時間であり、受験は片手間どころか半睡の中だった。 
 首席と言われようが、あくまでもこの地方での話。最高学府への進学率は低く、合格者の無い年も有る。馬鹿が多いという事。 意識が低いという事。優れた指導者がいないという事。入学時から教師に理IIIを目指して欲しいと言われ辟易する。医者になりたい訳ではない。人の将来を勝手に決めるなと言いたい。
 華は普通科に入ったが、周囲に馴染めない様子だった。当たり前だ 。成績優先の価値観の狭さを持つ烏合の衆に馴染む筈が無い。中学でも彼女は浮いていた。友達を作れないだとか判り易い理由ではない。寧ろ人には慕われていた。毛色が大きく違うのだ。 
 こちらは新たに友人が出来た。理数科に入る人間は思考回路が似通っている。ドライな者が多く付き合う上では非常に楽だ。

 その内の一人、女のような名の光生は「ミキちゃんって呼んで、出来杉君」と話し掛けて来た。戯けた口振りだが目に熱は無い。いつも脱力している。
 彼女はいるのかと尋ねられた。普通科にいる、中学の時から付き合っていると特に隠し立てする理由は無いので話した。 光生は軽く頷きながら聞いていた。
 彼は彼で、かなり歳上の既婚者の塾講師と〝恋愛〟していた。「ショタコンなんだよ」と彼は興味無さげに呟いた。未成年者、しかも職場の塾生に結婚していながら手を出す女がまともな訳は無い。 ブレザーの下にベストでなく薄いセーターを着、日焼けの痕跡の無 い手の甲を袖で隠し、睫毛の長い大きな目をした光生は繊細を絵に描いた少年に見えた。

 

 放課後に華は廊下で待っていた。理数科はほぼ男の園であり、そんな場所に短いスカートで来るものではない。彼女の発している空気は明らかに異性、どころか異質であった。夏服に変わると周囲の視線はあからさまだった。会う同級生、先輩のみならず教師に舐める様に眺められていたが彼女は全く気にしていなかった。ブラウスから下着が透けている為、中にキャミソールを着させた。 スカートを膝丈にしろと言ったが彼女は聞き入れなかった。
 彼女の振り撒いている雰囲気は明らかに処女ではありませんと言ったものであり、腿の傷が見えないギリギリの位置まで肌を曝してた 。 
 彼女の体軀の細さ、輪郭がはっきりしない位の白さ、長い髪を耳に掛ける仕種、何もかもが異性であるのだとアピールしている。他の男が彼女を見るのに嫌悪感を持った。歩きながら話しながら何気無く髪を纏める彼女を遠巻きに見る飢えた動物が、そこら中に点在している。
 昨晩、一口で含んだ彼女の柔らかな耳朶。見せたくない。彼女を見られたくない。視線のみで穢される事に、彼女は気付かないのだろうか。
 貴重な笑い声等、こんな場所で上げないで欲しい。彼女の声を誰にも聞かせたくない。特に高い声は聞かせたくない。彼女の声の高低は激しく、小声の低い囁きにも鳥肌が立つが泣き声や笑い声、歌声は時に喘ぎに似ていた。だから誰にも聞かせたくなかった。
 そして匂い。ひどく香る、女の匂い。無能で鈍感な雄という種が、 唯一感じる匂いだろう。

 

 光生は彼女に興味を抱いた様子だった。気軽に話し掛けていたが、彼女はやはり気にしていなかった。
 「中学の後輩も先輩もクラスの女子も学年の女子も可愛いランキングNo.3まで食った」と宣う光生が悪目立ちしている華に気付かぬ筈は無い。彼の目にどう映るのか尋ねたところ「やった事が無い女はレーティング出来ない」との返答。

 光生如きを適当にあしらっていた華は華で、どんどん心身のバラン スを崩しているかに見えた。家と外で服装や仕種や言葉が変わる。 家ではどこの良家の娘かと思われるが、外に出れば彼女の姉の服を纏い化粧をし、元は童顔なのだが二十歳程度には見えた。 美しい声で悪態を吐き、小学生の頃の友達だという女子に会いに行っていた。その友人は既に高校を入学一ヶ月で中退し、歳を誤魔化しキャバクラ勤務との事。

 彼女が彼女であると感じるのは二人きりでいる時のみ。彼女がバイトを始めると言った時にも反対はしたが、彼女は「お父さんとお母 さんにお金を返したい」と言った。やはり世話になっている状況が嫌なのだろう。
 二人で部屋にいる夜だけが安息地。どうすれば彼女は留まり続けてくれるのだろうか。彼女の心が読めない。
 自信が持てなくなっていた。愛する事の自信でなく愛される事の自信だ。
 それ迄、愛される事に自信等は必要無かった。在るがままで良かった。父も母も過剰に愛情を以て接してくれた。
 光生に愛の受動態について意見を聞くのも憚られる。彼はそんな事を改めて考えやしない。光生以外によく話をしていた、栗野という聡明な友人に尋ねてみた。
 愛される事の自信喪失は、何が原因か。栗野は以下の様に答えた。
 :生育歴に問題が無いのなら一時的な現象。受動に自信が無いなら能動にも自信が無い。つまり愛するに自信が無い事が原因。愛する とはそもそも如何なる行為を示す?自己犠牲を愛と考えるなら犠牲を払えば良い。払った瞬間に愛されたと実感出来る。個人的には死 を以って愛情を示すという形は元の木阿弥だと考える:
 尤もだと思った。彼女に対して自己犠牲感が足りないのだろう。だが犠牲を払う行為はこちらの勝手な都合。それで愛し愛された実感を抱くなら、それは只の妄想ではないのか。愛とはそれ程に単純なものだろうか。

 

 華に対し、あれやこれや世話を焼くと煩わしい表情をされる。その表情すら可愛らしいと思うが、彼女はその感情の波を感じ取り更に煩いと思っている様子。以前は違った。困惑した表情。 或いは無表情であり、彼女の無表情は言うなれば透明なのだ。好意を受け取らず通過させる感覚と言えば良いだろうか。その好意はどこに行くかと言えば、恰も彼女を通して神に届く様なのだった。
 華が二人、否、三人も四人も居る印象を持った。純粋な彼女、苛立ちを持つ彼女、人形か機械仕掛けに思える彼女。そして誰なのか分からない全く別人の女。
 顕著なのは抱き合っている時間だった。攻撃的な時、従順な時の落差が大きい。心臓に持病が有るのだから、激しい動きは彼女には出来ない。しかし限界を無視した所作をする。こちらに背を向けて跨り自身が達する迄動く訳だが、それはセックスとは言えまい。 こちらの体を使った自慰と言える。何故、顔を見せないのか。 彼女は、果たして彼女の表情をしていたのだろうか。
 倒れ込んで来た時の彼女の心拍。薄い肌から伝わる早鐘。恐ろしい程だった。心臓が破れて出て来るのでないかと思える。ゼエゼエ、でなくヒュウヒュウという壊れた呼吸音の後、彼女が気を失っているのに気付いた。体の何処かにon/offのボタンでも有るのではないだろうか。

 

 愛、とされる事象に疲れたのではない。混乱していたのだと言い訳する。
 光生と関わらせる事を許した。他、三年の男達が彼女にどう接しているか観察していた。
 予想した通り光生の方が数段女慣れしており、彼女の機嫌を上手く読んで押しては引いているらしかった。
 義理の親に電話での風俗業をやらされていた彼女にとって、ニ歳上 の男は子供に見えたのかも知れない。バイト先でもっと歳上の従業員と関わるのであろうから、彼女はいつも通り眠たそうな顔をして いた。
 何を話した?と問うと「たからが聞きたくない話」と言う。更にしつこく尋ねると「もう良いじゃない、こんな話」と投げやりな目になる。その時にのみ、彼女の虚無の深さが窺えた。
 虚無。彼女の虚無。それを共に感じてみたいと思う。深海に沈む様な心地、彼女が居る場所ならそれは美しい所に他ならない。

 高校に入っても彼女の保健室通いは続いていた。週に何度も保健室に行き、数時間眠る。微熱を出す場合も有れば嘔吐や下痢、 頭痛胃痛等の症状も有る。月経痛は相当重かったらしい。長時間立つ事すら出来ず、全校集会やら朝会の類は欠席するか倒れるかしていた。


 中学の時は保健室に連れて行く事が出来た。そのまま付き添う事も出来た。今はクラスが異なる為、迎えに行く事が辛うじて出来るのみ。養護教諭が不在ならば学校に居ながら触れる事も出来るが、時間帯によっては迎えに行く事も叶わない。
 授業の合間、20分休みに急いて行くと保健室には彼女と普通科の名前も知らない男が居た。
 彼らはスライド式のドアの開く音、それ以前にこちらが入室しようとドア前に立った段階で体を離した。気配で分かる。つまりベッド上で密着していた事になる。室内には他に人は居なかった。
 現場を見られていないと思っている為か、彼は悪びれず擦れ違い様に「冨岡さんが羨ましい」と言った。
 黙って見送ったのは衝撃が強過ぎたからである。どういう事なのか頭では分かる。だが事実を受け入れられない。
 華の様子は至って通常。澄んだ目、普段より一層澄んだ目でこちらを真っ直ぐに見ている。動物か赤子の目、否、底知れない精霊か何かの目。畏怖を覚える位の眼差し。この時、 彼女を何故か怖いと感じた。
 全くの未知の存在。自分は彼女を敬拝するしか無いのか。そもそも恋愛する立場に無いのか、対等では無いのか。だから問い質せないのだろうか。
 彼女の隣に行き、座った。彼女はいつもの様に甘え掛かる事もしない。いつもなら直ぐに手を繋いで来る。 いつもなら膝に頭を載せる。猫の仕種で、自然に。
 顔を覗き込む。このタイミングで彼女は繕った様に、にこりとした 。
 違和感を覚えた。益々、彼女の精神状態が見えなくなって行く。
 言い訳をしてくれ。あいつに襲われただとか適当に嘘を掻き集めてくれ。それで視ていない事にする。又は只の気の迷いだと謝罪をしてくれ。それで忘れる。
 だが彼女は何も言わず、すっと立ち上がりそのまま保健室を後にした。

 そしてHRの後に廊下で待っていた。いつもの華だった。「今日は 具合が悪いから、バイトは休むの」と言って腕を組んで来た。
 振り払う事は出来なかった。
 考えたのは、彼女に何らかの不満を自分が与えたのだろうという事 。おそらく自分が悪いのだろう。こちらに原因が有るのだ。こんなに混じり気の無い清浄な気の塊を持つ彼女が間違いを犯すなら、 それは彼女の罪でなく自分の罪なのだろう。それをさせた自分が悪 い。
 そう思わせる程の存在だった。彼女は。帳尻が合わないのだ。他の男と寝た、否、見方が正しければ彼女はどうでも良い男を誘惑したのだろうが今見ている彼女はそんな事が無かったかの様だ。一心に見上げて来る瞳に疾しさは一切無い。言うなれば、こちらへの愛しか無い。どういう事だ。自分は嫉妬の余り幻視したのか。 或いは彼女が幻惑か。更には彼女の愛が幻なのか。
 訳が分からなくなった。部屋に戻ると、具合が悪いと言っている彼女に疑問をぶつける事はしない代わりに非常に雑な抱き方をした。 彼女は何も言わない。言わないが泣いていた。だから何だ。こちらは何もかも彼女に仕組まれてやらされているのではないか。
 この様な状況の中、彼女は自宅に帰る度に体に傷を作って戻って来る。それが小さな痣であっても気が狂う位の怒りが沸き上がった。 彼女の背に紐状の何かで打たれた痕を見つけた。それは革なのか革の先に金属質の物が付いた何かなのか……彼女は何をされたかは言わない。ただ「傷を作り直して」と言った。
 もっと酷い傷を作らせようと言うのか、それがどんなにこちらの精神へ負担を掛ける事なのか彼女は知っていたのだろうか。
 気が回らない程に彼女の心は瀕死であったと思う。若しくは、この作業を通して一生彼女を想わねばならない魔術を仕掛けられたのか 。
 両手から彼女の血の匂いがする。背中の傷を更に大きな傷に拡げていく。彼女を想いながら。彼女を助けたい。 一つの念だけを頼りに。人間が人間に全面的な救いをもたらす事が可能なのだろうか。それは神の手の領域ではないのか。
 そんな疑問を抱いている場合ではない。神の領域だとしても、嘘でも彼女の前では神の振りをせねばなるまい。彼女を救える存在だと言い張らねばならない。彼女は神即ち愛と考えている。この行為は愛の具現ではないか。
 傷を作り直す事は思いの外、体力を要した。人体を傷付ける事は消耗する。神経も使う。更に言えば神経が病む。
 愛の名目で行っていても代償に何かが欲しくなる。傷を付けられる側の彼女も消耗するのだろう、直後にスキン無しで挿入しても彼女は何も言わなかった。
 これで妊娠してくれないだろうか。祈る様に望む。幼少から刷り込まれた価値観では恋愛も結婚も子を設ける事も共に生活を営む事も 一直線上に在った。彼女は早急に母になってしまえば救われるのでないか。彼女は愛を求めているのだから。二人で地に足を着けて生きて行けば良い。若さは欠陥にはならない。彼女と生きて行く道を示して貰えるなら今、直ぐにでも身を粉にして働こう。それが本来の人間のあるべき形だ。学生の身分は詰まらない。数列の極限値を求めたり媒介変数を消去しx,yの式に表す事が一体何の役に立つ のか。そんなものは暇潰しだ。

 

 彼女に乞われて「天国を見に」「永遠を見に」行きたくなる。行かねばならない境地に陥る。二人で左手首を切り、温い湯舟に浸けて夜の間、話をしていた。真夏だった。外に話し声が漏れない様、窓を閉めていた。換気扇の回る音。華の囁きの声。 部屋のドアを開け放ち、エアコンの冷風を感じながら赤く煙る様に滲むバスタブを見る。直前に彼女の持っていたクロルフェニラミン 、要は乗り物酔いの薬を規定量以上飲んでいた。催眠作用が有るからだ。こちらは効かなかったが、彼女は話しながら微睡んでいた。 幸福そうな笑みを浮かべながら。その顔を見る為にだけ、この儀式をしているのだと思っていた。こんな程度で人は死なない 。動脈を切らねばならない。手首なら手首を落とす位しないと不可能だ。
 彼女と共に在りたい。死んでも生きて居ても。
 その意志に濁りは無いが、冷静を保つ事が難しくなっていた。何をすれば彼女を生に繋ぎ留められるのか。
 一緒に死ねば良いのだろうか。生者としてではなくとも、彼女の魂が自分の手元に在れば良い。

 

 混乱を極めていた。光生は偶々近くに居た犠牲者だったかも知れな い。
 彼を家に呼んだ。しかし彼女の使っている客室にも、私室にも入れなかった。華と居る場所には入れたくない。二階のもう一つの客室に招いた。光生の喜びそうな餌、ノートパソコンやゲーム機は家に有った。
 華が居ない日も有る。彼女は多くの日をバイトに費やしていた。


 光生は家に来る事に慣れた。彼の塾がある日は週三だったが、内二日は自習していた。彼は決して成績が揮わない訳ではない。部活は陸上とサッカーを掛け持ちしており、更には塾講師以外に他校の女子と交際していた。多忙なのだ。塾講師に関しては十三から続いていたというから、齢十六にして不倫四年目なのだった。

 華は彼が来ていると、誘っても客室には来なかった。予期していたのだろう。

 

 秋に入っていた。庭の金木犀の香りが二階に迄、漂っていた。
 光生はトイレに行った後にふらりと華の居る部屋をノックした。そ こで止める事は出来たのだが、あろう事か自分は一階の父の書斎に入り両の耳を押さえて坐り込んだ。

 神経が参っていたのだと言うのは易しいが、赦されざる事をした。
 父の部屋はピアノを置く部屋と等しく、防音を厳重にしてある。絶対音感を持つ自分と同様にサクソフォンを奏でる父も聴覚が過敏な為、仕事に集中出来る様に自室は壁を厚く作っていた。
 それでも耳を押さえていても、くぐもった彼女の悲鳴が聴こえる気 がした。何故、立てないのか。何かに抑えつけられている様だった。何にか。自分自身の亡霊に、だろうか。
 時間がどれ程経ったか。父の部屋の壁掛けの十字架を見た。祈る事が出来ない。しかし神に問うた。華を愛する資格が自分に有るのかを。答えは二十二年経っても見えない。

 

 光生は客室で何事も無かったかの様にゲームを続けていた。静かだった。ゲームのBGMが尚、静寂を引き立てていた。
 華の部屋を開けた。彼女はワンピースを着ている。ゆっくりとした動作だった。
 ゆっくりとこちらを振り返り、ゆっくりと首を傾げた。次に驚いた様な顔をした。
 それから彼女は抱き付いて来た。光生の匂いはしなかった。彼女の体は濡れていた。彼女はシャワーを浴びた後に体を上手くバスタオルで拭く事が出来ないのだ。
 「たから は」
 彼女の声はあくまでも澄んでいた。
 「たからは私を好き?」
 好きだ、と答える。言葉が喉に絡まる。
 彼女は不安になっている。ではこの試みは成功か。彼女が何をしても見捨てたりはしない。だからどうか何処にも行かないで欲しい。違う。申し訳が立たない、彼女が窮地に陥れば良い、苦しめば良い と思ったのはこちらではないか。そうすれば彼女は助けを求めて来るに違いない。ああ、もうどうしたら良いのかが分からない。辛い。痛い。魂の芯が痛い。
 直後だった。急に吐き気を覚えた。その様な体調の変化は今迄に無かった。理由無く胃液とも大量の唾液ともつかぬ物が流れ出た。ト イレでなく華の前で吐いた。
 彼女は激しく泣きながら蹲っていた。彼女の手が背を撫でる。それで吐き気は治まった。

 

 二人で居る時の関係性は変わらない。彼女は毒を撒く様に強い快感を与える。依存性,常習性を有したその行為を自分は与えられるまま呑み込んでいた。十回に一回、 つまりは十日に一度程はバッドトリップになる。こんな事をしてい てはいけないと苦渋が喉元迄、迫り上がる。華の過激さは増して行くばかりだった。彼女はこちらが血液に興味が有ると知っていた為 、目の前で性器付近を切り裂く事をした。「私は穢れている、浄化して」………………
 強い命令だった。彼女の血を舌で掬い上げて飲んだ。こんな事が何故、愉悦を伴うのか分からないまま。


 一度切りだが彼女が怒りとも哀しみともつかぬ言葉を口にした。「 もう嫌、どうして私は女なの、あなたは私が女じゃなければ好きになってくれないくせに」
違う。否定したかったが出来なかった。黙っていた。否定する言葉を今の自分は持っていない。しかし嘘であっても否定をすべきだっ た。華はこちらの表情をじっと見ていた。黒目の多い目に探られている様に感じた。彼女は泣き出した。次々と涙を手の甲に零した。 涙で目を洗うかの如く。抱き締めるしかなかった。それは狡さでしかなかった。あの時に言葉で表明しなければならなかったというのに。


 ひどい混迷の中だった。光生は時々家に来た。華は狙ったかの様にバイトを休む。元々彼女は月経中は外に出歩く事が叶わない。光生は彼女の好きそうなゼリーやヨーグルトといった手土産を買って来る。
 彼らは示し合わせていたのだろうか。そうではなかった筈だ。華はPHSのアドレスも番号も光生に教えていなかった。
 そして彼らは最後迄していたのか、確証は未だ無かった。希望的観測で彼らは関係していないと思っていたかった。敢えて部屋の様子を探らず光生の様子も見ない様にした。華からは痕跡が分からない 。
 光生は彼女について何も言わなくなった。それ迄は彼女のプロフィールを聞きたがっていた。しかし話題に出さなくなった。
 彼女が彼の持って来たプリン等を食べた事にも驚いた。しつこく口 元迄運ばねば、彼女は食べない。全部を食べる事も無い。 一緒に食べていたのか何なのか、彼女を細かく追及するにも疲れて いた。二人が話している間、自分は私室でヘッドフォンをつけ勉強していた。集中出来ない様に思われるかも知れないが、彼らの音を聴きたくない思いが強いのか予想外に捗る。フランス語の朗読CDに聴き入る。合間に華の声が聞こえる気がする。彼女の声なのだが 耳が拾うと吐き気に襲われる。あれは夜に二人で居る時の華の声じゃない。では誰の声だ。見知らぬ女の声。しかし……幻聴なのか。
 光生はペットボトル等、ゴミの類は自分で持ち帰った。その中に使用済スキンが有ろうと無かろうと確認すらしたくなかった。 この状況を招いたのは自分なのだから。


 光生は月に数万、母親から貰えると言っていた。ほぼラブホ代に消えるらしいが、華にやたらと様々な物を買って来た。 彼女は受け取りはするが、自宅に持って行く。服やアクセサリーの類は彼女の許可を得て捨てた。ぬいぐるみや人形といった物は、彼女の中で名を与え生命を宿らせるらしく手を出せなかった。
 彼の中での「ヤリ代」だったのか、彼は彼で多発する恋愛の一つに数えていたのか。
 三人で家に居る状況は急速に怪しい空気を加速して行った。光生は彼女に嵌って行く。当たり前だ。本来の思春期には出来ない事が出来るのだ。彼らの醸し出す雰囲気に自分もやや異常になって行った 。止められなかった。
 二人の関係の確証が無かった為、思い切って部屋を盗聴した。録音機器を置いただけだ。後から確認した。全ては聞かなかった。
 それで彼らが何をしているか判明したのだが、その後に彼女と寝ると気味が悪い程の興奮を得られた。そういった嗜癖にそのまま転向出来れば良かったのだが、やはり不可能だった。 行為そのものは強い快楽の中に在るが、終わった後にまた吐き気を覚える。行為中に飲み下した彼女の血を戻した事も有る。彼女は女王の様に「どうして吐くの。飲みなさい」と言った。また別の女に思える。命令に慣れた別の女。自分の吐瀉物は不可能だった。 そこ迄、人間性を捨てた行いは出来ない。彼女に命じられた中で唯一出来なかった事だが、彼女の吐いた物は容易に口に出来た。 そんな趣味は本来は無い。彼女の一部だから、しただけだ。
 彼女の感情は極めて不安定であり「どうしてこんなに簡単な事が出来ないの?」と尋ねてから泣き崩れた。彼女の血、一部を吐き戻したという事は拒否反応だと考えたのだろうと思いその数日後に彼女の吐瀉物を口にしたら「何でそんな事をするの?汚いじゃない」 と言う。滅茶苦茶だった。こちらも何が正解なのか何を示せば彼女が落ち着くのかが分からない。

 光生とは必要事項以外話さなくなった。彼とも珍奇な関係になって いく。
 とうとう三人で居る時に光生が彼女の脚、腿に触れた。突然だった為か彼女は真横に引き摺り込まれる様に倒れた。急に傷の有る部分に触れるとそうなる事が度々有った。
 光生は淡々としていた。「この子はどうしてこうなるのかなあ」と 言う。癲癇の症状があるのか?と。
 何度も倒れているのか逆に尋ねた。彼は最初からだと言った。しかし最中に起きるらしい。だが服を脱がそうとするとまた倒れる、 と彼は言った。「ぶっちゃけ下着だけ取れれば良いしね」 と彼は歌う様に呟いた。
 今迄、光生は恋愛をしているのだと思っていた。初対面で熱量を感じなかった彼が、それなりに華には手を変え品を替え熱意を以て接しており、彼女が食事出来ないのを気にも掛けていた。
 しかしそれだけの様だ。彼にとって華はその他大勢の女と同じであり、かなり変わった趣向を持つからして懸命に通っているだけなの だろう。
 人形に触る様に、否、荷物を持つ様に光生は彼女の腕を引っ張った 。乱雑だった。そんな接し方を自分は一度たりとも彼女にはした事 が無い。そんな事をすれば骨が外れかねない。彼女への触れ方で光 生が彼女を、だけでなく異性全般を蔑んでいると感じた。
 小さく開いていた彼女の口に光生が指を挿れた。「噛むかな」と低 く口にした。
 止めろと言って押し除けた。彼はあっさりと手を離した。
 もう来ないでくれと告げる。光生は返事をせず帰り支度を始めた。 全く、終始淡々としたものだった。

 その夜に光生がもう来ない事を華に伝えた。彼女は「あの人の怒り を吸い出さないと、あの人は死にそうなんだよ」と言う。 光生を庇う様な表情だった。初めて彼女に対して強く苛つきを覚え たのが、この時だっただろうか。ともかく光生はもう来ないと言っ たのだが、華は「それ誰の事?誰の話?」と急に言い出した。驚く べくは彼女は光生の名を知らなかったのである。名をしっかりと聞 いていなかった、或いは覚えていなかったというべきなのか。

 〔この件は我々三人の間で曖昧に片付けられた。思い出したくない 事柄であり、華が忘れている事を期待していた。光生とはこの後全 く話さなくなった訳ではない。その他大勢の友人として彼からは関 わって来た。こちらも遺恨を残した積もりは無い。彼が悪かったか と言えばそうも言い切れず、最も責任が重いのは自分である。しか し光生は同窓会で華を見付け出した。初対面として接している。 華が「こんばんは、初めまして」と言ったそうだ。 その頃は人格の統合が済んでいない。華でない人格が当時の光生に 接していた事になる。現在の彼女には記憶が繋がっているが、詳細 を正しく覚えているのかは不明。今回も敢えて書いていないシーン は多々有る。光生は同窓会後に華と交際を始める運びになってから 、こちらに勝ち誇った顔で「今、変わった女と付き合っている。あ の学校を辞めた子」と言って来た。光生は光生で狸なのである。無 論の事、奴には前述の記憶が全て有るのだが都合良く忘れた振りを していた。彼らの交際や結婚を祝えなかったのは、この件が絡んで いたからでもある。〕

 十六になった日、彼女は銀色のリボンと同色の包装紙に包まれた万 年筆を贈ってくれた。「これは聖が持つべきペン、 あなたに相応しい」と言う。社会人になっても長く使える高価な品 だった。今も保管しているが、 彼女との一旦の別れを思い出す品でもある。
 その夜に「痛くしないから」と彼女が彫刻刀を持ち出した。こちら の心臓の上に耳を寄せ、鼓動を聴いてから肌を彫った。
 …………彼女の名を。痛みは感じなかったが神経が勝手に反射を起 こした。彼女を載せている膝、腿が時々痙攣する。 その度に彼女は「ごめんなさい」と言った。
 手当てを終えてから彼女は、「ずっと、永遠に好き」と口にした。

 光生と関わらなくなった後、ニヶ月程は彼女はバイトに集中してい た。家に来るのは週ニ、三に減少した。今日は友達の家に行く、バ イト先の人とカラオケに行く等の連絡は有る。電話してみると、確 かに友人らの声が聞こえ騒がしい。だが、それで不安が消えた訳で はない。
 家に来た日は予想以上に甘えて来る為、彼女の言動に振り回される ばかりだった。光生の話題は一度も出なかった。彼女は「 私だけを一生愛して、私以外には誰も見ないで」と言った。こちら の目を視線で焼く様にしてから、題目を唱えるかの如く。彼女さえ 傍に居てくれれば、それは日常だ。今更呪文を唱えなくとも既に彼 女の念で厳重に縛られていた。
 学校での彼女はテストを白紙で出したり、授業に出ない日が続いた 。屋上の柵を乗り越える奇行は習慣的だった為、もはや奇行ですら なくなっていた。

 クリスマスイブ、クリスマスは家に居た。二人で長く過ごせた。久 々に家族で教会に行き、彼女も祈っていた。そうしていると、彼女 は生まれ落ちてのクリスチャンに見えた。凪いだ様な穏やかな佇ま いだった。彼女はこのまま落ち着いて行くのではないかと思ってい た。

 そして十二月二十ハ日の夕刻に、消息が途絶えた。

 


 PHSが繋がらない。
繋がらないコール音を耳にしている。彼女が独りで暗い洞窟に似た 場所を、ひたすらに歩いて行く姿が見える。
 彼女の心情なのだろうか。それとも死に場所を探しているのだろう か。

 物が喉を通らなくなった。飲食しようという気にならない。手に力 が入らない。ベッドから出る事が出来ない。
 静寂の中で彼女の囁きを聴いた気がし、目を開ける。隣に彼女は居 ない。寝具に彼女の匂いが有る。彼女は毛布にくるまるのが好きだ った。髪の香りもする。匂いが有るのに居ない。それは彼女が死ん だと感じる事に等しかった。

 両親には一人にして欲しいとメールで告げた。心配しているのは感 じていたが、両親への対応が出来ない。三日以上排便が止まってい た。トイレにすら行けず、三十時間に一度程、部屋のゴミ箱にティ ッシュを敷き詰めてから排泄した。非人間的な行動だ。排尿と睡眠 だけが辛うじて人間の機能として残っていた。

 カーテンを閉め切った部屋で新年を迎えた。
窓を開けてみる。清涼な真冬の深夜の空気に除夜の鐘の音が微かに 響いて来る。百八の煩悩を除くという音………

 捜しに行かねばと思った途端、支度を始めていた。早朝に出発しよ うと、目的地迄の経路を調べた。
 彼女は樹海で死にたいと話していた事が有る。『大地に溶けて死に たい、海でも良いけど死体が見苦しいから』そう言っていた。
 彼女の遺体の隣で眠りたい、その時はそれだけの想いだった。

 心当たりを探して来ると書き置きして家を出た。街の中は人が疎ら だった。この世界で、彼女の居ない世界で生きる事に価値は無かっ た。

 

------------------------------ --------------

 彼女が居なくなった時に一度自分は死んだと思っている。死んだま ま大学受験し上京し死んで以降も彼女に囚われ、彼女を捜し回って いる。

 食欲も性欲も物欲も無い。消えた。あれらは生き生きと日常を送る 中で生まれる求めだ。彼女は自慰をする男の手が嫌いだと言い放ち 『聖の手は未だ綺麗。あなたは一人では、しては駄目。 私が全部してあげるから』とこちらの自慰を禁じた。 彼女と出逢った頃、自分は未だ子供だった。 性の欲する所も何も分からなかった。ただ、淫夢だけは彼女がこの 人生に現れてから毎日見る様に変わった。彼女が消えてからも見る 。夢精だけが呪いの様に続く。彼女の持っていた魔性。自分は箍の 外れた異性に惑わされただけなのだろうか。それだけの筈が無いと 信じたかった。

 周囲の人間と話さねばならない時間が息苦しい。両親は華が生きて いると考えていた。華が自立したと考えていた。捜し出す事は簡単 だった筈だ。両親は警察に捜索願いを出す,失踪届けを出す等はし ていなかった。彼女は二十八日にクラス担任に会っていた。退学届 を出す為であり、彼女の母親に伴われていたという。退学後の生活 については、働くとだけ言ったらしい。母について旅館にでも就職 するのではないか?と担任は話していた。 彼女は一月で十六になる。

 樹海に行った事で、自分はある種の諦念に見舞われた筈だった。彼 女は死んだという事にした。生きていて拒絶されている状況の方が 辛い。しかし何処にいても彼女の姿を捜してしまう。彼女の名残を 求めている。
 実家を出る際、彼女に纏わる品は全て実家に置いて行く積もりだっ た。だが彼女が最後に贈ってくれた万年筆は、彼女との繋がりを消 してはならない想いで持って行く事に決めた。
 上京前、胸が破れるかの様に痛む日があった。彼女の使っていたシ ャンプーとコンディショナーが浴室にあった。その日、 全て出し切って使った。彼女の着ていた服を抱いて寝た。女々しい 事をしている。自覚は有るが彼女の気配を微量でも感じたい。
 長年習っていたピアノは彼女と出逢って以降は彼女の為にだけ、弾 いていた。上京を機にピアノからも離れる事にした。

 大学は退屈凌ぎにもならなかった。クラシックをヘッドフォンで聴 く時間だけが、彼女から派生する痛みを緩和させた。
 彼女に似た姿の女を見掛けると一々、目が追ってしまう。実際には 彼女に似た容姿の者はいなかった。パーツしか見ていない。 脚が細ければ脚を見る。背が低ければ見る。長い黒髪ならば見る。 肌が白ければ見るが、華の様な病的な容姿の者は滅多にいない。植 物的な気配を発している者は、もっといない。

 同じ学部にいた詩織は近い要素を持っていた。〝作り変えれば〟華 の代わりになりそうだった。
 パニックディスオーダーと自傷癖、男性恐怖症といった歪みを抱え ていた詩織は言うなれば普通の女だった。 多くの人間より弱かっただけだ。ストレス耐性が低い、周りの目を 過度に意識する。華の様な人間離れした霊性は無かった。
 不憫な事をしたと思う。先ずは華の写真を見せた。華より好きにな る女は居ない、華でなければならない、華しか愛さないと言ったの だ。その上で詩織とは交際を始めた。
 詩織には自我にも歪みがある。あなたが至上に愛しているこの人に なりたい、成り切りたいと言う。 無駄だと知りながら華はお前よりも華奢だ、食事らしい食事をしな いのだと告げた。詩織は華を自殺した元恋人だと認識していた。十 六にもならず若くして死んだ薄幸の少女だと、憧憬を募らせていた 。そして食事を極力しなくなった。元を正せば詩織も拒食気味だっ たが、それに拍車をかけた。自分が加速をさせながら詩織に食事を 作り、食べさせる事を演じた。世話したいのは詩織ではない。 華だ。華に食べさせたいのだ。詩織は人形でしかなかった。詩織は 人形で在る事を望んだ。

 日常の中では詩織の名を呼んだが、性交の中では華の名を呼んだ。 華と呼ばなければ詩織に対して反応が無かった。
 性の歪みは互いに持っており、詩織は華に成り切らねば過呼吸の症 状が出た。試しに詩織の名を呼び掛けて愛撫しただけで急な発汗, 硬直が見られた。正常とは言えなかった。互いに。
 詩織と共に眠る日は無かった。華の霊が隣で寝ていると仮定してい た。共に眠る存在は華しかいない。


 二十歳になり、年末年始の為に地元に戻っていた時だった。
 華との再会、あれから丸四年。死んでいた日々が息を吹き返した。
 過去の彼女の姿より更に体を弱らせて現れた。離れていた時間の残 酷さは彼女にも降り注いでいたのだろう。
 記憶に在る通りの甘い、たどたどしい囁き声で話す。時折目付きが 鋭く変化するのが気になったが、女は変わるのだろうからと自分自 身を納得させた。一見して高価なネックレスを身に付けていた事、 男物のコートを羽織っていた事、バッグは持っていなかったがブラ ンド物の派手な財布を持っていた事、髪を脱色していた事等から男 と暮らしているのかも知れないと思った。 彼女の好む服装には思えなかった。

 年明け、東京に帰ってから詩織に別れようと告げた。華と再会した 事を話した。メールすれば律儀に返して来る。電話が出来る。 遠距離恋愛状態だった。近くに居る詩織を通り越し、 記憶の中の華しか見えない。より鮮明に華しか見えない。

 詩織は徐々に精神を狂わせて行った。詩織の中の《聖君》と恋愛を 続けているらしい。

 詩織に対し、華にされた事をぶつけていた。自慰を禁じ二人で居る 時間に強い快感を覚えさせ、身体も精神も支配する。華から受けた 呪いの手順をそっくりそのまま真似て、詩織に試した。 詩織はこちらに救いを求めていたと思うが、こちらの過去の苦悩を 引き受けようとする事で存在価値を認めて貰い、 救われようとしていた。
 過去の苦悩。誰かに預けて軽減出来る種類の事ではない。それを誰 かに預けようとも思っていなかった。自分は何時迄も苦悩していた かったのだから。今もだ。

 投資銀行マーケット部門にトレーダーとして就職。大学在学中、既 に個人投資家としてニ年程利益を上げ続けていた。仕事はやり甲斐 に溢れていたと言って良い。純粋に面白かった。
 数十〜数百億単位の資金運用に関われる。マーケット部門は基本的 には個人プレイであり、実力によりインセンティブが大きい。やが て部署がセールスに変わるが、やはり個人の営業力が物を言う、 実力主義の世界。そこで泳ぐ事は楽だった。
 仕事以外は華の事を考える。考えなくて済む様にと他の女との出逢 いに流れてもその出逢いの最初から最後迄、華を投影している。 華だと思い込んでから寝る。
 身も蓋も無い表現だが、華だと思い込んでいようが抜けない。疲れ ていると仕事を言い訳に持ち出す。疲れているので一人でゆっくり 休みたいと同衾はしない。そして淫夢に襲われる。百の夜の夢に一 回有るか否かだが華の姿を夢で見る事が出来れば、それで良い。
 それ程に求めているというのに、彼女は冷ややかだった。地元に会 いに行っても復縁は叶わない。幾ら言葉を尽くしても応えてくれな い。強引に触れれば怯える。

 その頃、詳らかに華の病が明らかとなって行った。
 彼女は脳外科医と不倫していたのだが彼女の言動の不一致、記憶の 空白に医師として疑問を抱いたらしい。大学病院での検査を勧めら れていた。
 確定診断迄は凡そニ年を要した。彼女の病名は乖離性同一性障害。 分かり易く言えば多重人格者。性的虐待,身体的虐待,精神的虐待 ,ネグレクトが要因だった。

 地元に戻らねばならない。華を支える為に。彼女が東京に来てくれ ないならば、こちらが彼女の元に行くしかない。会社に布石は入社 当時から打っていた。
 転勤により部署が変わる為、営業を学ぶ。徹夜でピッチ(資料)作 成し新卒のアナリストを伴い担当企業にプレゼン。M &Aアドバイザリー部とチームで動く。企業の状況を元にファイナ ンスを迫る訳だが、これはこれで楽しみながらこなしていた。 ゲームの様なものだ。本気でやる仕事ではない。上手く肩の力を抜 けない者から潰れて行く。
 地方での上下関係は軍隊さながら。有力な上司に気に入られてしま えば問題は無いが、上の人間数人に入れ込まれ派閥争いに巻き込ま れる。彼らは暇なのだろう。 真剣に小競り合いに巻き込まれている程、間抜けではない。 周囲には流れない、曲者の上司の下に自然と落ち着く。
 何故わざわざ地方都市に来たのか尋ねられた。故郷であるから、そ して親の介護を視野に入れてと当たり障りなく答えた所、嘘だなと 見抜かれる。この上司は直感で動くタイプだった。
 〝放っておけない幼馴染み“として華の話を控えめに明かす。上司 は最初、からかって来たのだが話と酒が進むにつれ、それは放って おいた方が良いんじゃないかと真面目な面貌で言った。 お前が先に侵食されるんじゃないか、と。
 自分は彼女に侵食されたいのだと答えた。

 華の状態は如何なるものか。こちらからは窺えなかった。彼女は会 っている時は正常だった。
 正常とは何を以て正常だろうか。思春期の彼女は正常と異常を往来 していた。それが魅力だったのかも知れない。 他の人間には見られない魅力。
 掴み所の無い言動は変わらず。しかし恋人にする様な憂心を見せる 。話の内容によっては非常に理知に富んだ返しをして来る。彼女と 何時間でも、話していたい。

 自分には分からぬ部分で、彼女は闇を歩いていたのだろう。
 映画やライブに連れて行き、帰りに喫茶店に入り彼女がジャケット を脱いだ時だった。薄いカットソーの下、解けて血が滲んだ包帯に 包まれた両の腕が現れた。どうしたのか尋ねると「朝起きたら腕、 切れてたの」と小さな声で言う。
 きちんと消毒が為されていないのではないかと訝り、車の中で包帯 を解いてみる。両腕に百箇所以上に及ぶ傷、彼女は右利きの筈なの に右腕の傷の方が深い。病院に連れて行こうにも、 行きたくないと泣きじゃくる。華は自傷行為をした覚えが無いらし い。それを病院で言うと閉鎖病棟に入れられるからと。仕方無くガ ーゼと消毒薬、包帯を買い込み改めて車内で丁寧に治療する。彼女 との間には昔から、血が介在している。
 彼女は未だ流れ出ている血を黙って見ている。その表情に寒気を覚 える。瞬きをしていない。血を見ていた筈の彼女がこちらを見上げ る。彼女は他人を見る目をしていた。
 華ではないのか…………?
次の瞬間、目の色が戻る。「たから、ありがとう」。しかし、幼児 の様な口ぶりだ。本来の華は何処に居るのか。何処に行ったのか。

 二週間の検査入院。精神科は異様な雰囲気の場相を形成していた。 見舞いに行くと遠慮無く他の患者に見られる。卑猥な言葉を掛けて 来る患者、奇声を上げる患者、雨の日の薄暗い通路でサングラスを かけ佇む患者。

 華は談話室で恰もカウンセラーの様相を帯びていた。しかし薄紅色 の入院着を纏い、両腕、その時は首にも包帯を巻いていた。 首を吊ったのだと、彼女は何でもない事の様に口にした。 周囲に人の輪が出来ており、彼女に話を聴いて貰いたがっていた。

 彼女の力に、支えに成れてはいないらしかった。ある時は「呼吸が 苦しいの、何か話して」と夜中に電話して来る。甘えた声だった。 これから行こうかと言うと急に低い声で断って来る。こちらは側に いる積もりなのだが、彼女は自傷行為や自殺未遂を平気でやる。 時に可愛らしい声で「川に落ちちゃったの」と電話して来るので何 を大袈裟なと思っていると、翌日の朝刊に〝橋の欄干から女性転落 “。彼女は病院から電話していたのだが、それを言わない。
 学校の屋上の柵を乗り越え縁ギリギリを歩いていた彼女は、更に危 険な遊びをしているかの様だった。ある時は国道で車に飛び込んで しまったと言うのだが、彼女は他人事の口振りなのだ。 いずれも骨折や打撲、掠り傷で済んでいるのが不思議だった。 一度でなく数度。決して大事故にはならない。彼女は事故になる度 に嘆願書を提出し、運転手が免停や罰金を食らわない様にしていた 。
 二人で道を歩いていると、彼女は成る程、陽炎の様にふらふらとし ている。中学高校の頃、これ程に危なっかしい状態だっただろうか 。そうだ、当時は手を必ず繋いでいたのだった。
 華を歩道側に誘導しようと手を引いた。力は入れていない積もりだ った。呆気無く、彼女はよろめいた。次に怯えて震え出した。 真に怖がっている様子だった。目が、彼女の目付きではない。 視線の注ぎ方が違うのだ。落ち着かせようと頭、 肩の辺りを引き寄せたら泣き出した。ここ迄、拒絶されようとは… ……

 華を想いながら他の女を抱くにも飽きた。詩織は東京からこちらに 追って来ていた。生涯、離れ得ぬ様に。そう接したのは自分だった 。詩織の命を吸い取る強さで関わった。華にそうされた様に。

 華を放置するのは危険だと思っていた。片時も離れぬ様にするには どうすべきか。彼女は脳外科医との不倫の収束を迎えていた。直ぐ にアプローチしても未だこちらに意識は向けまい。電話をしていて も沈んだ声で寂しそうにしている。タイミングを見計って会おうと 誘っても、夜だからなのか警戒されてしまう。正直、夜に会って何 もしないで終わらせる自信は無かった。彼女の警戒心は正しいと言 えた。

 同窓会の招待については、早々に断っていた。
 高校を辞めた華が行く訳が無いと思っていた。
 どの風が彼女の周りに吹いたのか、余計な事をする彼女の友人が彼 女を同窓会に連れ出してしまった。そこで事件は起きた。

 『入江さんが来ているが……?』と、同窓会に出席している友人か らのメール。華が来ている事に驚きを隠さず。彼は逐一、 短い報告をした。
 『ミッキー、イリエ二粘着』大正時代の新聞の見出しの様である。
 ミッキーとは光生の事だ。
 何という事だろうか?

 華から『聖、光生君知ってるでしょ。お酒飲んでなかったから、帰 りは送ってもらったよ』というメール。
 何という事だろうか。

 華は光生を憶えていない様だ。それはそうだろう。精神的要因の記 憶障害なのだから。憶えていたい訳がなかろう、あんな事を。 性的虐待被害者に性的被害を負わせたのだから。光生と二人で。
 光生はどういう積もりなのだろうか。よもや彼迄もが憶えが無いと 言う積もりではあるまいな。

 その通りになった。光生は週末に友人同士のフットサルの集まりで 「今、変わった女と付き合ってる。あの学校辞めた子だよ」と言い 出した。あくまでも無かった事にした上での申し出だったが、彼は こちらに対し勝ち誇った表情をしていた。
 光生は、〝出来杉君”の唯一にして最大の弱点をよく心得ているも のらしい。

 こちらもあくまで例の件は忘れた態で話した。自分は彼女と付き合 っていたのだと改めて告げた。光生はそれについても流し、彼女の 心臓が弱いとはどういう事なのか等を尋ねて来た。

 光生と形だけでも親密になり切る必要が有る。華を守る為だ。そし て彼女を奪わねばならない。否、奪い返さねばならない。それをす る事は光生が彼女に侵食されぬ様、防ぐ事にもなるだろう。
 光生の性格は知っていた。癖はあるものの彼の根本は素直・率直で あり虚飾が無かった。それは無気力に通じていたかも知れない。何 かが有れば彼の精神は空気が抜ける。危うい人格であると見ていた 。華に嵌り過ぎたら彼は恐らく崩壊する。

 華と光生が結び付いてしまった理由を、今は知っている。光生の育 った家庭環境、彼の母親に問題が有った事。
 光生は溺愛という名の暴力に晒されていた。中学時代から付き合っ ている女子を家に連れて行くと母親が部屋に急に入って来ると聞い た。彼は笑い話にしていたが、ベッドで彼女と全裸でいる状況で母 親が邪魔をして来るらしい。成績が僅かでも下がると長時間正座さ せられたらしいが、彼は中学時代は一位をキープし続けた。高校に 入ると周りは似た様な生徒ばかりであり、満点を取らない限り順位 は下がる。九十九点で同列の者が何人もいる。 母親はそれを解しない。彼は母親を自己より遥かに頭が悪いと小学 生の時に位置付けており、思い通りにならないと手を上げる母親、 のみならず父親を内心馬鹿にしていた。
 彼が高校時代にこちらの家に喜んで来ていた事には、更に理由があ った。不登校の二歳下の妹が家で叫び声を上げて暴れると言う。精 神科では病気でなく性格異常とされており、うるさくて勉強になら ないので塾に逃げていたとの事。そこで親身に相談に乗ってくれた という塾講師と「恋愛」に落ちる。 塾講師はその夫との性生活の不満を、女を知らない十三歳の少年で 解消したのだ。光生もまた、ある意味で性被害者と言える。
 光生は華に同様の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。但し彼は華の様に多 くを受け身にはせず、攻撃性を露わにした。特に異性に対して。


 二人は交際を始めてから一ヶ月も経たない内に、半同棲状態になっ ていた。
 華の話を聞いていると彼らは性生活に於いて非常に風変わりな形態 である事が伝わって来た。
 彼女の治療に伴う異相の現れなのか、光生潜在の趣味であるのか。 その破調は加速して行く。
 婦人科に行った、腹痛で救急車を呼ばれた等の話を聞くと今直ぐに 別れさせねばと思う。匿名でシェルターに相談した事もあるが、や はり華当人が助けを求めて来ない限りは機関としても動きようが無 いと言う。児童虐待と同様に。
 思春期に頑なに虐待の事実を隠蔽していた彼女を思い出す。自分は 成人していても子供の時と同じく彼女を助ける事が出来ないらしい 。
 無力感に打ちのめされる。どうすれば彼女がこちらに靡くというの か…………

 真冬の夜、山形に近い地域で電車が止まった。山奥迄、家庭教師に 行っていた華から電話が来た。「無人駅で暖房が無い。電車が18 0分待ちだって」彼女は駅に備え付けられていた電話で情報を得て おり、周囲にはホテルも旅館も無いと細い声で告げた。駅内に放送 すら入らない小さな駅だ。
 光生は仕事、0時迄の勤務。実際には三時頃迄仕事をし、会社に泊 まるのだ。シャワーブースも雑魚寝するスペースも有ると聞いてい た。彼は経営コンサルタントだが、華と付き合い始めてから27で 執行役員に昇格した。勤務時間は有って無いようなものだ。

 片道約五十二km、平時なら一時間もあれば着くが大雪の中だ。山 に向かう程に積雪が増す。
 這這の体で迎えに行くと、華は迷子の表情で震えていた。程近くに 彼女の生徒がおり、その男子高校生は彼女を家に泊まらせようとし ていた。彼女は十年経ってからも男を誑かしている。

 車の中で彼女は微睡んでいた。既に夜中。「ホテル代を出すから、 泊まりたい」と窓外を見て彼女は呟いた。七号線沿いには外世話な ラブホテルが乱立していた。
 その内の一つに入った。林を抜けて坂を上がり車もろとも一室に乗 り入れる。シャッターが閉まる。中は十畳程。窓は無い。
 華は寝入っていた。スーツを着ていても彼女の顔立ちは中学時代の ままだった。意識を失った人間の体はやたらと重いものだが、彼女 は拍子抜けする程に軽かった。
 助手席から合皮のソファーに一旦寝かせ、コートとジャケットを脱 がせた。ハンガーに掛けておく。部屋はエアコンを最大にしても寒 い。
 薬を飲んでいる様な寝入り方だ。思わず呼吸をしているか確かめた 。彼女の顔の傍に顔を近付けた。
 仕事後に雪道をひた走り、明日また仕事が控えているというのに… …抱けない女、友人の彼女に何をここ迄。道化も良い所だ。何故彼 女は泊まりたい等と言ったのだろう。彼女は本気で眠っている。 男を馬鹿にし過ぎてはいないか。
 細い顎を掴み口を開けさせて舌を入れた。一時間以上それを繰り返 して待っていた、彼女が起きる事を期待して。
 情けないが襲って来たのは性衝動でもなく悲哀、哀哭だった。泣け て来てどう仕様も無い。彼女は一体、自分にとって何なのだ。否、 自分は彼女の何だ。

 キスで目覚めなかった姫だが、朝になると起き出してシャワーを使 っていた。「ねえねえ、朝だよ。起きて」と揺り起こして来た。苛 つくので寝た振りをしていた。彼女は困った様に揺り起こし続けて 来た。こちらの髪を撫でたり手に軽く触れたりする。 子供の頃と同じ、甘やかな声で名前を呼んでくれる。 ずっとそうして居て欲しい。就職して初めて、 仕事を休んでしまおうかと考えた。


 彼女と大きく近付けた時はもう一度有り、その時は監禁未遂まで持 ち込めた。
 光生の話を楽しそうにする彼女を見ていると、陰ながら二人の幸福 を願う聖人の衣も纏えなくなっていく。光生をいっそ殺してしまお うか。彼女が嘆き悲しむ側で待ち続け、彼の代わりを務めるか。 しかし死別は美化されてしまうのだろう。彼女を監禁してしまえば 、いずれ彼女の精神を支配出来る。そちらの方がリスクは少ない。
 監禁するならいつ。どの様に。計画とも言えない夢想をしていた。 夢想だが拘束具や簡易トイレ等は用意していた。心臓に持病が有る と塞栓を起こし易い。拘束だけでも方法によって人は死ぬ。適切な 拘束についてガイドラインを参照、制菌介護衣について迄も調べて いた。
 そして機会が訪れた。

 美術館に連れ出した際、トイレに行った彼女が長く戻らず女性係員 を呼んだ。やはり中で倒れていた。 便座に寄り掛かる様にして倒れていた。
 救急車を呼ぼうとした係員に彼女は持病が有るのだと言い、車に運 んだ。手慣れた様に見えたろう。実際彼女を運ぶのは手慣れている 。
 マンション内の誰にも会わずに彼女を運ぶ事が出来た。あまりに簡 単だった。

 彼女は目覚めても騒がなかった。だが幼児の様に泣くばかりだった 。
 高校の頃、光生に彼女を貸した事は重い痼りに変わっていた。この まま監禁を続けたとしても自分が罪悪塗れになるだけだと判断した 。

 その日の内に解放した。彼女は光生に何も告げない。誘拐をされた のだと言いつけてくれれば良いものを。
 光生と話し合いたかったが、それを自分は恐れていたかも知れない 。彼は彼で高校時代に彼女にした事を償っていたのだろう。精神の 病を支えるには並大抵の心掛けでは出来ない。償いだけではなく、 彼はやっと真に人を愛する事を知ったのだろうが。

 もう一つ、彼女はこの時まるで魔性の者にも見えた。泣きながらこ ちらを見る目、中に何人が存在しているのか。実に恐ろしかった。 彼女の全てを受け容れる覚悟で接している積もりだったが、泣き声 が低音を帯びると耳が反応した。彼女か?彼女でない人物か。 疑心暗鬼になる。

 光生は、この状態で構わず彼女を抱けるのだろう。「全部が華だか らね」と挑発的に言われた事がある。自分はどうだ。思春期の植物 的な彼女、霊的な彼女だけを愛しているのではないのか。痛みの記 憶を持つ彼女の人格は否定し、人間の穢さを赦し憎しみの感情が抜 け落ちた妖精の様な彼女だけが、絶対なのではないだろうか。虐待 に拠って故意に捻じ曲げられ感情の失われた彼女の人格、それだけ を愛する事は狭量ですら無い。それは罪だ。


 手を拱いている内に光生と彼女は婚約に至る。自分のどこが光生に 劣るのだろうかと疑問だったが、少なくとも彼は彼女を恐れてはい なかった。
 彼女の何が恐いのか考える。例えば自傷。それは親しい者を同時に 傷付ける事に等しい。自傷は実は他害である。 彼女に死なれるのは恐い。
 光生の話を聞くと、彼が帰宅した時に華は丁度首を吊ろうとしてい たりすると言う。部屋中が血塗れであったり、 彼女が刃物を握って佇んでいたりと。彼は内心動揺しながらも冷静 に対処していた様だが、自分は果たして冷静でいられるのだろうか 。自信は無い。彼女が目の前で消える選択をしていたら、それだけ で衝撃を受けるだろう。こちらの日常化した看護を否定されている 事になるからだ。彼女でなく別人が彼女を殺そうとしていたら、彼 女の体を動かしているその人格を言葉で攻撃してしまうだろう。

 数年後の冬、一月。
 光生が出張で寂しいからと、彼女から「どこかに連れてって」とメ ール有り。未だこちらは年始休暇中だった。
 相変わらず、彼女に利用されているだけの感覚に陥る。元彼氏を友 人に据える女は残酷だ。彼女は利用している積もりは毛頭無いのだ ろう。−−をしてやったのだから~~をしてくれと言う事の浅まし さ卑しさを、高潔な彼女の前で出す訳にはいかない。

 オーダーしていたスーツを取りに行き、書店に連れて行った。
 彼女が文庫本を何冊か買おうとしていたので、こちらの分と合わせ て会計を済ませる。彼女は大した額でもないのに恐縮していた。光 生は彼女に物を買う時、余程に恩着せがましいのだろう。
 何か食べさせるべきだと思い、付近の店を思い浮かべながら運転し ていた。彼女はサラダ位しか食べそうにない。夕方になり、雪が多 くなっていた。

 「聖の家に行く」唐突以外の何ものでもなかった。彼女はゆっくり と、「一緒に帰る」と口にした。
 その言葉を反芻している間に家に着いた。どの道を通ったのか記憶 に残っていない。雪の降る中、彼女が助手席に居る。それだけだ。

 あの日のあの部屋のベッドに華が当然の如く坐っていた、その映像 だけを切り取って自分は永久のものとしたいのだろう。起こってい る事はイレギュラーな筈なのだが、最初から定まっていたかの様に 離れていた時間が嘘で在るかの様に彼女は当然の事として、 そこに居た。

 肌の滑らかな感触。変わっていなかった。彼女の意識が幾筋にも枝 分かれしているにしても。何故この体が今は、光生のものなのか。
 彼女は彼を愛する振りをしているのではないか?そうでなければ彼 を心底愛するのならば何故、他の男の部屋に自ら来るのか?しかも 彼の友人である立場の男に抱かれて何故、悦楽を味わうのか。彼女 はこちらを友人扱いしているがそれも嘘だ。彼女もまた、昔の思い 出に浸って生きているのではないか?
 では光生と擬装結婚する理由は何だ?経済力だろうか。ならばこち らに来た方が得ではないか。彼のDVに嵌っているという事か。暴 力を愛と履き違える女はいつの時代にも一定数存在している。暴力 の後の謝罪、快楽を愛だと捉えている女。彼女も加虐と被虐の関係 を愛だと思っているのか。

 その二月後に妊娠したと知らされた。
 時期を鑑み、自分の子ではないかと思ったものの彼女の妊娠のしに くさを考えると光生の子供である可能性の方が上だ。彼は「毎日や っていても出来ない。トランキライザー(安定剤)のせいだ」 と言っていた。
 彼女は光生と付き合い出してから婦人科に行く様になったが、そこ で中隔子宮であると知らされていた。妊娠率が低く、流産率が高い 。子宮内に柱が生じている奇形の為、低体重児が産まれ易い。

 妊娠したのだから、減薬どころでなく断薬せねばならない。彼女は 二、三度全ての薬を飲まぬ様にと試みたらしいが動悸や錯乱という 激しい禁断症状に驚き、薬をピルカッターで十二分割し少量ずつの 服薬に切り替えていったという。
 いつメールしても「死にそうに具合が悪い」という一言があった。 気弱な発言、負の発言を殆どしない彼女が。
 心配だったが会いに行けない。妊娠中の腹部が膨らんでいる姿等、 直視出来ない。光生の子供を宿している事実を見たくない。見たら 気が触れるかも知れない。中・高校であれ程、彼女と生きる将来を 想い描いていたというのに。何故、彼女の子の父親が自分ではない のか。何故、光生なのか。
 自分は本当の意味では彼女を案じていたのではない。自分の精神の 安寧を優先していたのだ。光生の子供等、妊娠したから苦しむ結果 になったのだと彼女を心中では詰って責めていた。 愚かしい女だと思い、切り捨ててしまいたかった。だがそんな事は 出来なかった。

 電話で助けを求められ、彼女が蚊の鳴く様な声で話している際にも 彼女の声だけが、延いては彼女の魂だけが持つ受容力に浸っていた 。彼女が苦しんでいても、苦しむのは当然だろうと心の片隅でせせ ら笑っていた。この俺を捨てたのだから当然だろうと。お前なんか 苦しんで苦しんで苦しみ抜いて死んでしまえば良い。霊になってか ら後悔すれば良い。そうしたら側に置いてやる。悪霊に変わってい ても。 
 その時期に有ったのは、恐るべき彼女への憎しみだった。気付いて 自己嫌悪した。
 我に返り、今から病院に連れて行くと口にすると彼女はこちらの人 間性を見抜いたかの様に通話を終えた。
 益々彼女は遠ざかる。
 彼女が光生を選んだのは、彼に裏表が無いからなのだろう。

 十月ニ十七日、華は女児を出産した。

 会いに行かねばと思いながら行けなかった。多忙は事実だが時間は 作れる。敢えて作らなかった。
 十二月に入ってから、光生の出張中に会いに行った。邪魔にならな いボックスフラワー、彼女から希望の有った鉢植えのオリーブを持 って行った。
 三万も包めば友人としては充分なのだろうが、光生に見せぬ様に言 って他に十万渡した。華は最初「要らない」と固辞した。多過ぎる 金額は失礼に当たるとこちらも分かっているが、光生は彼女に生活 費を渡していない。ネットスーパー等で光生名義のカードは使える と聞いていた。商品券で渡す事も考えたのだが、何か有った際には 現金の方が良い。
 妊娠中十一kg増して産後七kg落ちたと聞いていたが、以前と同 様に子供を自然分娩出来た様にはとても見えない体型だった。
 貧血がひどいという話通り、蒼白な顔色。光生はこんな状態の彼女 を残して、よく仕事に出かけて行けるものだ。如何に実家が近いと はいえ出張先が国内とはいえ、不安ではないのだろうか。
 赤ん坊の世話に明け暮れる彼女から、興味は削がれたのだろうか。 光生は彼だけを見ている女を好むのであろうから。

 ちょうど赤ん坊の具合が悪い、咳をしているとの事で付近の小児科 に連れて行った。待合室で父親の振りをする迄も無く父親だと認識 されていた。診断の結果赤ん坊は体調不良でなく、病院から自宅に 環境が変わった事で埃を吸い込み過ぎたものらしい。 低月齢の内はアレルギー検査は見送るとの事。
 次に彼女に会いに行った時は空気清浄機を購入し、持って行った。 更には乳幼児兼用チャイルドシートを車に置いた。空気清浄機につ いては光生の目がある為〝出産祝い〟とした。

 会いに行く日は二週間に一度。光生が家を空けている日のみ。様々 な生活用品や食品を持って行ったが、彼女の喜ぶ顔が見られるのは ウェットティッシュだのオムツだの実用品か又は、本だった。
 活字には欲するものが有るらしい。しかし彼女の読む本は児童書や 癖の有る小説が多く、どれが良いのか分からない為、必ず著者名と 本のタイトルを尋ねてから探して持って行った。書店には無い本が 多かった。更には検索してもヒットしない本も有った。数ヶ月後、 出張先の街の古本屋で奇跡的に見つけ出した事が有る。彼女は竹取 物語の様な無理難題を出す。それを愉しんでもいた。

 彼女の居る家というのは、ひたすらに静寂だった。静寂にも種類が 有るが、彼女の居る場所は暖かい。
 雨の日、雪の中の薄暗さ。彼女は必ずキャンドルを灯した。彼女は 昔から「ランプの白熱灯は好き」だと言っていた。蛍光灯の明かり の中に居る位なら暗闇の方が好きだ、と。
 暗闇の中に共に居た日々も在る、彼女は憶えているのだろうか。浴 室で【永遠へ】手を伸ばした日を、二人で毛布にくるまって過ごし た夜を。

 彼女と居るだけで気が落ち着く。仕事に戻れば自分は周りの人間の 評する通り、鉄仮面を着けているかの様だ。 顧客に対しては笑っておく。作った笑みだと悟られない様に数パタ ーンの笑みを浮かべる。疲れる。 何故彼女の前でだけ本当の意味で笑えるのだろう。

 何と詰まらぬ人生だろうか、神童だ等と言われ続けて来ても大学に 入れば自分如きのレベルは唸る程当たり前に夥しく存在した。海外 の主要な大学に留学する気概も無かった。その努力をする価値が見 当たらないからだ。大学入学迄は点取りゲームだと思っていたが、 大学入学以降も就職後も言うなればゲームだ。やや内容に変化が見 られるだけだ。上司に気に入られるゲーム、同僚と成果を競うゲー ム。恋愛も同じく。結婚も等しく。

 華さえ、華さえ傍に居てくれれば。彼女が妻ならば。毎日彼女と話 せる環境ならば。この世の常識から離れて只、静かに息づいている 彼女。他の誰とも似ていない。彼女しかいない……
 自分は真の意味での神童等では無かった。歳を重ねる毎に実感した 。多くの人間よりは数字に強いだけだ。彼女こそ神が遣わせた存在 ではないのか。彼女は人の心を解きほぐす。
 学校でもそうだった、病院でも。光生に辞めさせられる迄、彼女は 不登校の生徒を家庭教師として教えていた。自らの力を役立てる場 所を彼女は熟知している。
 そして今迄彼女と恋愛し、関わった男は幸福であろうと思う。一時 の安らぎであっても、それは絶対的な安らぎで在っただろう。

 赤ん坊は見る度に大きくなり、床を這う様になり掴まり立ちをし、 抱き上げれば笑う。だが光生の子供だと思うと笑いかけてやる事が 出来ない。
 彼女と同じ空間に居ても、近くには赤ん坊が居る。産後の体調の悪 化の中、相変わらず減薬し苦しんでいる彼女に何かを告げる事は出 来なかった。一緒に居る時間を持てる。それだけで僥倖と自分に言 い聞かせた。

 しかし光生の横柄さ、横暴さは目につくばかりだ。育児には協力せ ず。彼女の薬断ちにも疲れたのか、仕事に逃げている。 その割に過激な性行為には余念が無い。闘病中、しかも出産後の妻 に何故そんな事が出来るのかが理解出来ない。
 光生は彼女と婚約してからだったか、緩やかに痩せて行った。顔色 が優れず仕事だけは順調な様だがプライベートは彼女から与えられ る病みと悦びが起因しておかしくなっていた。「華といると釣られ て食欲が無くなる」と彼は言った。
 彼ら二人の関係は夫婦と言うよりは崩れて歪み切った恋人に見えた 。だから余計に目に余ったのかも知れない。子供が居る家で性暴力 が在る。彼女の心を読むとして、紙背に徹すれば彼女が犠牲になり 光生の暴力性を吸い取っている事になるのだろうが。

 夜中に彼女から電話が来、声が地の果てから聴こえる様でぞわりと した。この後死ぬ気ではないのか? 
 そう感じた。
 長く話した。
 迎えに行くと伝えた。華の居ない人生を、歩む積もりは無いと。
 彼女は「来世で。来世で一緒に」と答えた。

 

 転機は子供の保育園入園。彼女を外界に連れ出す切っ掛けが訪れた 。
 彼女の心臓の持病により、優先的に入園出来た訳だが彼女は働きた いと言い出した。
 以前働いていた古美術店に連絡を取った所、どんな流れなのか場所 を貸してやるから占い師をやれば良いと言われたらしい。成る程、 彼女には天職だ。
 光生には「パートに出るより稼いで来ると思うが」と言っておいた 。光生は最初渋っていたが、動き回る仕事ではないと安心を見出し た様だ。
 これが思わぬ人脈、利益を生んだ。華はただそこに居るだけ、人の 話を聴くだけなのだが顧客は彼女に入れ込んだ。彼らは華に話を聴 いて貰うと楽になる、何故か上手く行かなかった事が動き出す等と 言う。彼女に触れられて泣き出す顧客を何人も見た。
 店主は「以前からこうだった、彼女が居ると人が来る。物が売れる 」と言う。更には、こちらの彼女への慕情にも気付いていた。「俺 はあの子の笑顔だけが見られれば良い、君が高校の時の恋人なんじ ゃないかね、何で結婚しなかったんだ」と尋ねて来た。 光生について話した。DVについても。「早くどうにかしてやれ」 との答え。言われなくともその積もりだが。

 華と添えそうにないと思った時期から、中学時の後輩・小夏との交 際を重ねていた。無論の事、華にしか気持ちがないのだと最初に告 げた。何か有れば華を優先すると言っておいた。小夏はそれでも良 いから結婚したいと交際前から言っていたが、結婚という事象に幻 想を抱いているだけだろうと分かっていた。

 小夏が居ようが居まいが、他の女と縁が有ればそちらとも一時的に だが接していた。小夏は「どうせ浮気だから」と言っていた。 確かに浮気でしかない為、小夏に戻りはする。 戻りたい場所は小夏ではないのだが。それについても、 小夏は了承していた。

 女を邪険に、或いは小馬鹿にしていると思われるだろうが、実際に 男からその様に扱われたい女達だけに接していた。彼女らは一様に 、その状況に染まる。その状況に陥る自分自身に浸る。 男と恋愛したいのではない。そんなものは恋愛ではない。自分は彼 女らに自己満足感をもたらす餌になっただけだ。社会的地位だの経 済力だの、付属品が充実している中身の無い人型に彼女らは、何を そんなに懸命になるのか。自意識が過剰過ぎる。

 小夏も同じだ。良い所にお勤めの彼氏がいる・彼は高学歴である・ 良い車に乗っている・高級品しか買わない・たかだか寿司屋で数万 落とす・誕生日にブランド品を幾つも買ってくれる。だから何だ? こんな女と結婚したくない。そう思っていたが、小夏はその浅薄さ に気付いて恥じるだけの謙虚さは持ち合わせていた。「 華先輩はこうじゃないよね」と自ら比較する。当然だ。比較対象に すらならない。

 小夏と過ごした期間は決して短くはない。その間、自由だった。唯 一、華と異なる点が有る。小夏は念が薄い。束縛が無い。
 華とは離れていても縛られ続ける。その様にこちらが求めているか らなのだが。

 華は暫くの間、古美術店の一隅で占い師をしていた。顧客が膨らみ 過ぎ、独立の話が出た。その際に「聖と占いの館を作りたい」 と言ってくれた。素の言葉、狙いの無い言葉だった。

 彼女が占いを教えた弟子を含め、占いの館をオープンした。彼女の 希望で敢えて古いマンションを選んだ。質実剛健な彼女らしかった 。
 二人で居る時間も取れる様になったが、彼女の言動は仕事上のパー トナーに対するそれだった。


 魔が差したと表すれば月並みだが、彼女の体調不良時に手を握られ て自制が利かなくなった。この時ばかりは自分でも何がどうなった のか未だに言い訳出来ない。

 彼女はその最中、茫然を通り越した表情だった。普段、囁きでしか 話さない割に作った様なAVの見本の様な声を上げる。演技なのか 本気なのか判断が付かない。腕や手が痛いと泣いていたが、それが 真実なのかも判断が付かなかった。女が完全な絶頂の中に在ると威 嚇する猫の様な声を出すが、結局は人による。華の場合は沈黙して 微動だにしない事も有るので分からない。この時は前者だった。 つまり、こいつは男に犯られて悦んでいるのだなと思った。

 終われば彼女は白けた風情だった。手が痛いとまた言い、ティッシ ュを取れだの浴室に連れて行けだの命令し、最後に「聖は私が好き だから仕方ない」と言った。

 激しい悔恨に苛まれた。後に彼女がその時に骨折していたと判った 。
 遠い過去に彼女が「何故私は女なの」と言った事が有ったが、では 同性で在ればこの様な間違いも無かったのかも知れず…………間違 い?彼女と触れ合う事は間違いなのだろうか。そんな次元とは離れ た所に二人で流れ着いているのではないのか。

 華に〝友達〟を止めようと告げた。この関係を。彼女と繋がる糸を 一切絶ち斬ってしまえばもう、傷付ける事も無い。 傷付けられる事も無い。縛られる事も無くなる。

 仕事で日本を離れると告げた。もう会えなくなると。
 海外駐在の希望を会社へ出していた。海外駐在員要員として入社し た訳ではないが、考課により下半期の手を抜かなければ現地企業調 査部への希望は通るだろう。

 営業成績が全国的に見てトップクラスである事は必要とされるが、 それはどういう事かと言えば顧客に手数料の高い商品をごり押しで 売り捌き、営業記録(販売に至った経緯の記録)は事実に沿った形 でなく半分以上作った記録になるという事。押し売りに経緯等、 無いに等しい。不正でも何でもない。それが当たり前の世界だ。 顧客はこちらへの好意や信頼性で買う。それらを築き上げる事が手 腕。商品に魅力は特に必要無い。

 顧客とアポが取れたなら商品を予め用意して行く。本来はこの時点 でのピッチの用意は禁止されている。しかしそんなものは建前であ り、新商品の売りは通常。運用担当と融資担当が組んで仕事をする 。金を貸すのだから投資商品を買えと法人へ圧力を掛ける。腐った 業界だが、国自体が腐っているのだと自分は考えていた。

 華と居ると、これらの自分の常態が目につく。彼女はここに至って も魂の高貴を保ち綺麗なままだが、自分を含め周囲の人間も目に映 る世界も只々汚らしい。
 彼女と離れるという事は美しいものから離れるという事、自分も完 全な汚物と化す事。漠とした意識で何も思考せず何も感じず、 死して生きる事になる。

 華はそれを感じ取ったのか泣きながら抱き付いて来た。「行かない で」と。
 都合の良い返しだ。
 他の人間の考えている事は簡単に読めるのだが、彼女に関しては全 く読めない。自分は心や魂といったものが揺さぶられる様な恋愛を 求めていたのかも知れず、 それが出来るのは彼女を除いて他には無い。
 光生から切り離す事は可能だと、この時の彼女の言動で判断した。

 小夏の妊娠、華の体調不良。
 続けざまに変化が有った。

 仕事中にトイレに立った華がなかなか戻らず、テラコッタタイルと 人の体、正確には人の骨だろうか、それらがぶつかる鈍い音がした 。
 トイレの床は血だらけだった。タイルの色が見えない程。タイツと 下着の下がった状態で彼女は倒れていた。おそらく一度便座に座っ たのだろうが血に驚いて立ち上がり、それで意識を保てなくなった のだろう。便座も血みどろだった。
 子宮からの出血、採血の結果は極度の貧血と腫瘍マーカーの高さ。 当初の診断は筋腫と内膜症。しかし精密検査で癌と判明。

 この様な中で小夏との結婚が決まる。意図して子供を設けようとは 思っていなかった。これでも小夏に対して可能な限り誠実で在ろう とは常にして来た。気を遣ってもいた。誠実で在る……でなく、誠 実な振りをしようと努めて来た。取り敢えずは気を遣って。
 小夏は付き合い当初から「優秀な遺伝子が欲しい」「先輩の学歴と 経歴と顔と体が好きだから結婚したい」と至極シンプルな要望を吐 いていた。願いが叶って何より。

 冷めたまま結婚準備を進める中で、華には不倫関係を強いた。彼女 が身動き出来ない様に仕事場で先ず性行為に至らしめた。弟子には 学生時代からの因縁を涙ながらに伝え、協力を得ていた。
 光生と結婚していながら今こうなっているのは全てお前のせいだと 暗示を掛け続けた。こちらにも光生にも罪悪感を抱かせる。思惑通 りに支配したかった。彼女は黙って従うだけだった。

 彼女の闘病を支えようと退職を視野に入れていた為、仕事の手は抜 いていた。形式的には午前8時に出社するが、外回りの時間に華と 会う。若手のセールスに上司として同席せねばならない時もあるが 、勤務時間は幾らでも誤魔化せる。

 光生の居る家から、どうにか出せないものだろうかと考えあぐねて いた。不倫には持ち込めたが離婚に迄、どうしたら辿り着かせる事 が出来ようか。

 神に逆らう様な事を続けざまに行っていた。光生と華の寝室から夜 に電話を掛けさせ、通話の中で卑猥な言動をさせた。更にはライブ 動画を送信させてもいた。彼らの寝室、夫婦のベッドを穢したいと 考えていた。
 小夏との入籍を済ませた後、仕事中は指輪をしていた。社会的信用 の為だ。華と会う時は外していたが、ある時ふと思い付き彼女の愛 液で指輪全体を塗れさせた。この婚姻は打ち消したかった。 小夏と結婚したかったのではない。
 小夏との式では誓いを立てる事を放棄した。ブライダルチャペルで あり、挙式専用の場であったので正式な司式とは認識出来なかった 。
 披露宴では華に祝福をさせた。彼女は讃美歌をアカペラで歌い上げ た。彼女の祈りそのものの声。上司はそれを聴いて思う処があった のだろう、彼女が例の幼馴染みだとは伝えていなかったのだが、数 日経ってからお前の想い人はあの子なんだなと耳打ちして来た。
 式の前日も翌日も華に会っていた。時間が無く車の中で抱いても彼 女は何も言わず身を固くしていた。

 華の体調は悪化して行く一方だった。車に乗せている時に不正出血 、或いは腹部に痛みが出、便や尿の漏れ等が起きる。ボルタレン( 鎮痛剤)を2シート程纏めて飲み、自宅トイレ内で眠り込んでいる 所を救急車で運ばれる。胃洗浄はされず終いだったが、彼女は「 痛かったから飲んだ」と言う。担当医師は薬の過剰摂取、更には彼 女の既往歴から自殺未遂と取っていた。

 そして境の日は訪れた。

 夜中に彼女からのLINE、『助けて』と。この、直接的な彼女か らの望みをどれ程、どれ程の長い間待ち続けただろうか。

 華は歩く事が難儀なレベルだった。膣口からだけでなく子宮口から の出血。光生は非常識な異物を、否、 非道な異物を彼女に挿入しようとしたらしい。
 聞いた直後には殺してやると考えたが、華が手を繋いで来た事であ っさりと衝動に駆られた思いは鎮まった。
 病院に行き縫合の処置をし、診断書を取った。
 新婚だが華との関係を知っていた小夏とは別居の状態にあった。華 を自宅に連れ帰り、共に眠った。
 腕の中に居る彼女の表情、肢体、声も仕草も目の前から消えた高校 の時と全く、一分たりとも変わっていなかった。
 彼女が居ない期間は、彼女と過ごした中学高校時代が幻だったかに 思えたものだが、今は彼女の居なかった長い時間こそが、長い悪夢 だったかに見える。あの十六の頃に舞い戻った様な気がした。もう 何処にも逃さぬ様に、せねばならない。

 翌朝、光生と話し合いを持った。
 光生は抑揚無く合理的に話を進めた。彼が意識して怒りを抑える場 面も有った。華といつから関係が有ったのかと尋ねられ、こちらが 茶を濁した時だ。それを正直に話して何になるのだろうか。 話す必要が無い事迄、話したくはない。
 最終的にこちらからの慰謝料は取らないという結論だった。光生に 対し、華がされた事に関しての被害届を出すと言ったからだ。

 問題は娘、紅子について。
 華からは衝撃的な真実を知らされていた。
 あの日、あの雪の夕方から過ごした夜に「降りて来た子だ、あなた の子だ」という言い方をされた。彼女はこちらが納得するだけの証 拠を握っていた。郵送で済むDNA鑑定の結果を持っていた。対照 として光生の検体も調べていた。子の生物学的父親は紛れも無く自 分だった。

 それを聞いて以降、改めて鑑定を行った。民事裁判で使用する為だ 。当時、情交関係の有った間接事実を客観的にも証明は出来る。 何故なら、その時のフィルムや音声が有るからだ。

 光生は事実を知っても自分よりは驚いていなかった。華の妊娠以前 は精神的な不安定さに彩られており、紅子が華の元恋人(医師) の子だと疑った事もあると言う。「聖の子とは思わなかったけど、 別に不思議ではないよ」と答えた。彼は内心では嫌悪感を抱いたと 思うが、顔には出さない。

 光生の実家の反応が疑問だった。華との離婚については積極的に後 押しする割に、子供は渡さないと主張していた。 事実関係を整理し、紅子の親権(財産管理権・身上監護権) を華が取れる様、弁護士に依頼した。
 光生の両親は紅子を誘拐しかねない程、感情的になっていた。話し 合いにならなかった。

 多くの事柄が縺れながら蠢いて行く。
 華は手術を渋っていた。手術しても完治する可能性は低い。この時 点でステージIIIb、骨盤壁に癌が浸潤している状態。やがて肺 への遠隔転移が見つかり、ステージIIII(末期)の診断だった 。カルテは子宮頸癌から多発性癌と変わっていた。5年生存率20 %、癌としては比較的高い生存率だが華の場合は心臓に持病が有る 為、5年生存率は16%と言われていた。 緩和ケアに切り替えた場合、後は死を待つのみ。
 既に下腹部や腰に激痛が有り、彼女はオピオイドフェンタニルテ ープ)を使用していた。モルヒネの貼り薬版と言える。彼女の隣で 映画を観ている様だった。これから日を追って彼女は死に向かって 行くのだと思い、それを看取る覚悟も無いままだった。

 彼女は癌だという事を認めていないかに見えた。オペなら日本で、 放射線治療ならアメリカでと考えていた。費用等、幾らかかっても 良い。彼女は笑いながら「アメリカには行きたくない」「 聖がいてくれて嬉しい。ありがとう」と言う。彼女は猫の様に、こ ちらの手に頬を擦り付ける。「聖が好きで堪らない。昔から。本当 はね。ありがとう。大好きだよ」と繰り返した。それは本心なのだ ろうが、死ぬ事を軽く見せるかの様な気休めを唱えないでくれと言 った。彼女から湧いて出て来る愛情の言葉は、喜びをもたらすより も苦しみを感じさせた。彼女に優しく首を締められている様に感じ た。

 両親は信仰に則り、最初は小夏との離婚を認めなかった。小夏が妊 娠していた為もある。
 華に対しては両親共に心配を続けていた。詳細は知らせていないが 、彼女のDID(乖離性同一性障害)や癌についても話していた。 小夏との式で華が讃美歌を歌うと、両親は言葉にならない様子で涙 を流していた。
 彼らは華への対応を誤ったと考えていた。虐待を立証すべきだった という事、そして彼らが自分本位の接し方をしたのではないかとい う悔い。華にしてみれば心身の被害状況を根掘り葉掘り暴かれるの は二重三重に傷付けられる事に相当したであろうし、結局は人が人 を救おうとする時に自己満足感を生じさせない事は不可能に近い。 父も母も華を娘にしたかっただけなのだろう。
 実家に華を連れて行き、小夏とは離婚の算段がついている事、自分 は華と再婚しなければならない事を伝えた。華はこの人生の全てだ 、と。
 父は何も言わなかった。それは詰まり了承したという事になる。母 は泣きながら華に「あなたは私の娘」と伝えていた。華も泣いてい た。


 季節は容赦なく移り変わる。華の病状は、まるで原色の布が色落ち するかの様に悪化の一途を辿っていた。

 十二月二日、小夏との子供が生まれた。命名をしたのは華である。 小夏が彼女から名付けされる事を望んだ。
 十二月四日、華の亡き実父の命日に司式。両親が懇意にしている教 会にて。三十六になっていた。彼女の消えた冬、 あれから二十年が経つ。事情を知る司祭は我々を〔 この二人は初婚である〕としていた。

 十二月十二日。華は手術を受けた、そして心停止した。

 

 時は…………

時は止まるのだと十六の時に知った筈だが、今度こそ本当に留めを 刺して行った。

 涙は出るが無感覚だった。紅子を保育園に迎えに行き、そのまま空 港へと向かう。
 手術前から華とは計画しており、光生の実家が手を出せない様に海 外で暫く紅子と過ごして欲しいと希望されていた。 華は紅子が自分と二人だけで入国出来る様にと、英語で委任状を作 成していた。日本を離れた風景の中で、母を、華を亡くした痛みを 和らげて欲しいと。紅子だけでなく自分も華が居なければ日本どこ ろか、もうどこにも存在したくないのだ。

 小雪が舞っている。こんな時でなければ綺麗だと感じたかも知れな い。華の事しか考えられない。 
 紅子には何も伝えられなかった。だが、既に理解していた。泣くが 、気丈に映画に集中しようとしている。こちらの手をしっかりと握 って来る。これが六歳の子供の精神だろうか。 何と強い子だろうか。
 仁川へ二時間程。そこから出張で土地勘の有るフランスへ。フラン ス語は英語と同程度に話せる為、不自由はない。十数時間のフライ ト。


 その間、実に不可思議な事が起きた。
 華の霊が傍に在ると感じた。
 くっきりと感じる。膝の上に彼女は載っている。紅子の頭や頬を撫 で、こちらを覗き込む。一瞬、とうとう自分の神経が飛んだかと思 ったものだ。幻を視たければ脳は観せてくれるのだろうから。
 匂い迄する。華の匂いが。
 言葉は交わせないが、表情すら視える。微かに声も聴こえる様だが 、何と言っているかは判然としない。
 幻覚でも良い。幻聴でも良い。傍に居て欲しい。

 十二月十五日。 
 光生が自殺したとの連絡。
 正確には未遂、首を吊り意識不明。ICUに入院したと。
 そして華は、危篤から回復した。

 十二月二十八日。
 彼女が一度消えた日から二十年。今は、共に在った。病院の高層階 から望む雪は、圧倒的に純白。華との間に降り積もった時間を思う 。
 長かった。ただ長かった。


 光生は何もかも失った事になる。
 彼の価値観では華に対するDVはDVでなく愛情表現、最愛の妻を 親友に寝取られた形。子供は彼の子であると長年騙されていた。 守るべき者は無い。
 光生への感情は今も複雑である。とても友人だとは思えないのだが 、決して嫌いではない。自分は高校の時に彼を利用し、 彼もまた積極的にそれに乗った。こちらの思惑を計りながら。 彼は華を当時から愛していた。歪みながら。

 華は光生を選んだ時、彼の純度を知っていたのだろう。
 華を喪い、迷い無く死を選んだ光生を敬うのは間違いであるかも知 れない。しかし敬うという言葉以外が見つからない。

 この二年は光生に憎しみを抱いていた。慰謝料は渡した、彼の介護 も形ばかりだがしていた。首吊りの後遺症は重く、四肢の麻痺と言 語障害が続いた。現在は歩行と車の運転が可能、SEに転向し仕事 もしているが、発語は殆ど出来ない。
 麻痺の残る彼の前でこれ見よがしに華を抱いたりもしたが、あまり 愉しめなかった。彼女は泣くだけであったし、光生は大して動じて いなかった。

 光生が常に付近に居る暮らし。一時はやや離れた場所で生活させた が、彼は華に会いに来る。彼女が光生に会いに行っていた時もある 。特に光生の退院後、彼女自身も介助が必要でありながら光生を気 にして家を抜け出した。
 現在、光生は同マンション内に部屋を購入予定である。

 華しか見ていないこの生涯だが、二人を引き離したのは自分なのか も知れず。この二人こそが真に共に在るべきだったのかも知れず。
 彼女が隣に居て眠りに落ちる毎日の一瞬に、そんな翳りが落ちる事 も有る。

 華は日々寝ついている。ベッドから離れない。外に出るのは主に通 院時のみ。歩く事すら殆ど無い。癌はオペ後の放射線治療寛解し たが、今度は癌治療に耐え切れなくなった心臓に不備が出た。しか し神に召される事無く、ここに今も寝ている。国内であれば旅行に も出掛けられる。恵まれている。

 この先は不動産投資で食おうかと思っていた矢先、父の会社の経営 に望まれて加わった。これも親孝行と捉えている。
 全てが華中心。紅子すら母を優先する。

 華は病床に在って聖書を学び洗礼を受け、以降は縁有る人々の相談 役をしている。相当な無理をしている。貧血であろうが息が切れよ うが人に会おうと努める。
 植物が、或いは形を持たぬ光が人間の振りをしている様に見える。 彼女の霊性霊格に惹かれて止まない。

 自分は彼女の守護者で在りたいと思う。この世に彼女を留めさせる 噐で在りたい。華を仕舞う筐と成りたい。

 この先は華の筐体として、相応しい自分でなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

side C/written by Miki/

 
:plot
〈高校時〉
普通の女は媚びて来るけど華は媚びては来ない、それが初めの感想 でした。
見た目は好みではありませんでした。もっと可愛いきれいな子は沢山いるので病気っぽい華に積極的に行く必要ないので。
何で興味を持ったのかは高良(※この字の表記で書いて行きます) と付き合っていたからです。つまり最初に興味を持ったのは華じゃ なくて高良の方です。
理数科なんだから数学が得意な人しかいないわけですが、高良の場合は飛び抜けてました。所要時間15分の問題を3分位で解くとか 。普通ではなかったからです。女に興味無さそうな割に中ニから付 き合ってる彼女が普通科にいると言うので見に行ったら病んでいそ うな子が出て来た、それが華でした。
高良に敵う箇所があるとしたら恋愛経験値しか無さそうでしたから 、それで華を掠奪したら面白い事になりそうだなと思いました。実 際は行動に移すまでが大変だったのと時間かけて労力かけて何やっ てんだろうと。憐憫でした。自分へ。華は媚びて来ない子だったの でイライラしました。年下に見える見かけですが男なんてバカだという目をしていました。
その理由としては意外にも華が注目を浴びてたというのが挙げられ ます。理数科のアイドルとまで言うと言い過ぎですが華みたいな女 、つまり男とやるのは遊びだって雰囲気を出してる子に免疫が無い のが真面目に生きて来た優等生の集団です。
あの頃の女子高生は時代背景的に最強です。華はファミレスに毛が生えた程度の店でウェイトレスなんていう当時では尻の軽いバイト をしていたので尚更言い寄る年上の男がいたはずなので調子に乗ってて当然だと思います。飲食のバイトはヤリ目。 大学生の男はその為に面接に行く位です。
高良との中学からの事情は同じ中学の出身者から聞きました。詳しくないですが高良の家が金持ちでボランティアで問題ある家庭にい た入江(華の旧姓)を引き取ってるという様な話でした。高良が将来的に親の会社を継ぐから入江は上手い事やってるんだと聞きまし た。その時は、なるほどねとしか思わなかったです。華の事情なんて想像もつかなかったから。
華のバイト先に行ってみて出待ちした事がありました。そこでやっと華のチグハグさに気付いたかなと思います。八月の夏休み中で華 の髪がほぼ明るい茶髪になっていたのと当時流行ってた網のようなシースルーのロングカーディガンまでは分かるのですが華は肌を露 出せずキャミソールじゃなく薄いカットソーを中に着ていた、制服だとスカートが短いしブラウスから黒いブラが透けてるみたいな女 で何だそれと彼氏である高良じゃなくても思っていました。格好が受ける印象としては変だなと思いました。普段の露出が抑えられて て。一定していないとか安定していないとか言葉で言えばそうなります。足下だけ素足、金色の先が細いヒールでそこだけが変に艶か しい状態でした。
隣にバイト先の頭の悪そうな男が張り付いていました。夜だったからか華はバカ笑いしつつそいつと外でキスしてたのでまた、なるほどねと思いました。
高良が知らない所でこれなんだから付け入る隙は余裕だろうと思っていたのですが、苦戦しました。頭が明らかに軽そうな男とは遊ん でるのに、こっちには見向きしないので年上が好きなのかもなと思いました。それか、 バカが好きなのかと。華自体がそれ程頭の良い女ではないから。高良の友達だから警戒されてるんだろうと思って高良の事は嫌いだか ら大丈夫と言っておいたのですが「高良の悪口を言わないで」と泣いたりする一面がありました。だったら浮気してるお前は何なんだ よと思いました。それを言ったら「浮気なんかしない。していない」ときっぱり強目に言うから結構図太いんだろうなとも思いました。
最初に華を一気にやってしまおうと思ったのは、これらの経緯があ ってこれ位は絶対軽く流せる女だと踏んだからです。事実その後周 りの誰にも何も言われず二回目以降は華が待ってる様式でした。 それも高良の家で。だから図太い女なんだなというのは当たっていました。別に誰かに何か言われても華が誘って来たと言うつもりでした。
それは本当にそうで並んで座った時華がこっちの体にしかも膝や腿の際どい位置を触って来た時が二回有りました。学校で。どういう つもりか知らないけどやっても良い合図にしか俺には取れませんでした。
最初のその時は高良を呼んで泣いていたのでヤバいかなと思ったけど高良は看過しました。高良が何を考えていたかは今も分からないですが、その時は高良の趣味なんだと理解した気でいました。彼女を他の男に襲わせて楽しむ様なタイプなんだろうなと。だから高良みたいなのは嫌いだと言ったのに華は高良について意見すると直ぐ泣きました。泣かせる材料としては高良の話題は秀逸でした。完璧な様な高良も一つは歪んでいて安心しました。
華をラブホに連れて行っても、それに気付いていても高良は何か言って来たりはしませんでした。案外二人で後から「間男プレイ」に ついて話してるんじゃないかと思ったりもしました。
華が本当の意味で病気なのかと感じたのはエッチ中に固まったり無表情にいきなりなったり気絶したり、かと思えばAVでしか見た事無い体位をして来たり書けませんが攻撃の様に色んな事をして来たので途中でこっちが怖くなったからでした、が、それが面白くて高良から本気で取るか迷ってもいました。取るのは簡単そうでした。 付き合ったら付き合ったで無理だなとは思ってもいました。彼女にして上手く続くタイプじゃないです。華は。セフレで丁度いいかセフレにするにも危険なタチだと思いました。つまりはその頃の華は ヘビーなビッチのメンヘラでした。
高良は手に負えない女が好きなんだと思いますが、よくこんなのと暮らしてるなと感じました。暮らしてるんだか飼ってるんだか何に しても親を巻き込んで周囲を騙して舞台を整えて高良は華を支配していました。華は高良に見た感じは従順、裏で他の男に尻尾振って 高良すら騙し切ってる様でした。高良は狐に化かされてる図式です 。二人の話は見る人によっては美談かも知れません。俺の様な世俗 的な人間から見ればそれはどうだったのかなと疑います。高良はかわいそうな家の子を欲のまま囲い込む形だったと思いますし、華は 高良の好意や高良の親の厚意を最大限に引き出してたんじゃないかと思えるから。華が放っておけない見かけなのは認めます。小さい し細いしあの頃は殊更可愛い声で喋ってていかにも男に甘え慣れてる感じでした。それも何か変な風に。自然に見えて不自然、不自然 だけど不愉快でもない。されども怖い甘え方、怖いというのは吸引力がしっかり伴っていたからです。今の華とは違います。 今の華はもっと普通っぽいです。普通の振りが上手くなったのかなと思います。意識してるのかまではわかりませんが。
華を当時俺が好きだったかどうかで言えば、それは好きでした。華といると体が軽くなる感じだとか楽になる感じはありました。嫌な 事は嫌な事として身の回りに多かったけど華といると忘れてられたので。華は話をじっと聞いてくれたのでこっちの事も嫌いじゃなか ったはずです。
高良と意見が割れた日。割れたといっても話し合いをしたわけではないですが急に高良がもう家に来るなと言って来た為それまでにな りました。華には近付けなくなりました。 高良には利用されただけです。こっちも楽しめたのでそれでもういいと考えてそれからは無かった事に数えました。この件に限らず生きていく上で無かった事にしておいた方が良い事だらけだと思います。
華がその後割と直ぐ学校を中退しました、高良に事情を聞こうにも塞ぎ込んでて無視されました。華が自殺した噂も流れました。どう しようとかは考えませんでした。華とも高良とも合意だったので。 俺が華を好きだったにしても三角関係の絡れで華がどうにかなった って種類の事件にすらなってなかった様なので。誰かに問い詰められていたら言い訳が立つから不安はありませんでした。 自殺していたとしても、なるほどねで済んでしまったと思います。 あれはレイプの演技の合意のプレイでした。高良も予め納得していたはずです。ただ華とはまたちゃんと話をしたいとは思いました。 情報が少な過ぎました。華に直接的に家の事を聞いても答えなかったから。高良を本当に好きで付き合ってるのかも聞いたけど最後まで答えが無かった、高良とも話をしたかったけど高良は前提として俺と率直に話す事を考えていなかったと思います。高良の目に最初から入ってない状況でした。高良が見ていたメインは華だけで他の人間は料理の材料です。
華がその頃の事を責める考えだったら俺らはその後結婚していません。言い訳にしか聞こえないでしょうが当事者の一人としては華を 好きな事を高良に利用され、巻き込まれたと考えています。
〈成人後〉
同窓会で華と会った時、他に付き合ってる人はいました。付き合いと言ってもセフレと大差無い感覚でした。だからフリーだったとします。周りが結婚して行くんで焦りは多少有りました。三十過ぎて結婚してなければ人格に問題が有る、そんな風潮だったので。
華は高校の時と変わらない顔をしていました。
----────以下記述無し

 

:side C-Teens

初恋は中一、十三才になる直前、五月。相手は塾の講師だった。 呼び名を朝田さんとする。
正確に言えば講師ではなく講師の補助、事務員だったのかもしれない。塾の社員ではあったから管理業務だったのか生徒の進路指導と 私生活の悩みの聞き取りなどもしていた。朝田さんは二十七才と聞いていた。年齢は悪びれず聞いてみた。
俺は軽い気持ちで家が気持ち悪いと伝えていた。母が気持ち悪い。 妹が気持ち悪い。父はマシだけど尊敬出来ない。早く大学生になり たい。東京に出たい。東大は無理だと分かるので早稲田か慶應。 人文は暗いから嫌だ。
朝田さんに話しかけてみた理由は言うなれば美人だったから。顔が好きだった。スーツがいつもベージュ系で明るい色で顔色に合って いた。そこだけは明るく見えた。ストッキングを履いている脚がやたら色気有る雰囲気だった。
逆に言うと下品だった。気安い喋り方だったので安心感は有る。何回か授業後に話してたらメモを貰った。携帯(当時のPHS)番号が書いてあった。長く話していると他の社員に叱られる/土曜の夜九時からなら電話出来ると言われた。
その週の土曜の夜九時に塾と家の中間にある駅近くのマックを指定されて会った。朝田さんの車の中でキスから教わった。教えてあげ ると言われたので断る理由も無い。
小学生の間にやらされていたら引いたかもしれない、又は傷付いたかもしれないが中学生でラッキーだった。興味があったから。朝田 さんは頭が弱くて避妊しなくて良いとも言っていた。〈O君の子供なら欲しい〉とか言われてそのバカさ加減に鳥肌が立った。次の瞬 間には笑っておいた。
コンドームの使い方を覚えたのは高校に入ってからで外出しを覚えたのは大学に入ってから。中学の間に付き合った女子には全員にゴ ムを買わせて着けて貰っていた。自分から買ったのは高校に入ってからだった。こっちからやる事じゃないと思っていた。
朝田さんとは高校卒業まで付き合い続けた。会うのは年々減っていった、同時進行で中学時代に付き合ってた女子達は後輩先輩同級生 に限らず全員面倒臭かった。日常会話なんてどうでもいいからやれれば良い。こっちから近寄って行き断られた事は0だった。逆に告 られたら全員OKした。朝田さんに〈O君は顔がかわいいからイケる〉と言われていたのでそんなもんなんだろうと思っていた。世の中の男女関係は、まずは見てくれが高いシェアを占めて始まってい る。
朝田さんを初恋と言ったが人を好きになる感情とただ遊びたい感覚の区別はついていなかった。
狙っていた進学校の理数科には合格した。入学後の試験の内容はおかしかった。数A数Iの内容が授業開始前に盛り込まれてる上にしかも応用問題しかなかった。 生徒は塾に通って予習している前提なんだろう。五十点満点中四十点以上で合格とされていた。ギリ合格だったがこの先の試験がそこそこプレッシャーに変わった。 満点が二人いてそれが高良と栗野だった。
二人は入学直後から意気投合していた。二人と仲良くしておいて損はない。ノートを借りたり出来るから。栗野のノートはメモ帳同然 だったが高良のノートは字の読み難さを除けば綺麗だった。
栗野は女に興味が無いと言った。AVも観ないそうだ。性欲と食欲は勉強に向けた方が無駄が無いと意味不明な事を言っていた。 修行僧の様な奴だ。結婚もしたくないとか言っていた。国境なき医師団に所属したいというご立派な目標を持っていた。高良は栗野の話を聞いてるだけで将来の展望を教えてくれなかった。 医者にはならないとだけ話していたから共感した。俺も医者にだけはなりたくない。酷務だ。
高良には彼女がいた。普通科にいて同じ中学出身、初めに見かけた時はおとなしそうに見えたが中身は全然違う女子だった。 どうしてあんなのと付き合ってるのか疑問を覚えた。別に可愛いわけじゃない上何か持病がある様に見えた。だが痩せてる割りにはエロい感じがした。
話しかけたら適当に挨拶を済まされたから気になって来た。華ちゃんと呼んだら馴れ馴れしく呼ばないでと言われた為そう呼ぶ事にし た。
華ちゃんは調べたら調べていく程変な生き物だった。肌の色が病気の色だった。腕を掴んだら細過ぎて怖かった。高良がいない時に華 ちゃんに触った。睨んで来たが背が低いから見つめられた位にしか見えない。
高良の家に暮らしているらしい、何だそれと思い調べた。高良と華ちゃんの出身校の人に聞いた。
-あいつらは付き合ってるというか同棲してる/高良の実家の上階 が丸々高良スペース/入江(華ちゃんの旧姓)が高良の親に気に入 られて許嫁になったとか聞いた/高良の家は〇〇(高級住宅地) の中でも豪邸/入江は玉の輿狙い/入江は荒れた家の子供らしい/ 親がいないからって高良の親が同情して世話してるらしい/高良の親はキリスト教徒。-
だいたい合点がいった、卒アルを見せて貰ったら高良は生徒会長で輝かしい姿の写真が載っていた。華ちゃんがその隣をうろうろして る写真がいくつか見つかった。
俺は国語が嫌いだ。だが上手い文体はまだ分かる。華ちゃんの卒業文集に書いてあった人生が一冊の本だとかいう言葉の綺麗な書き方 であながちバカでもないんだなと思った。普通科だが。
高良は中間考査でぶっちぎり一位だった。全科満点取る奴が高校でも存在するのかと思っていたら存在していた。 栗野ですら二点落として二位、二点しか落とさない奴もこの世に存在するのかと思っていたら存在していた。俺は十四位だった、これでも平均点よりはだいぶ高い。
普通科の奴らの成績なんか気にしてなかったが華ちゃんは古典と現国の点が高良に並んでいた。学年と教科ごと成績順が掲示板に全部 貼り出される。普通科の生徒はごくごく稀で文系科目のみ理数科に下剋上する事もあるそうだが華ちゃんの面白い所は数学と化学が0 点近い所だった。それで何か文句あるかって顔だった。笑える。教科担任に呼び出されても無視してバイトに行くと聞いた。非常に笑 える。
高良は全てに於き動きが生真面目そのものだった。その高良がアレと付き合ってる。これも笑える。
あいつら本当にやってんの?と思っていた。華ちゃんは処女なわけ無さそうに見えたから高良で喪失したんだろうなと思った。 もったいない。意外と高良が変態臭いとは思っていた。 その勘は後々に当たる。
俺は朝田さんで一生通すつもりが無かったので他校の友達ネットを 駆使し早速一度目の合コンを開催していた。直ぐ彼女が出来た。二 度目の合コンで二人目の彼女が出来た。ダブルだが学校が違うからバレない。
彼女、AとBはどっちも処女だった。中学の頃の歴代の彼女も九割処女だった。でも面倒だから優しくなんかはしない。「優しく」 が分からない。どっちにしろあっちは痛い様だから早くやった方がいいと思っていた。処女じゃなかった先輩の女はマシだった。下着が子供って感じの後輩とか下着が汚い同級生とか毛深い女子は無理だった。無理とは言えどやってから別れたが、
殆どの女が無言でマグロだったからつまらない。挿れる時だけ騒ぐからうるさい。うるさいけど面白い。
AとBには一応形だけ優しくと考えて優しくしておいた。付き合っていたのは夏休みまで。どちらも教えてもフェラも出来ない。朝田さんはしてくれるから別れる選択肢は今の所は無い。
高良に何かの話の流れで華ちゃんがフェラしてくれるか聞いた。向こうから毎日してくれると聞いて驚いた。理解し難いのは「かわい そうになって来る時が有るからなるべくさせない」と高良が言った事。意味不明。
高良の家はカトリックだと聞いていたから多分高良は自罰と自虐的なんだろうと思った。教育熱心と言えば聞こえが良いけど教育が厳 しい家なんだろう。家と或る面では同じだと想像していた。
友達には今まで家の事は話していなかった。朝田さんには話がし易いから話した。高良には少し話した。何回か家にも連れて行った。 家で犬を飼っている話をしたら高良が見に来た。高良は公正な目で家の様子を見たのではないかと思っている。
父親はその時期大阪に単身赴任していた。本部長か何かのポストだった、家に帰って来ると威張り腐った態度だったが俺は気に入られ ていたから特に何でもない。問題は母親と妹だった。
こいつらはそっくりだった、劣等感が。卑屈。
高良が来た日は窓を妹が割った翌日で業者が窓の修理に来ていた。 ついでに妹がよく窓を割る話をしたら高良は無言だった。それでし ばらくして「妹が何で窓を割るのか考えた事が有るか」を聞いて来た。説教臭い言い方じゃなく疑問を投げて来た、そんなもの考えた 事は無いし考えてもどうにもならないと答えた気がする。
思えば母親も皿を夜中によく割っていた。不注意じゃなくわざと割っていた。ストレスが溜まっているんだろうと子供の時から思って いた。父親は母親が皿を台所の床に叩き付けて割っていても無関心だった。
妹は母親にまとわりついて泣いていた気がする。今思うとかわいそうな部分も有ったのかも知れないがよく分からない。 家族に限らず俺は人の心情がいまいち理解出来ない。
母親は昔から問題集を毎週買って来た。それで一日で一冊は片付けさせられた。簡単な問題しか無かったが面倒だった。幼稚園から帰 って来たら問題集をやっていた思い出が残っている。終わらないとおやつを食べさせないと言われていたし空腹感が苦痛だから片付け ていた。逆に考えれば問題集さえ終われば母親の機嫌は良くなり望んだ物が与えられた。小学生になると与えられる物はおやつの他に ゲームが加わり中学生になるとゲームに加え金が貰えた。服を買いに行くと言えばその度に二万くれた。だから中学の時点でラブホに 入っていた。塾は友達と彼女が増えるという観点で楽しかった。
成績が下がる事は高校入学まであまり無かったが実力テストと定期 テストの質の違いを母親が理解していなかったので迷惑だった。実 力テストは入試に擬えているから広範囲、定期で四九0程度取っていれば四八0点台に点数がどうしても下がるのが普通。母親はそれ が何度説明しても分からないらしく実力テストの結果が出ると成績 が下がったと思われ真冬に風呂場で水をかけられた事が有る。真夏 に車に閉じ込められてチャイルドロックされた事も有る。普通にインパネで解除して出たけど、この例を取っても母親はバカだった。
それを高良に話したら気の毒そうな目で見られたが高良は実力テストでも満点しか取れなかったそうだ、その意味で気の毒がられたの か。
高良の家にもよく行く様になった。お噂をかねがね聞いていた通りで、でかい家だった。こういうのを瀟洒な家って言うのだろう。
高良のお父さんには会わなかったがお母さんには会った。温和そうで羨ましかった。土曜に行くと食事が出たのでその後塾に行くのに 好都合だった。
華ちゃんが毎日いるのかと思っていたが毎日はいなかった。今バイトに出てるとか友達とカラオケに行ってるとか友達の家に泊まりに 行ったとかが理由だ。いたとしても俺がいる部屋には来なかった。
高良の家は本当に広かった。一階はリビングと庭しか見なかったが 二階は何室かありトイレや風呂も有った。リビングに宗教画と十字 架が有ったから違和感があったが外国の家の様な印象を受けた。 床が大理石のトイレを初めて見た。冷蔵庫も有ったが何でなのか二 階のは使っていなかった。二階の一部分が図書館の様になっていた 。高良の部屋は見たが用事が無いから入らなかった。華ちゃんの部屋も有った。他人の華ちゃんの部屋を用意して家具まで揃えたらしいから高良の家は相当余裕が有るんだろうと思った。
高良はプレステやパソコンに夢中になる事が無い様だった。多少は遊ぶとは言っていた。自由に借りる事が出来たから使った。三時間位は 平気で時間が過ぎて行く。高良は別の部屋で勉強していたり華ちゃんの部屋にいた。
華ちゃんがいる時に二人で華ちゃんの部屋にいたから、つまりはやってるんだろうなという時があった。高良は何かのアピールをして いた様に感じた。物音がしたとかじゃないが雰囲気で分かる。
その頃は朝田さん以外に一個上のDと付き合っていた。Dも残念ながらフェラは出来なかった。その前に少し付き合ったCはニ個上だ からしてくれたけど下手だった。華ちゃんは出来るんだから高良は最初の同い年の彼女にして貰えてラッキーだと思った。
華ちゃんがいる日で高良が華ちゃんの部屋にいない時、華ちゃんの所に行ってみたかったから行って部屋に入ってみた。高良の意図は 分からないが気配で、こうなる様に仕向けていると感じていた。華ちゃんは制服のままだった、足を投げ出して座っていた。ブレザー は着ていなかった、靴下を履いていなかった。もうこれは行けるなと思った。
肩が薄くて首の辺りを掴んだら直ぐ倒れた、驚きの表情もしてなかった。良い匂いがした。女子はみんな柔らかい良い匂いがするけど 華ちゃんのは特に息が良い匂いに思った。目を閉じていたのでキスしようとしたらそこだけ嫌がられた。何で嫌がられるのか分からな い。高良が良いなら俺の方が良いと思うけど。他の女子で嫌がられた事ないし顔なら高良より俺の方が良いと思うんだが。 もう面倒臭いから足だけ見て触って下着だけ脱がせた。上半身寄りに乗ってたから肺が圧迫されたのかもだが全然嫌がってもなかった 様に思う。胸がでかいわけじゃないから省略した。せっかくだから少しは触ったけど触ったら高良を呼ばれたので一時的にストップし た、高良は思った通り来なかったからラッキーだと思った。高良はコレ。つまり華ちゃんを自慢したいからやらせてくれるんだろうなと思ってもいた。
そこからは何か男受けするパンツだなとかしか感想が無かった。ピンクのリボンが目立つやつだった。けっこう濡れてたし直ぐ入って 後先は考えてなかったけど中出しした。後でヤバいと思った。華ちゃんは直後に風呂場へ直行したので大丈夫かなと考えた。華ちゃん はそれから何も言わなかった。
高良とその後で顔を合わせたが何も話さないで帰った。高良は確実にやったと分かっていたと思うのだが何も言わなかった。 もしかして「どうだった」かを聞かれるかなと思っていた。趣向としてやらせてくれたかと思い。
後から色々考えて高良は華ちゃんと早めに結婚したいんだろうと結論を出した。華ちゃんは授業をサボりまくっているから進級が難し い、ダブったら学校を辞めるんじゃないかと予想した。そんな人はこの学校にいないから居づらいだろう。妊娠したとしても辞めるだ ろう、それで高良が十八になったら二人は結婚出来る。
高良は傍目から見ても華ちゃんに手を焼いていた。先輩達は華ちゃんが尻軽だと噂していたが校内では華ちゃんは浮気していなかった と思っている。バイト先へ華ちゃんを二回見に行った事が有るがバイト先の大学生かフリーターとはデキていると見ていた。仕事中に その大学生だかフリーターは華ちゃんの髪を触っていた。華ちゃんの方は表情が変わってなかったので浮気なのかセクハラなのかは知 らない。
学校で高良は今まで通りだった。何考えてるか今まで通り分からなかった。日常会話や授業の話を今まで通りしていた。華ちゃんの話 題だけは流石に避けた。高良の動向が掴めないからだ。
高良の考えは掴めないままだが高良は家に来て良いと言う。華ちゃんに学校で話かけるのは極力は避けた。華ちゃんも何を思っている か分からない顔付きだった。
高良の家に行くと紅茶を何が良いか聞かれた。小花模様の青い陶器ごと置かれて自由に部屋を使えば良いと言われた。 パソコンもゲームも有るし勉強も出来る、高良に課題について質問すれば懇切丁寧に無表情だが教えてくれた。 塾に行く必要が無くなるレベル。俺が高良の彼女になりたい位だがそれは考えた瞬間嫌だと思ったけど。
華ちゃんはその日もいた。高良は高良の部屋に行った。華ちゃんの部屋に行くと開けてくれた。また制服だったが今日はブレザーを着 ていたし靴下は履いてた、その日の華ちゃんは多弁だった。 こんなに喋る子なのかと驚いた。一度やった男には饒舌なのかと思 い話をした。「ミキ」と呼ばれたからまた驚いた。一度やった男は彼氏扱いなのかと思った。頼んだら、してくれると言うから少し緊 張した。華ちゃんは「立ってて、座らないで。 ベッドには近付かないで」と命令して来た。かなり強い声だった。 言われたままにした。
上手かった、朝田さんより上手かった。直ぐ我慢出来ない状態になったらスピードを上げられた、華ちゃんが朝田さんと違ったのは音 を立てて呑んだ所だ。それは初めてだったから恥ずかしい気持ちになった。高良はこれをやられてるのかと思った。それなら華ちゃん を家に置くようにするだろと考えた。やらせない様にしているなん て絶対ウソだ。
華ちゃんは「じゃあもう帰って」と言って来た。最後に「せっかく履いてなかったのに。残念」と言ってスカートをめくった。 ノーパンだった。改めてよく見ると脱毛してるのでなく華ちゃんのはまだ陰毛が無い状態だった。高良はロリなのかと合点がいった。それより白い指に細い血管が浮いてて指の動きがエロい、華ちゃんは何もかもが何か変な具合にめちゃくちゃだった。この後で絶対に 高良とやるんだろうと思った。
他の日にラブホ行こうと誘ったら黙って付いて来た。その時は全然喋りはせず黙っていた。華ちゃんは気分屋の様だ。ラブホは初めてじゃない様で部屋を勝手にチョイスしていた。部屋に入ったら急に小さい声で「脱ぐ?脱がせてくれる?脱がせて」と言って来た。 それだけで後は喋らなかった。スカート脱がせたら華ちゃんが急に白目を剥いた状態になり焦った、が直ぐに元通りになった。 一瞬萎えた。でもラブホ代かかってるしと思った。喘ぎ声がでかかったので取り戻した。こんな分からない人は初めてだ。
気付くと毎日華ちゃんの事を考える様になってた。昔は朝田さんの事をよく思い出す毎日だったから二回目のちゃんとした恋愛なんだ ろうという事にした。だが華ちゃんは高良の彼女、今の所。
高良の家の外で可能な限り会いたかった。高良が同じ部屋にいなくても見張られている感覚がしていた。
華ちゃんは子供の様な部分があった。UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみをあげたら喜んでくれた。高良によると華ちゃんは何か 食べる時に食べて良いかどうかしつこく聞くそうだ。俺があげたプリンや何かはパッと開けて食べていた。だからつまり高良にはそれ系の演技か何かしてたんじゃないかと思った。食えない演技とか。 だが華ちゃんは別の日だと全く食わなかった。それに食べて良いか本当にしつこく聞いて来る日も有った。しかも近くで見たり触ると病気のバレリーナか何かの痩せ方だった。新体操部の人と付き合っ てた事が有るがこれよりひどくなかった。それより段々と頭の回線 が弱い変な子なのかなと思って来た。しかし如何せんエロかったの でこの今の関係から離脱する気は起きなかった。
高良がしてない事をしてみたかったが高良は何でもしてそうだった 。中ニからだとニ年位は付き合ってるんだろうし華ちゃんは高良の 家に公認で泊まってるんだから。高良の親もよく許すもんだと思っ たが高良の平時の姿は真面目な優等生でしかなかった。親は少なく ともこの県で一番頭が良いだろう高良が華ちゃんに変な事してるな んざ思わないんだろう。華ちゃんに色々聞いてたら華ちゃんがプリ ンを食べながら「高良のおしっこなら飲んだよ」 と言った事が有る。だから勘は当たっていた。
高良が卓球の部会に出てる時を狙って図書館に行った。華ちゃんは 図書館か保健室か屋上のどこかにいる子だった。図書館は考査前じ ゃなければ人はいない。図書館でやるのもスリルが有りそうだが高良が来るだろうから止めておいた。体育館倉庫内から外に出る抜け 道を先輩が喫煙所にしているのは知っていた、変な造りで一畳半程 度のスペースがいくつか区切られていた。そこに華ちゃんを連れて 行った。
華ちゃんは寒いと言っていた。一回どうしてもやってみたかったアヌスファックがこの子なら試せるよなと思っていた。高良がやった かどうかは聞いたけど答えてくれなかった。やってはみたいがやり 方は知らなかった。なかなか入らないしこっちも痛かった。唾液だ とあまり活油剤にならない。華ちゃんが初めて苦しそうだったので 今までで一番興奮した、どの今までの子より。破壊的な事をやりた かったんだと持っていた性癖にようやく気付いた。 女子が弱いってのは知っていた。壊せるのは弱いからだから仕方な い。
引き抜く時にこっちも傷が付いた。こういうもんなのかと思った。 華ちゃんはずっと泣いていた。それで唇や指を爪で傷付けて声を押 さえていた、血があちこちから出ていた。やってしまったらかわいそうになった。でももう仕方がない。
高良からはそれでも何も後から言われなかった。高良も同じ様にやってるんだろうと思っていた。華ちゃんを呼んで三人で部屋にいる 時に華ちゃんを触ってみたが何も言われなかった。 だが陰湿な目線で高良は見て来た。監視する様な目線だったがあの 目が何を言いたかったのか今も分からずにいる。三人であのままや るのかなと思ったが現実的には色々問題が有り、俺が嫌だった。 高良の方がでかかったらどうしようとか。別に見たくないけど。
終焉はいきなりだった。寝ていた華ちゃんの手を引いてこっちに引 き寄せたら高良に止めろと言われた。 華ちゃんはあの時確か寝ていたと思うのだが高良は「華が不安定だ 」とか「これは失神だ」とか言っていた様に思う。寝てる様にしか見えない、華ちゃんは学校でもよく寝ていた。言われてみれば息の 仕方が早かったけどそれで過呼吸を起こしたんだろうか。不安定というものはどこからがどう不安定なのか分からない。華ちゃんに関 しては特定出来ない。どれが平常か元々知らない。高良が何を気にしたのか知らないが「そんな扱いをするならもう来るな」 と言われた。優しくしていればOKだったのかも知れない。俺は優 しくやっているつもりだった。高良とケンカしても多分絶対勝てないのでもう無理だなと悟った。だいたいがケンカする仲でも無い。
これが高一の秋までにあった話だ。

 

: side C /mid twenties
高校、大学と切れ目無く色々な人と出会えては別れた。大学が全盛期だった。一日に四、五人とデートする時が有った。その四人だったか五人と一日で全員やったわけじゃないが病気と言われればそうなんだろう。恋愛依存だのセックス依存だと言われた。 大学の頃の高良に。
高良はあっさり東大に行った。高良は生物化学をやりたかったらしいが経済の方が入り易いという理由で文系に転向した。東大理I.II類の偏差値と経済の偏差値は同じなんだがやっぱり親の会社を継ぐ為なんだろう。真似したわけじゃないが俺も経済学部を目指した。数IIIを使うから経済は強ちガチの文系というわけじゃない。だが卒業のし易さまで考えたら経済の方が楽そうだった。理系は実験が多いから面倒臭い。数学科か理論物理学も考えたがそれらが別に得意なわけじゃない、好きでもない。博物も地学にも興味が湧かない。経済ならまだ潰しが利くかと思い。
慶應の経済も東大文科II類と同程度の偏差値だ。高良は高校時代あれから気が抜けた様になっていた。最終的に俺と同レベルの進路 になったわけだ。結果だけ見ればそうなるが高良は勉強をほぼしないで入れたんだろうが俺は受験前は死ぬ程までじゃないがそこそこ努力はした。
華ちゃんが消えて以降は高良は死にかけだった。栗野以外は高良に気を遣っていた。一度他校生との合コンに高良を駆り出してみたが 高良は脱け殻だった。将来有望だよと女子に売り込んでやったらかなり可愛い子が高良に付いたのに直ぐ別れたらしい。 やれたか聞いたら「直前まで」という答えだった。直前までやっといて何でやらないのかが意味不明。
華ちゃんが死んだのかもなとは思っていた。死んだ子に操を立ててどうするんだろうか。他に出会いを求めて動く方が供養にならない か。生きている者は幸福になる権利が有る。
そうは言っていても華ちゃんがもし死んだなら一因として俺や高良が出て来るのは間違いないかも知れなかった。華ちゃんに嫌われて いたとは思わないが死んだとしたら自殺を防げなかった事は確かだ。華ちゃんに関する一件はすっきりしないまま終わったから頭の片 隅には残っていた。
大学一年の時に高良を合コンに連れて行こうとしたら彼女がいるから駄目だと断られた。彼女がいても普通は合コンを断らないと思う んだが。東大生が一人入ると女子の反応が違うから来て欲しかった。高良は黙ってれば只の御坊ちゃま君だった。中身は良からぬが中 身なんか付き合ってみなければそうそうは分からない。着ている物もブランド品しかないから金持ってそうに見える。仕送りは平均額 とか言ってたが。
高良の大学の頃の彼女には会わなかった、会う機会も無い。写真だけ見せて貰ったが華ちゃんの二番煎じのような女だった。病気臭い 。同じ学部の子らしいから頭は華ちゃんよりだいぶ良いんだろうが 。高良が華ちゃんを踏襲した様な子を求めたんだか華ちゃんに似せ て作り込んだのか分からないが何か気味の悪い女だなと思った、写真で見た限り。後々そいつは高良のストーカーに変わるので俺の勘 は当たる。
就活は地元でやったので苦労しなかった。地元の企業分析は予めしておいた。都心部で就職して地方で転職を考えたら都落ちのイメー ジは拭えない。公務員の選択も有ったがI種を狙う動機が無い。遊びでは試験を受けた。行政を選択し倍率は100倍以上。教養は比較的簡単に思ったが専門試験はやはり難関だった。5000人受け て50人受かる程度。その内訳は東大生京大生が占める。高良なら 涼しい顔して受かったんだろうなと思い浮かべた。公務員試験を受けてみた話を高良にしたら「お前に公務員は向かない」 と切り捨てられた。知っている、何事も経験だ。
地元の経営コンサル会社に就職した。企業の中長期経営計画や戦略立案をしていく。IT技術の領域を担当する事もあった。 糞程忙しかった。社会人になってから女関係の出会いが激減した。 三つ下の彼女はまだ大学生、遠距離だった。
実家で暮らす気は無かった。実家から程々の距離を空けてワンルー ムを契約した。殆ど帰れなかったから家賃はドブに捨ててる様なも のだった。帰れば寝るだけ、人生で最も性欲減退期だった。人間多忙過ぎると食欲・性欲は失われるらしい。高校の時栗野が修行僧に なっていたが今まさに俺もその境地だった。 一年が経つのが早くなった。中身が無い。学生の時は曲がりなりに充実していたのだが。これが大人になるという事なのかと思った。
栗野は医師免を取得後に留学していた。確かカリフォルニア大のロス校か何かだったと思うが、行くにも頭が良いだけじゃ無理で五〜 六百万はかかると思う。研究留学なのか臨床研修かどうか知らないが事実上就労している形式だったはずだ。 栗野は現地の医師免が欲しい様だった。結婚しないとか言っていた が日系アメリカ人の女医と付き合っていた。
高良はコテコテの投資銀行マンになっていた。
先輩を通じて女の子を次々と紹介されるらしかった。高良は本社から地元に配属になって帰って来ていた。左遷されたのか聞いてみた ら株式の誤注文執行で400億の損失を出してこっちに帰って来たと、まことしやかに言っていた。これは明らかに冗談で逆にそれで巨額の利益を得たんじゃないかと睨んでいる。 高良は個人トレーダーを大学の頃からしていた。
奴らは予定調和感ありの華々しい人生を送っていた。スタートは似た様なもののはずが俺は人生にすでに飽きていた。
高校の同窓会になんか出たのは成り行きだ。その他の同級生を見て 安心したかったんだろう。奴らはショボい勤務医になっていたり早 稲田の文学部から高校教師になっていたりした。勤務医はともかく 高校教師は落ちぶれ過ぎている。俺は平均値より上ならそれで良い 。その程度で満足出来る。
うだつの上がらない話をうだつの上がらない奴らとしていたら酔って騒いでいるスペースが有ったので行ってみた。何で盛り上がって るのかが分かった。入江だ、と誰かが言った。
ワンピースの向日葵と紫陽花が目に飛び込んで来た。華ちゃんだった。顔が変わってなかった。
正直、衝撃だった。今までこの世のどこかにいたんだと思った。隣に言って話しかけようとしたらあっちから「こんばんは。初めまし て」と言う、初めまして?。華ちゃんは俺を覚えていなかった。ショックの後にそれならそれは好都合だと思いシラを切る事にした。
見た目は変わってなかったがもう少し昔よりは健康そうに見えた。 昔より小さく見えたのはこっちが伸びたからなんだろう、手が小さ いねとか言っておいて手や手首を握ってみた。やっぱ痩せてた。痩せてる子は嫌いじゃないが何にしたってガリガリ過ぎる。華ちゃん は首を傾げて少し恥ずかしそうだった。昔と全然違う。対応がマシになっている。
出席していない高良の話で引き付けて繋いでおいた。悔しい事に高良の事はバリバリ覚えている、元彼だから仕方ないが。しかも連絡 をまだ濃厚に取ってる様だった。華ちゃんは酔ってるからか「高良とテレホンエッチならこの前したよ」と衝撃発言をした。周りの男 共はそれで盛り上がり過ぎだった。その内容を聞く奴や華ちゃんに 連絡先を渡す奴もいた。華ちゃんは微笑で内容をはぐらかしていた 。連絡先は形だけ貰っても教えていなかった。「今度また会えたら教えるね、ありがとう」とか「機会があったら私から連絡するよ」 とか言って流している。別にそこまで可愛いわけじゃないが頭が悪いわけじゃないんだろう。よく笑ってて面白い、性格が良いからまあまあモテる子の典型だった。華ちゃんはこんな普通だったのかと騙されそうになった。
高良の未練にも笑えた。中学の時の初恋をここまで引きずれるのも珍しい。ここでここから華ちゃんと俺が付き合ったらめちゃくちゃ 面白い事になるだろう。丁度華ちゃんは年上の医者と不倫してて別 れたばかりだそうだ。医者の、しかもオヤジなんかに手を出すからだ。けっこう浅いんだなと思った。あれだけ高一の時点で男慣れしてたくせに。年を食うと割と普通になるもんだなと妙に納得しかけた。
周りの奴に「俺、華ちゃんと付き合うわ」と言っておいた。入江は止めておけとか高良とまだ付き合ってんじゃないかとかアレはまだ 病んでるだろとかヤリ捨てが最適と色々言われた。特に神経内科医やってる奴に「拒食か境界例だと思うぞ」と忠告された。何でも境 界例とかいう人格異常は特に男をコントロールする事に長けていて手がつけられない暴力性があるそうだ。
目的としてナンパしにも来ていたので飲んでなかった。この時はセフレを数に入れなければ一応フリーだった。大学の後輩の後に二人付き合っていた。一人は同棲したしもう一人とは婚約寸前までいったが消滅していた。大きな仲違いが有ったとかじゃないが最終的に縁が無かったんだろう。
華ちゃんに送るよと言ったら静かに待っていた。肩ぐらいに髪を揃えていて顔が半分隠れていた。待っている時の華ちゃんを遠目に観 察していると床の靴の先辺りをじっと見ていた、 その目が寂しそうな泣きそうな目だった。その時の華ちゃんはどう見ても昔と違い、何か可愛く見えた。
だが二人きりになったら急に昔の様な感じに戻った。キスしないのか聞いて来たり。華ちゃんは一人暮らしだった。部屋に寄っていっ て良いと言われたが一旦警戒しておいた。
翌々日に友達を間に入れて会った。カプリチョーザだったかに行った気がするが華ちゃんはアイスしか頼まずちっとも食わなかった。 それでも会計の時「一緒に楽しい時間を過ごしたんだから三人で割り勘する」と言っていたので好感を持った。アイス代なんかこっち で払ったけど一時期同棲してた人は一切自分は金払いません的な女で辟易していた。薄汚い感じだった。あれ系の人とは暮らせないし付き合いたくないと思っていた。
車の中でキスした。ある程度多彩なキス表現を学んだつもりの人生だが華ちゃんはレベルが高かった。甘噛みの連続の様な感じだ。唇 だけに留まらず耳にいったり首にいったりして来る。エッチの入り口でしておいて今日は泊まらないの?とか言って来た。
物は食わないがキスは上手い人は今まで見た事が無い。肉と酒が好きな女はキスが上手い傾向にあった。そういった基本情報が一回溶 けて消える。華ちゃんはこんな子だったと思い出して来た。
華ちゃんの部屋は女子大生の部屋の雰囲気だった。玄関でアジア雑貨の様な何かの香みたいなものを焚いていた。微かな匂いだから気 にならなかったけどあまり好きじゃないから消してと頼んだら直ぐ消してくれた。意外だったがタバコを吸うというから付き合うのならタバコは止めて欲しいと言っておいた。 華ちゃんは簡単に肯いて「いいよ」と言った。昔とは少しやっぱり違う様で言う事を聞く子になっていた。
シャワーを先に使って良いと言われたがシャワーはどうでも良いので服を脱がそうとした。お互い仕事帰りでスーツだった。華ちゃんは大学に通いながら塾講師をしていた。あの朝田さんと似た様な仕事だ。
「体に傷が有る」といきなり言われた。義理の親に刺された傷や何かが有るという話だった。思っていた以上にヘビーな話で何も言えなかったが、それであらゆる事柄が確認出来た気がした。それなら普通でいられるわけがない。華ちゃんが普通じゃないのはそれで分 かった。電気を消していたからあまり傷は見えなかった。その時部屋が明るくて見えていたら出来なかったかも知れない。酷いとか酷 くないの話じゃなかった。段階を踏んで華ちゃんの今までの時間を知っていった、知っていった気になっていたわけだが知り尽くした と思った時には婚約していた。
華ちゃんが住んでいた部屋は四部屋しかないアパートで内三室が空き家だった。周囲の喧騒は無くて静かで落ち着けた。その頃実家で 妹が親に暴力を振るう様になっていたから実家に戻っていた。 俺がいる事で妹を牽制出来ていたわけだが、母親がプライベートに口を出して来るのが苦痛で仕方なかった。携帯を勝手に見られるのでパスワードを設定していた。付き合っていた人に母親が電話をかけていた事も有る、面倒過ぎた。
華ちゃんの家に避難する様になっていった。週に三日位は行って泊まっていた。段々と華ちゃんの体の調子というか精神状態が悪いと いうのを知っていった。
それはヘビーだとかの形容では表し切れない事だった。大学病院の精神科で華ちゃんの主治医から説明を受けた。多重人格なんてビリ ーミリガンだかの本でしか知らない。あれは一応読んだ事が有るが 今一つ意味が分からなかった。

: side C /thirties-a

華ちゃんと付き合って以降の毎日は異常な事の連続であまり覚え ていられて、いない。
父は結婚したいと言ったら無関心だった。母は誰を連れて来ても粗探しするだろうから「俺はこの子と結婚したから」 と事後報告的に示した。婚姻届の証人は父と華ちゃんのお姉さんだった。結婚式は念頭に無かった。大体にして仕事が忙し過ぎた。
華ちゃんのお姉さんには「本当に良いのね?結婚したら最後まで面倒見るしか無いよ」と言われた。「華ちゃんが良いので」 と応えた。お姉さんは華ちゃんの病気を知っていた。病院にも話を聞きに行っていた。だが積極的に治療を勧めるという構えでもなか った。お姉さんは義理の親が来てからの記憶を喪失する事で人格に異常を来さなかったそうだった。
華ちゃんのその義理の親には会った。結婚の挨拶ではない。そんなものをそいつにする必要は無いからだ。だからただ会っただけだ。 俺はそいつを目にしておくべきだと思った。華ちゃんのお母さんにも会った。一応普通に焼き肉をご馳走になったが、そこは華ちゃん の実家では無いそうで意味がよく分からなかった。華ちゃんは小学生の頃一時的に養女に出されてもいたらしい。そのせいかお母さん は華ちゃんに無関心だった。その応対の仕方を見て俺は華ちゃんを守って行かないとならないと思った。義理の父に当たる人だが見る からに頭のイカれた感じだった。説明しようが無いのだがどっかの店でたまに店員にキレて怒号を上げて警察呼ばれる様な人がいるが 、あれ系。煽り運転と暴力沙汰で捕まってニュースに出る様なタイプと言うと想像し易い。俺にも理由無しにキレて来たが華ちゃんが 固まってるから何もしないし言わないでおいた。「はあ…。」 としか言いようが無い。華ちゃんのお母さんはその場で無関心だっ たから華ちゃんが虐待されてる間も無関心だったんだろうと考えが至った。
虐待の内容は華ちゃんの為に深く掘り下げて書きたくない。病院で聞いた限りでは一番酷いのがやはり性的虐待だった。性的だが身体 的虐待と混同した内容だった。大抵の事には何も感じない俺ですら、おぞましいという感想が出たのだから子供の内にそんな事が有れ ば死ぬ人の方が多いんだろう。怪我が元と言うより例えば人を殺す事で自我を保つとか、そっち方向に行くんじゃないだろうか。
所々華ちゃんの記憶が抜けていて無いのは救いだが華ちゃんじゃない華ちゃんの人格の幾つかはそれを記憶していた。ややこしいが華ちゃんは、そうした事件があった時は気絶していた状態らしい。 その間の記憶を引き受けていた人格がいて、そいつは華ちゃんじゃないそうだ。おぞましい記憶を共有している人格は他にもいるのだが華ちゃんには記憶が無いし華ちゃんはその人格の存在も知らない 。
だから言葉が変わるのかとか表情が変になるのかと、すっきりしたと同時に更にすっきり出来なくなった。華ちゃんは人格が入れ替わ ると記憶を失くした。他の人格というのは名前を名乗る場合も有ったがケケケと笑ってたりするだけだったり、相当怖かった。 なるほどね、と思って見ていたのだが人に話すには色々と度が外れた事で話せなかった。可笑しいかも知れないが俺はそうなっている華ちゃんが、大事な存在だった。対峙した人格によるが稚いとか儚いだとか愛おしいだとかの感想を持った。無気味だろうが生きようとする為に発生した人 格なわけだから全てが華ちゃんなんだから何とか生きて行かせるしかない。
高良が知ってたのかどうかだが、知らなかったそうだ。高良にしか話せそうにない。高良には華ちゃんと付き合う事になってから高良 の元カノだっけという顔すら見せずに今こんな子と付き合ってると言ってやった。高良はいつも通り何の事を考えてるか分からない顔をしていた。「そうか」と言っていた。もっと泥々した顔を見せ てくれれば面白かったのだが。それで高良に華ちゃんについて相談を持ちかけてやった。別に高良が本気で嫌いなわけじゃないが昔高良に利用された様に今度はこっちから利用、いや活用してやると思っていた。高良を活用、役に立つから。華ちゃんがなかなか妊娠しないんだよねと教えた。華ちゃんに子宮の病気や奇形が有る事も高良は知らなかった。高良が華ちゃんと付き合 っていたのは中高の時でしかない、華ちゃんの病気に向き合えてい たとは思わない。それに向こうから俺を利用して来たわけだから仕返して当然だ。高良を追い詰める事なんか華ちゃんが絡んでいなければ不可能だったろう。
高良の事はともかく華ちゃんの頭の病気は深刻だった。暴れる人格もいた。そいつになると女の力じゃなかった。早い段階で統合、統 合とは華ちゃんに溶ける形だがそれになってくれて助かった人格だ。何で暴れてたのか動機が分からないままだったがそいつは受けた 暴力をそのまま出す様な人格だった。俺は最初に敵認識されてそいつに顔を殴られたのだが口は切れたし後から聴覚に異常が出た。それくらいの力だった。殴られて首が横に振れるくらいの力。女に殴られたのは実は初めてじゃないが、あんなのアリかって力だった 。しかも病気で痩せている華ちゃんが、だ。人間の筋力は思ってい るよりは大きい。人格は違っても体自体が華ちゃんなので抑えるし か道が無い。あの時は殺しそうになった。顔にコンビニのビニール袋を被せて首の所で縛って酸欠にさせて抑えた。 意識が無くなると華ちゃんに戻った。一つ違ってたら殺していたと思うがそれならそれで仕方なかっただろう。 運が良かったのかもだった。だが華ちゃんの意識上では俺が華ちゃんに暴力を振るった形になる。 他人格というのは卑怯で急に華ちゃんを押し出して来たり、都合によって華ちゃんの意識を潰したりする。内部で人格が犇めき合って暴走している感じだ。華ちゃんは気付いたら俺に袋を被せられて首まで縛られていたわけで、しばらく頭を撫でようとしても怖がられた。この頃は何かもう世の中の常識とかが崩れ去っていた。華ちゃんを止めないと俺が殺され てただろう。DVが何たらと外から見てるだけの高良なんかに言われたくない。高良は傍観者でしかない。高良は華ちゃんが自殺しようとしていたらちゃんと対応出来ただろうか。高良だったら例えば華ちゃんが風呂に水を張って頭を突っ込んで窒息しようとしていた時に多分そのまま殺した気がする。楽にしたいとか短絡化した思考になる気がする。高良は真面目だからだ。はっきり言って精神障害のある人に真剣に向き合ってたらこっちが病気になる。俺が真剣じゃなかったわけじゃないが実家に頭のおかしい母と妹がいたから、 ある程度は慣れていた。流し方も。
色んなプレイをさせてくれる可愛い子の人格もいたが、それで結婚したわけじゃない。俺は要は暇だった。仕事して帰って寝るだけで いつか結婚して子供が出来ても仕事して帰って寝るだけが続く人生 。で、あっさり死ぬ。その間浮気したりするかも知れないし奥さん になる人が母と嫁姑の戦いを繰り広げて面倒になり適度な距離を保ち誰からも逃げるだろう。こんな人生は糞だ。
華ちゃんといると起きる全てが非日常だった。生きてる感覚を味わえた。スリリングと言ってしまうと陳腐だが生きるか死ぬかだった からだ。華ちゃんが生きるか死ぬかだから。華ちゃんの精神や存在は言い表してみると真っ白い。それがこの世で起きた事、良い事にしろ悪い事にしろを白い部分に色で出して行く様な感じだ。 だから華ちゃんは絵を描くのだろう。白い元の精神に戻してやりた いと思っていた。
高良に俺は性欲に関しては病気だと言われた事が何度か有る。華ちゃんと結婚してから休みの日は三、四回していた。平日にしても自 宅に帰れる日は必ず二回はしていた。会社に泊まりになる日は一度やりに自宅に帰った。華ちゃんがさせてくれるからだが、 やらないと仕事にならない。時間が無ければ俺は何もしなくて良かった。玄関で立ったまま抜いて貰うか、シャワー次いでに浴槽に座っていれば華ちゃんが洗ってくれながら抜いてくれる。疲れていて睡眠不足の時はベッドに横になっていれば意識が朦朧とした中でも華ちゃんがマッサージしながら抜いてくれる。言って仕舞えば幸せだった。
それが華ちゃんの所業なのかと言われたら違う場合もあった。他人格で「ミキ」と呼び捨てして来る人格だ。華ちゃんには結婚してか らも君付けで呼ばれていた。呼び捨てする人格は高校の時に会っていた。そいつは俺の事を覚えていた。「あなたの事は覚えている」 と言われた。「69しましょう」とか普通に日常会話の中でいきなり言い出す。騎乗が半端無く上手かった。 顔付きが全然華ちゃんとは違う。それで華ちゃんをバカ呼ばわりしていた。高良の事も認識して記憶していたが高良に対してさえもバカ扱いしていた。「あの男は我慢が利くから我慢させると凄く良いの」みたいな事を平気で俺の前で言っていた。しかも俺の指や何かを咥えながら言いやがる。俺は我慢が利かない男と言われているのと同義だが俺はこの人格は結構好きだった。
華ちゃんは薬漬けだった。薬のシートから何錠も破って飲んでいた 。薬を減らし始めたのは妊娠してからだ。妊娠については子宮奇形 で妊娠しにくいと婦人科医に説明されていた。 子供が出来たと華ちゃんに報告された時、俺は違和感を持った。勘が働いた。その勘は半分当たりで半分外れていた。華ちゃんが俺の前に付き合っていた脳外科の医者の子だと感じた、華ちゃんは誰かと会っている気配がしていた。俺が出張でいない時にだと思うのだが。華ちゃんの携帯は見たけど尻尾は掴めない。華ちゃんの携帯を見る事に罪悪感は無かった。その頃華ちゃんは専業主婦だったから俺が携帯代を支払っていたし華ちゃんは頭の病気だからだ。精神障害の中でも重度の認定だった。日常生活内で介助が必要。放置しておくと突然変な電話が知らない男からかかって来たりした。

 

:side C /thirties-b
仕事中によく電話が来て「苦しい、苦しい」と華ちゃんは言った。 今まで飲んでいた薬を飲まない様にする事がそんなに難しいとは信 じ難かった。
初期には俺も苛ついて華ちゃんに冷たく当たる事が頻繁に有った。 電話に出ないとか。華ちゃんは夕飯が作れない状態が続いた。とな ると外食になるか実家で食べるかになる。華ちゃんは夕飯だけでな く一日中寝ていて朝も昼も食わずせいぜいパウチの梅粥を食べる程 度だった。
病院では薬絶ちの指導は無かった。多剤を処方しておいて無責任だ った。院内の患者相談室にクレームを入れてみたが意味は全く無か った。
妊娠中だからでなく華ちゃんは薬絶ちのせいで変になっている様に 感じた。他の人格がどうなってるかとかじゃなく他の人格の方が素 面な気がした。他の人格は妊娠もしてないし妊娠した身体の認識も 無いし薬剤を多用した意識が無いんだから当然だ。主人格の華ちゃ んは狂っていく一途だった。
自殺未遂をよくやっていた。十回目位になると「またか」程度に麻 痺してて感じた。心臓近くを切ったりしていた。血はボタボタ垂れ て出てたけど死ぬレベルじゃない。俺はそれに対し治療しなかった 。してやる時も有ったけど何で俺を置いて死のうとした人を治療し てやらないとならないのかと。治療するにしても嫌々したし文句も 言った。大抵は血だらけなのは上半身だけだから普通にスーツだけ 汚れない様に脱いでからやって寝て、その日が過ぎて行った。普通 に血塗れの胸を揉んだりしていた。昔の華ちゃんといる時は頭がお かしくなっていた。華ちゃんは朝起きたら自殺未遂の事を忘れてい たりした。他の人格が手当てを終えている。自殺未遂で傷を付けた 人格も別だという事。華ちゃんはバカで無邪気で可愛い、忘れてて 甘えて来て膝に乗って来たり抱き付いて来たりもする。時間さえ稼いでおけば平和。
妊娠中なわけだから安静にはさせていた。プリンとコンビニのおで んは口に押し込めば多少は吐かずに食っていた気がする。産婦人科 の健診にも連れて行っていたしマザークラスとか病院の指導にも一 緒に参加した。
結婚生活の中で最も安らかに過ごせていた時期に思う。邪魔が入ら なかったというか。華ちゃんは俺にしか頼っていなかった。友達に 連絡を取るのもほぼしていなかった。外出も無かった。高良とも。 メールはしていたが会っていなかった。
高良が華ちゃんを気にしているのは知っていた。二人のメールも華 ちゃんの携帯を見て読んでいたが高良は友達から逸脱した内容を華 ちゃんに書いて寄越す事は無かった様だ。もしかすると華ちゃんが 内容によっては高良からのメールを消していたのかも知れないが。
華ちゃんの腹の中にいるのが誰の子供なのかを考えない様にはして いた。一番可能性が有るのは俺の子供だし。この時点に於いては高 良の子供なんて事は思ってもみなかった。後に離婚の話の中で俺は 無精子症だったと分かる。華ちゃんが勝手に検査キットを専門機関 に送って調べていた。それについても一悶着有ったがここでは省く 。しかし何らかの感染症の既往も無いし何でだろうなとは思った。が、欠陥とは感じなかった、だから特に治療もしていない。今の所 は利点しか感じない。それは子供を欲しいと思う動機が失せたから だ。以前は普通に子供を持つ将来だと思っていたし女の子なら育て てみたかった。男なら要らなかった。 俺に似た男なんて寒気がする。父がこの思考だったのかも知れない と今は思う。あの無関心さを窺うと俺の存在は厭悪だったのかも知 れない。俺の価値観が変わっているのは分かっている、こんなだから子供を持たない人生なんだろう。
華ちゃんはガリガリのままで腹だけ膨らんでいった。そういうもん なんだろうと思っていたから何とも感じなかった。体位さえ気を付 ければ可能だったから支障は無い。別に華ちゃんは断りも嫌がりも しないし、仮に仕事が詰まっていて帰らないと電話が来た。 用事は直で「今日は抜かなくていいの?」だった。 声が華ちゃんと同じだから、あれが華ちゃんだったのか華ちゃんじ ゃない人格だったのか今でもどっちでも良い。高良の様にいちいち 気にする繊細さは俺には無い。人格が複数有る障害の人と納得して 結婚したんだから気にするエネルギーなんかその度に使う必要は無い。
子供は急に産まれて気付いたら俺の子供として目の前にいた感じだ 。大体の男にとってはそうなんじゃないかと。自分で産むわけじゃないから。子供は寝てるだけでほぼ泣かない。友達の子供はギャー ギャー泣くタイプだったから赤ん坊にも当たり外れが有るのかと思 っていた。名前は華ちゃんが付けた。子供の名をここでは紅ちゃんとする。
はっきり言って俺は紅ちゃんにノータッチだった。まだ喋らないか ら遊べないし。華ちゃんが「抱っこしてあげて」としつこいから、 たまに抱っこはした。おんぶは一回もした事が無い。
仕事では出張が続いた。二週間単位だった。東京・大阪が多かった 。人生で最も真面目に働いた時期だ。出張中はホテル暮らし。執行役員は微妙な立場で経営には口を出せない。幹部の良い様に使われ るだけだった。朝九時出勤して夕方仮眠して朝三時四時迄仕事、 それが普通。下手すれば朝六時迄ぶっ通しで仕事、 また三時間後に出勤。ブラックも良い所だ。 新卒が一年保たず辞める。虫の様に働き続けてそれでやっと手取り が六十程度。糞過ぎた。遣う暇が無いから金は貯まるが、 やっていられない。よく倒れなかったもんだと思う。転職した今は 年収が半減したが体はひとまず楽だ。だが能力も半減した様な感覚 に捉われる。それは辛い。
二週間華ちゃんと会えないので自力で抜くしかなかった。一人です る概念があまり無い人生だったので新鮮と言えば新鮮。風俗は大学 時代に一度興味が有り社会科見学的に行ってみたが金を払って迄やる意義が理解出来なかったし支払った瞬間、殺伐とした。
浮気は念頭には無かった。これは自信が有る。しかし何でだったの かはよく分からない。
家に帰ってみると紅ちゃんがいるので華ちゃんは当然ながら紅ちゃ ん優先になった。出産して五日で退院だったから直ぐ出来るかと思ったけど一ヶ月経たないと無理と聞いて、なるほどねと思った。奥 さんの妊娠中や出産後に浮気する奴が多いのも肯ける。華ちゃんの 場合は口でしてくれたので問題無かったが、そうでなければ浮気した。死活問題だ。他の男がどうかは知らないし女側から見ればアホ らしいだろうが真面目に体調が狂うのでレスは無理。 浮気か離婚の二択だ。その点華ちゃんは一ヶ月待たないでさせてく れたし内容も多種だったので飽きなかった。 夫婦生活は上手くいっていた。
紅ちゃんが歩いたり喋り出す様になると関わりの持ち方が分かって 来た。何も問題は無かった。
だが、そう思っていたのは俺だけらしい。華ちゃんが占い師の仕事 で働き出して生活費の面で俺より稼ぐレベルになって来たら、 だんだん歯車が狂って来た。今迄は頼られたけど華ちゃんの意識が 自活に向いたというか。高良に入れ知恵されたんだろうと思ってい るが。
頭の治療が進んだせいも有るかも知れない。俺に言い返して来たりだとか我儘になって来た気がした。俺は華ちゃんが一生病気だった ら良かったのにと思った。
華ちゃんが癌になった事を高良に責められた事が有る。華ちゃんに 過度なストレスをかけたと言われた。それよりも華ちゃんの健康を 疎んじたからだったかも知れない。けれど今の高良が華ちゃんの病 気を歓迎している様に見えるのは、俺の視界でだけだろうか。高良 も華ちゃんが病気で家から出られず高良に頼る環境を喜んでいるんじゃないか。
高良と華ちゃんが不倫していたのは寝耳に水だった。だがショック とかいうよりは、やっぱりねという感想だった。不倫の気配には気 付かなかったが分かってみると腑に落ちた。紅ちゃんが高良の子供 だったのは流石にどういう事なのか最初から説明を求めたが高良が 本当に一から説明を始め、聞いている内にどんどんどうでも良くなって来た。
華ちゃんにDVをやっていたかどうかだが、これは否定したい。世 間ではDVになるんだろう。が、華ちゃんは違うと言っているし俺 も違ったと思っている。華ちゃんに望まれた事。 華ちゃんの病気の中での修羅場への対応。華ちゃんへの愛情表現。 高良に責められたくないし何も知らない人にも色々言われたくない 。周囲の誰もが理解出来ていないとは思う。俺の実家もそうだし友 達もそうだ。高良の親も真実は分かっていない。華ちゃんのお姉さ んは唯一中立だ。
嫌になる位に立て続けに変化が起きた。華ちゃんが手術して失敗し て死んだと思った時、俺には何も無かった。生きる意味とかが。何も。いつも通り仕事していて午後の何時だったか、高良のお父さ んから連絡が来た。高良からじゃない。華ちゃんが危篤になった/ 高良が紅ちゃんを連れていなくなった/行き先を知らないだろうかとかの連絡だった。高良が何で俺の携帯番号をお父さんに伝えてい たのか、俺は華ちゃんに何か有ったから「お前も死ね」と高良に言 われている気がした。
自殺に意思は必要無いんだなと思った。体が勝手に動いて死のうと した感覚だった。華ちゃんが過去にそうであった様に。華ちゃんは体が動くまま自殺自傷をやってたんだと分かった。死のうとした寸 前に華ちゃんの手の幽霊の様なモノも見た。死ぬか死なないかの瞬 間は何か気持ち良かった。アレをもう一度やれるならやりたい。死に救いは有るとまだ考えている。
首を吊り脳に損傷が出て、ある程度今は回復はしたが話せなくなっ た事に関しある人に女遊びし過ぎた罰だと言われた。罰とは何か考えたが分からず終いだった。受け流したつもりなんだが言われた感 情としてはやっぱりムカついたんだろうと思う、その日の夜に車でガードレールに突っ込んでみたが怪我は殆ど無く事故処理が面倒臭 いだけだった。高良に連絡したら所轄警察署と保険会社に連絡したりと手続き代行は黙ってしてくれた。話せない事で生じる面倒は高 良が肩代わりしてくれる。「世話かけるな」 と言われただけだった。
高良が死ぬ程面倒臭がる事をしてやりたいが今の所は思い付かない 。奈々ちゃんと付き合いかけた事も有るのだが高良に逆に後押しされた。奈々ちゃんも高良への当て付けの感情が有ったろうから後押 しされて拍子抜けしたんだろうと思う。一回寝たけどお互いそれだけで知り合いに戻った。その事に関する華ちゃんの気持ちは分から ず。
殺してくれと高良に言ってみた事も有る。完全犯罪の方法なんかは 高良の頭脳なら幾らでも捻り出せるだろう。「 殺すには異存無いが華が悲しむのを見たくない」という答えだった 。高良にとっては一に華ちゃん二に華ちゃんなんだろう。「生きる 方がお前にとっては辛いだろうから存分に生きれば良い」と言われ た事も有る。高良は俺に慰謝料以上の慰謝料を支払っているがそれ は俺を苦しませる為の時間を買っている感覚なんだろう。残念だが 高良が期待しているよりも俺には思考する癖が無い。反省するタチでもない。
それより俺が華ちゃんの近くである程度、満喫した生活を送るのが高良にとっては嫌だろうと考える。それでも華ちゃんが幸せだと感じていれば高良は満足なんだろうが。
仮にだが高良が華ちゃんより先に死ぬ事が有ればまた華ちゃんと結 婚出来るなと思う事が有る。華ちゃんは絶対断らないと思う、同情にしろ何にしろ。嫌われているとは高校の時と同じで今も全然思えない。